(大塚原公園)
「道の駅ゆ~ぱるのじり」は、入浴施設と宿泊施設を完備した全国でも珍しい、道の駅である。道の駅に隣接して大塚原公園がある。おお塚原公園は小高い丘になっていて、頂上からは野尻町を見渡すことができる。
大塚原公園
道の駅ゆ~ぱる野尻
平和之礎
奉招神魂碑
展望台付近に招魂碑を集めた一画があり、そこに西南戦争招魂碑がある。野尻地区からも多くの従軍者が出ている。
小林市域からは三百六十八人が参加し、うち戦死者は五十一人。旧須木村域からは二十四人が参加し、戦死者は五人。旧野尻町域からの参加人数は不明であるが、戦死者三十二名との記録がある。
この招魂碑は、明治十一年(1878)十一月に建立され、旧野尻町域から西郷軍に参加し、戦死した人々の名前が刻まれている。元々は東麓字小立中に他の慰霊碑とともにあったのを、昭和二十年(1945)八月に日本軍の一中隊によってこの地に運ばれたものである。
正面に「奉招神魂碑」と刻まれ、その周囲に二十四名の氏名が刻まれている。
(野尻町歴史民俗資料館)
のじりこぴあという遊園地があり、そこにある城館風の建物が、野尻町歴史民俗資料館である。小林市内の遺跡からの出土品や歴史資料、民具などが展示されている。
野尻町歴史民俗資料館
西郷札展示
「のじりこぴあ」は、さすがにGW中ということもあり、大勢の家族連れで賑わっていた。遊園地の喧騒を通り過ぎて、取り残されたような静かな場所に歴史民俗資料館が建てられている。玄関は開いているが、まったく人の気配がない。照明も消えているが、どうやらセルフサービスらしい。自分でスイッチを入れて展示物を拝見するという仕組みである。西南戦争関係の展示もあり、そこに西郷札が展示されている。
西郷札は、二枚の布の間に紙を芯として張り合わせたもので、金額ごとに色分けされていた。裏面には「通用三年限」と書かれ、紙幣番号も記されていた。当初より信用度が低く、西郷軍の実効支配地域で無理やりに通用させていたものである。西郷軍の敗北とともに価値を失い、明治政府からの補償もなかったため、戦後宮崎県域の経済はかなり混乱したといわれる。
政府軍は、野尻における戦いにおいて、初めて西郷札の存在を知ったとされる。
のじりこぴあ周辺は、勝負台場遺蹟と呼ばれ、西南戦争時の九基の台場と一基の濠が残されているというが、残念なことにどこにそれがあるのか分からない。
(高妻神社)
高妻神社
招魂社
小林市野尻町紙屋の高妻神社にも西南戦争の招魂社がある。明治十五年(1882)に建立されたとされるこの石碑には、紙屋地区から西南戦争に参加し、戦死した十二名の氏名が刻まれている。昭和三十五年(1960)に高妻神社境内に移された。
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