(峠の石清水)
峠の石清水
県道105号線を美里から宇城市街方面に進行すると、峠の石清水という湧き水がある。この石清水は標高二六五メートルの蕨野断層から自噴し、古来涸れたことがないという湧き水である。西南戦争では、三月二十六日、敗走する薩軍がこの地(芥神峠)の洞窟に陣所を構えて立て籠もり、石清水で飯盒炊きしながら駐屯した。二十八日未明、石清水を水筒に汲んで、雪明りをついて難所の白石野越を、積雪を掻き分け中山郷へ遁走した。
(娑婆神峠古戦)
娑婆神峠の石畳
県道224号線の旧小川町と旧豊野町(いずれも現宇城市)との境に娑婆神峠がある。
娑婆神(さばかみ)峠は、北へ通じる幹線路であった。この峠は、大切な道路であると同時に戦乱においては要塞にもなった、西南戦争においても戦場となっている。
娑婆神峠
娑婆神峠の旧豊野町側、旧小川町側いずれも昔の道が残されている。
(新久具橋)
日奈久に上陸した官軍との小川町での戦闘に敗れた薩軍は、松橋町一帯に強固な陣地を築いた。薩軍にとっては「最後の砦」であった。結果的に、この戦いに敗れたことが、熊本城を取り囲む薩軍の敗走を決定付けた。
新久具橋
旧国道3号の久具交差点北側、大野川にかかる新久具橋(当時は久具橋)では、三月三十日、川を挟んで対峙していた両軍の主力が激突した。豪雨で薩軍の火縄銃は役に立たなかった。今はコンクリート製の何の変哲もない橋であるが、当時は石造りの眼鏡橋で、薩軍は敗走する際に破壊した。
松橋を占領した官軍は、四月一日、木原山から烽火をあげて熊本城に籠城する鎮台に勝利を知らせた。激戦となった松橋町であるが、現在当時の戦いを伝える石碑や史跡は残っていない。
(永尾官軍墓地)
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永尾官軍墓地
旧不知火町の永尾地区に官軍墓地がある。この周辺も西南戦争で激戦となり、多数の戦死者を出した。その多くは東京、大阪、名古屋、広島の各鎮台の将兵であった。不知火町松台にも野戦病院が設置され、ここで死去した兵二十七名と、各地における戦死者合わせて百五十名をここに葬った。内訳は将校十名、下士官に従三名、兵百十七である。
(郡浦神社)
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郡浦神社
三角町の郡浦神社は、神風連の挙兵に参加した甲斐武雄が神官を務めていた。甲斐武雄は警吏に捕えられ、明治九年(1876)十二月、熊本臨時裁判にて禁獄百日の刑に処された。
郡浦神社境内に「神風連六烈士ゆかりの地」と記された石碑がある。神風連の乱に加わった加々見十郎、古田十郎、田代儀太郎、その弟田代儀五郎、森下照義、坂本重孝の六人は、ここまで逃げて来たが、大岳山(標高四七八メートル)山頂にて自刃した。
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神風連六烈士ゆかりの地
森下照義は第一部隊に属して鎮台司令長官種田政明を襲った。二十四歳。
古田十郎は第三部隊所属。歩兵第十三連隊長与倉知実中佐を襲撃した。二十六歳。
坂本重孝は、第五部隊に属し、県民会議長太田黒惟信を襲撃。二十一歳。
第一隊本部に属した田代兄弟と加々見十郎は、砲兵第六大隊を襲撃した。田代儀太郎は二十六歳、儀五郎は二十三歳、加々見は四十歳。
(大岳山)
大岳
神風連六烈士が自刃した大岳山山頂を目指した。山頂には「神風連六烈士自刃之跡碑」があるという。まず自動車で行けるところまで行く。対向車がきたらとても離合できないような狭い道が続く。大きな陥没があったり、こぶし大の石が転がったりしていて、神経をすり減らす。雑草がひざ丈まで伸びている地点で自動車を乗り捨て、そこからは徒歩で山頂を目指した。急な坂道で、途中ロープにしがみついて登るような場所もある。一気に息が上がり、汗が噴き出た。結局、山頂が見えないまま登頂は諦めた。この時点で午後五時を迎えており、このまま登山を続けると下山時に日が落ちてしまうリスクがあった。勇気ある撤退?というやつでしょうか。大岳山登頂は次の機会に再チャレンジすることとしたい。
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峠の石清水
県道105号線を美里から宇城市街方面に進行すると、峠の石清水という湧き水がある。この石清水は標高二六五メートルの蕨野断層から自噴し、古来涸れたことがないという湧き水である。西南戦争では、三月二十六日、敗走する薩軍がこの地(芥神峠)の洞窟に陣所を構えて立て籠もり、石清水で飯盒炊きしながら駐屯した。二十八日未明、石清水を水筒に汲んで、雪明りをついて難所の白石野越を、積雪を掻き分け中山郷へ遁走した。
(娑婆神峠古戦)
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娑婆神峠の石畳
県道224号線の旧小川町と旧豊野町(いずれも現宇城市)との境に娑婆神峠がある。
娑婆神(さばかみ)峠は、北へ通じる幹線路であった。この峠は、大切な道路であると同時に戦乱においては要塞にもなった、西南戦争においても戦場となっている。
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娑婆神峠
娑婆神峠の旧豊野町側、旧小川町側いずれも昔の道が残されている。
(新久具橋)
日奈久に上陸した官軍との小川町での戦闘に敗れた薩軍は、松橋町一帯に強固な陣地を築いた。薩軍にとっては「最後の砦」であった。結果的に、この戦いに敗れたことが、熊本城を取り囲む薩軍の敗走を決定付けた。
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新久具橋
旧国道3号の久具交差点北側、大野川にかかる新久具橋(当時は久具橋)では、三月三十日、川を挟んで対峙していた両軍の主力が激突した。豪雨で薩軍の火縄銃は役に立たなかった。今はコンクリート製の何の変哲もない橋であるが、当時は石造りの眼鏡橋で、薩軍は敗走する際に破壊した。
松橋を占領した官軍は、四月一日、木原山から烽火をあげて熊本城に籠城する鎮台に勝利を知らせた。激戦となった松橋町であるが、現在当時の戦いを伝える石碑や史跡は残っていない。
(永尾官軍墓地)
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永尾官軍墓地
旧不知火町の永尾地区に官軍墓地がある。この周辺も西南戦争で激戦となり、多数の戦死者を出した。その多くは東京、大阪、名古屋、広島の各鎮台の将兵であった。不知火町松台にも野戦病院が設置され、ここで死去した兵二十七名と、各地における戦死者合わせて百五十名をここに葬った。内訳は将校十名、下士官に従三名、兵百十七である。
(郡浦神社)
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郡浦神社
三角町の郡浦神社は、神風連の挙兵に参加した甲斐武雄が神官を務めていた。甲斐武雄は警吏に捕えられ、明治九年(1876)十二月、熊本臨時裁判にて禁獄百日の刑に処された。
郡浦神社境内に「神風連六烈士ゆかりの地」と記された石碑がある。神風連の乱に加わった加々見十郎、古田十郎、田代儀太郎、その弟田代儀五郎、森下照義、坂本重孝の六人は、ここまで逃げて来たが、大岳山(標高四七八メートル)山頂にて自刃した。
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神風連六烈士ゆかりの地
森下照義は第一部隊に属して鎮台司令長官種田政明を襲った。二十四歳。
古田十郎は第三部隊所属。歩兵第十三連隊長与倉知実中佐を襲撃した。二十六歳。
坂本重孝は、第五部隊に属し、県民会議長太田黒惟信を襲撃。二十一歳。
第一隊本部に属した田代兄弟と加々見十郎は、砲兵第六大隊を襲撃した。田代儀太郎は二十六歳、儀五郎は二十三歳、加々見は四十歳。
(大岳山)
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大岳
神風連六烈士が自刃した大岳山山頂を目指した。山頂には「神風連六烈士自刃之跡碑」があるという。まず自動車で行けるところまで行く。対向車がきたらとても離合できないような狭い道が続く。大きな陥没があったり、こぶし大の石が転がったりしていて、神経をすり減らす。雑草がひざ丈まで伸びている地点で自動車を乗り捨て、そこからは徒歩で山頂を目指した。急な坂道で、途中ロープにしがみついて登るような場所もある。一気に息が上がり、汗が噴き出た。結局、山頂が見えないまま登頂は諦めた。この時点で午後五時を迎えており、このまま登山を続けると下山時に日が落ちてしまうリスクがあった。勇気ある撤退?というやつでしょうか。大岳山登頂は次の機会に再チャレンジすることとしたい。
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