(旧仁厳寺墓地)
二嚴寺趾
手もとの「明治維新人物辞典」(吉川弘文館)によれば、大館四郎(晴勝)の墓は、都城市興金寺にあるとされている。しかし、興金寺という寺は存続していない(おそらく廃物棄釈で廃寺となったのだろう)。そこで都城島津邸に大館四郎の墓の在り処を問い合わせた。数日して都城島津邸の方から、写真付きでご丁寧な返信を頂戴した。
大館晴勝(四郎)墓
以下、都城島津邸から得た回答である。
「大館家の現在の墓所は西墓地と仁厳寺(にごんじ)にあります。西墓地は仁厳寺にあった歴代の墓を寄せ墓し移したものです。仁厳寺の墓所には歴代の墓石等が残されています。その中に晴勝のものもあります。※晴勝の墓石は写真を添付しておきます。上記は大館家御当主からの情報提供です。」
これだけの情報があれば十分である。
仁巌寺は廃寺になって墓地だけが残されている。従って、ほとんど維持の手が入っていないので仕方ないことかもしれないが、墓地は荒れ放題であった。その中で大館家の墓所は、奥深い場所にあったが、そこにあった墓石は、晴勝の者も含め、総て横倒しになっていた。これが幕末の都城郷を主導した人物の墓の有様かと、暗澹たる気持ちになった。
大館四郎は、文政七年(1824)の生まれ。諱は晴勝。雅号に添山、あるいは桐園。藩校明道館で漢学を修め、のち国学を新納時昇に受けた。家は世々連歌師であった。天保十三年(1842)、京に赴き、連歌、和歌、国学を学び、弘化元年(1844)、帰郷、物頭役となった。文久二年(1862)二月、領主の命を受け、京、江戸の状勢を探るとともに、平野國臣と交わった。明道館学頭となったところで、文久三年(1863)五月、誠忠派幽閉の難にあった。慶應元年(1865)、再び明道館学頭となり、慶応四年(1868)、老職に進み、戊辰戦争では在郷して領主後見島津久本を補佐した。のちに鹿児島藩民事奉行となった。明治四年(1871)、年四十八で没。
(都城島津邸)
都城島津邸
都城島津邸のある場所は、芳井崎と呼ばれていた。明治以降、都城島津家当主の邸宅となり、よく旧態を今に伝えている。観覧料百十円。
都城島津邸庭園
昭和天皇宿泊の部屋
昭和天皇がご使用になった部屋、浴室が当時のまま保存されており、当時の食事のレプリカと調度品も展示されている。寝室や浴室などは今でも一流ホテルの部屋として通用しそうな高級感である。
帰り際に受付で「大館四郎や隈元陳貫の墓の場所を問い合わせた者です。ここに来る前に寄ってきました。御担当によろしくお伝えください」と御礼をお伝えした。残念ながら、回答を送っていただいた方は不在であった。
(旭丘神社祖霊社)
この場所は維新前龍峰寺があった。維新後、廃寺となり、祖霊社が置かれたが、龍峰寺の都城島津家の墓地などはそのまま残されている。
旭丘神社祖霊社
義烈塔
義烈塔は、安政五年(1858)十一月、二十五代島津久静(ひさなが)によって建立されたものである。都城島津家の元祖北郷資忠(ほんごうすけただ)から十二代の忠能に至る間に、戦死、殉死した家臣五百五人の名が刻まれている。彼らの霊を慰めるとともに、先祖の領主に対する忠誠を顕彰することで、現在および将来の家臣が、ますます都城の発展のために忠勤を尽くすことを願って建てられたものである。
都城六烈士殉難慰霊碑
都城六烈士とは、慶応三年(1867)の末、本藩に従い都城島津家でも、島津私領一番隊として出兵した。大阪より伏見に移り警護をする中、六人の隊士が任務遂行の途中、佐幕派諸士と遭遇した際、戦うことなく復命したことを誹謗された。彼らは自らの命をもって、任務の正当性と武士の誇りを貫き、全員割腹を選んだ。内藤利徳、大峰兼武、安藤利次、野邊盛次、坂元正備、横山貞明の六名である。彼らの墓は京都にあるが、平成二十九年(2019)十二月、帰郷叶わなかった彼らの霊を慰めるため、この慰霊碑が建てられた。
元帥陸軍大将従一位大勲位功二級
子爵上原勇作墓
上原勇作は、安政三年(1856)、薩摩藩領都城の生まれ。陸軍軍人。明治十四年(1881)よりフランス留学。日清戦争に出征の後、工兵監、第七師団長などを経て、大正元年(1912)、第二次西園寺内閣では陸相となり、陸軍内反長州派の期待を集めたが、同年十二月、二個師団増設問題の責任を負って辞職。大正政変のきっかけを作った。その後も、第三師団長、教育統監を歴任して、参謀総長に昇った。袁世凱政権打倒工作やシベリア出兵など侵略的な大陸政策を推進し、政友会や長州閥とも対立的関係あった。昭和八年(1933)、東京にて没。故郷である都城に分骨墓が設けられた。
都城島津家墓地
仁量院(島津久統の墓)
功山義融大居士(島津久倫の墓)
贈従四位 高顯院殿傑心泰道大居士
(島津久静の墓)
島津久静(ひさなが)は、天保三年(1832)の生まれ。父は島津久本。安政三年(1856)六月、家を継ぐと同時に東目(大隅・日向地方)海岸防御総取となった。安政六年(1859)、肥田景正をして京・江戸の情勢を探らせた。同年閏三月、勇壮を選出して三隊とし、さらに馬廻一隊を備えた。文久二年(1862)二月、島津久光上京に先立ち大館四郎、木幡量介、隈元陳貫ら六士に命じて情勢を探らせ、同年四月、兵三百を率いて伏見に至り、五月二十二日、久光の東下に替って禁闕を警衛中、にわかに病を発して伏見に没した。年三十一。北郷資雄、同資知らは喪を秘して責任を全うした。
恭徳久寛主命(島津久寛の墓)
島津久寛は安政六年(1859)の生まれ。父は島津久静。文久二年(1862)八月、四歳で家を継ぎ、祖父久本が後見した。慶應元年(1865)三月、宗藩の命により太宰府の三条実美ら五卿を護衛した。慶應三年(1867)、兵制改革により小銃二一小隊、大砲一隊を編成、七月に禁闕守護に一小隊を派遣。都城一番隊と称した。慶應四年(1868)正月、鳥羽伏見の報至るや、飫肥、高鍋、延岡藩の動静に備え陣を細島におき、ついで戊辰戦争には都城一番隊、二番隊を出軍させ、各地で戦績を挙げた。明治二年(1869)七月、采邑を宗藩に奉還して世禄千五百石を受け、鹿児島に移居。明治十二年(1879)、都城に再任し、当地で没した。年二十六。明治二十四年(1891)の養嗣子久家の受爵(男爵)は久寛の功による。
豐徳久本主命奥津城(島津久本の墓)
島津久本は享和三年(1803)の生まれ。父は島津久統。天保五年(1834)十一月、百姓寄合田の制を設け、民間救恤の資とした。天保十一年(1840)以来、洋式剣銃隊を編成。武器工場を置き、嘉永二年(1849)、領民に牛痘をうえさせ、安政元年(1854)、宗藩主島津斉彬より東目(大隅・日向地方)海岸防禦総頭取を命じられ、安政二年(1855)、諸庫の旧貸金四万四千両を免じて領内家政の緩和を図り、四千八百両をもって貧民に土地を与えた。木幡量介を大阪に派遣して篠崎小竹に学ばせたほか、領内の稽古館を明道館と改称して、学業を奨励した。安政三年(1856)、家督を久静に譲って隠居したが、子久静、孫久寛の幕末維新時の活躍は、久本の治績に拠るところが大きい。文久二年(1862)以降は、久寛の後見となった。明治元年(1868)、年六十六で没。
(明道小学校)
明道館は、安永七年(1778)に稽古所として設立されたが安政三年(1856)に明道館と改称された。明道館には坂本正衡が定めた学制三章があり、今も校舎の壁に高々と書かれている。
- 人倫を明らかにすること(人として守るべき秩序を認識すること)
- 礼儀をもって先とすること(礼儀を重んじること)
- 自ら行うこと(自ら率先して行うこと)をもって主となすこと
明道館跡
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