(京都府庁つづき)
明治天皇行幸所京都府庁碑
府庁正門前の茂みの中に行幸記念碑がある。明治二十年(1887)一月二十九日の行幸を記念したものである。
明治天皇御駐輦所合薬會社阯
京都府警察本部別館前に、明治十年(1877)二月一日、明治天皇が行幸したことを記念した石碑が建っている。合薬会社というのは、京都の薬業界が設立した会社で、ここで明治天皇は医療機器や薬品類を見学したという。
(京都府庁つづき)
明治天皇行幸所京都府庁碑
府庁正門前の茂みの中に行幸記念碑がある。明治二十年(1887)一月二十九日の行幸を記念したものである。
明治天皇御駐輦所合薬會社阯
京都府警察本部別館前に、明治十年(1877)二月一日、明治天皇が行幸したことを記念した石碑が建っている。合薬会社というのは、京都の薬業界が設立した会社で、ここで明治天皇は医療機器や薬品類を見学したという。
(京都市教育相談総合センター「こどもパトナ」)
明治十年(1877)六月二十八日の明治天皇の行幸を記念したもの。この日、明治天皇は上京と下京の小学校二校の授業を視察している。
高倉宮趾
明治天皇第廿九組小学校碑
外出自粛が続いているので、過去撮りためた写真から未公開のものをご紹介させていただきます。
(桜坂二丁目)
中央区桜坂二丁目の閑静な住宅街の中に加藤司書の屋敷跡を示す石碑が建てられている。
加藤司書公屋敷跡
(浄慶寺)
浄慶寺には、安田喜八郎の墓がある。
浄慶寺
贈正五位 安田勝従之墓
安田喜八郎は、天保六年(1835)の生まれ。福島太右衛門直実の二男。諱は勝従。嘉永五年(1852)六月、安田作平勝声の養子となって安田姓を名乗った。まもなく致仕し、遠賀郡に退隠した。その頃、森安平、伊藤清兵衛らと交わって尊王運動に従事した。元治元年(1864)、伊丹真一郎とともに長州に赴き、征長軍解兵について長州藩主に謁してその優遇を受け、慶応元年(1865)正月、五卿が太宰府に移ると、藩論を拝して終始この保護に尽くした。しかし、同年六月、乙丑の変に座して一族に預けられ、九月、桝木屋の獄に繋がれ、ついで斬に処された。年三十一。獄中の詠歌「憂きことの木葉とつもる我宿は 照らす月さへしのひ顔なる」が残されている。