(宝生院)
宝生院
日下開山横綱力士人幕久五郎碑
三田の宝生院の境内を入って右手に陣幕久五郎の碑が建てられている(港区三田4‐1‐29)。右は大関陣幕島之助の碑である。
なお、陣幕は現在も引き継がれている年寄名跡の一つであるが、陣幕久五郎を祖とする名跡は北陣である。
(宝生院)
宝生院
日下開山横綱力士人幕久五郎碑
三田の宝生院の境内を入って右手に陣幕久五郎の碑が建てられている(港区三田4‐1‐29)。右は大関陣幕島之助の碑である。
なお、陣幕は現在も引き継がれている年寄名跡の一つであるが、陣幕久五郎を祖とする名跡は北陣である。
(光取寺)
光取寺
最寄り駅は地下鉄白金台駅だが、住所は上大崎である(品川区上大崎1‐5-10)。墓地に十二代横綱陣幕久五郎の墓がある。
横綱力士 陣幕久五郎圡師通高墓
陣幕久五郎は、文政十二年(1829)の生まれ。十九歳の時、尾道の初汐久五郎の門弟となり、翌年大阪の朝日山に弟子入りし、嘉永三年(1850)、江戸に出て秀の山電五郎の門人となった。安政三年(1856)、阿波蜂須賀候お抱え力士となり、陣幕久五郎と改め、通高と称した。翌年正月には不知火光右衛門を倒して好角家の血を沸かした。安政五年(1858)正月、初入幕。文久三年(1863)奈々月、東の張出関脇、慶応二年(1866)三月、関脇となり、同年十一月には鬼面山を越えて西の大関となり、ついで十二代目の横綱となった。松江松平候のお抱えから、慶応三年(1867)には薩摩島津候のお抱えとなり、明治維新の際には島津氏に協力して国事に奔走し、西郷隆盛の知遇を受けたといわれる。戊辰戦争では官軍の荷駄掛かりや、京都に上って薩摩藩主島津忠義の護衛を担当した。明治元年(1868)引退し、大阪相撲総長として角界振興に尽力する一方、再び東京に出て公共事業にも力を注ぎ、東京深川公園に横綱力士の碑を建てた。晩年は不遇だったといわれる。明治三十六年(1903)、年七十七で没。
(雑司ヶ谷霊園つづき)
坂崎家之墓
(坂崎紫瀾の墓)
坂崎紫瀾は嘉永六年(1853)、土佐山内家の医師坂崎耕芸直弘の二男に生まれた。長じて斌(さかん)と名乗った。墓石の背面に「斌 大正二年三月四日」と没年月日が刻まれている。慶應三年(1867)、十五歳で藩校致道館に入学。翌年には致道館文館教句読席係となった。明治七年(1874)、愛国公党に参加。ここで土佐を代表する政治家板垣退助と出会い、紫瀾は「板垣の右筆格乃至参謀の一人」と称されるほどの存在となった。一時司法省に出仕したが、ほどなく辞職し、松本新聞を皮切りにジャーナリストの道を進む。明治十三年(1880)には高知で百做社(ひゃっこしゃ)の社長となり士族授産に尽くした。その後、高知新聞編集長となり、ここで初めて小説の筆を執った。この頃、馬鹿林鈍翁と名乗って民権講釈を試みた。しかし不敬罪で禁錮三か月の判決を受け入獄。この裁判の時期、坂本龍馬を主人公とした「汗血千里の駒」を書いた。紫瀾は、今日にも繋がる龍馬像の原型をここで描いた。下獄後も新聞社を渡り歩きながら、吉村寅太郎、河井継之助、勝海舟、林有造、山内容堂などを題材に多くの小説を書き残した。晩年は「維新土佐勤王史」の編纂に心血を注いだ。明治四十四年(1911)には維新史料編纂会事務局の常置編纂員に就任し、国史編纂にも関わったが、そのわずか一年半後の大正二年(1913)没。【1種2号3側】
(連光寺つづき)
山口泉處之墓
三年前に山口泉処の墓を探して連光寺の墓地を歩いたが、発見できずに諦めた。そのまま放置していたが、先日吉盛智輝様から「連光寺にある」という情報をいただいたので、もう一度歩いてみることにした。今回は開始して五分ほどで泉処の墓を行き当てることができた。
山口泉処は、天保元年(1830)生まれの旗本。泉処は号。名を直毅と称した。昌平黌で学び、安政三年(1856)には甲府徽典館の学頭となり、山口直養の養子となった。万延元年(1860)には目付となり、文久三年(1863)の将軍上洛に従って京都に上った。慶應元年(1865)以降、外国奉行、陸軍奉行、外国事務総裁などをつとめた。鳥羽伏見の敗戦後、慶喜とともに開陽丸で江戸に帰還。親仏派であり、勝海舟とは政見を異にしたが、維新後、向山黄村の主催する詩会「晩翠吟社」で漢詩に勤しんだ。困窮のため海舟から田安徳川家の侍講の仕事を斡旋してもらったこともあったという。明治二十八年(1895)、六十六歳にて没。
(大手町パークビル)
内務省跡
千代田区大手町1‐1‐1の大手町パークビルの前にこの地に内務省があったことを示す説明板が建てられている。
内務省は明治六年(1873)、大久保利通の主導によって設置された機関で、地方・警察・土木・宗教など広範な行政を管轄し、強大な権限を有していた。初代内務卿には大久保利通が就いた。昭和八年(1933)に霞が関に移転するまでこの場所にあった。初代の建物は木造二階建てで、鉄製の門扉は当時まで珍しく、一目をひいたといわれる。江戸時代、この場所は姫路酒井家の屋敷があったとされる。
(大手門タワー)
市内最初の並木
大手門タワーの内堀通り沿いに「市内最初の並木」説明板がある(千代田区大手町1‐1‐2)。
明治八年(1875)、この道にニセアカシアを植えたのが、東京で最初の並木といわれる。蘭学者津田仙(津田梅子の父)が、明治六年(1873)、ウィーン万国博覧会の際に種子を持ち帰り育成したもので、外来種による東京市最初の街路樹であった。現在、植えられている街路樹は槐(エンジュ)の木である。