史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大洗 Ⅱ

2009年08月01日 | 茨城県
(願入寺)
 大洗の願入寺は、諸生党(門閥派)水戸藩兵が立て籠っていた。頼徳は願入寺攻撃を命じ、兵八百が銃撃しながら境内になだれ込んだ。戦闘は大発勢の圧勝に終わった。この戦闘で願入寺は全焼した。


願入寺

 願入寺の境内に資料館がある。資料館の建物は石岡の照光寺にあったものを移築したものらしい。照光寺は藤田小四郎ら天狗党の一軍が宿舎とした寺院である。柱に残る刀痕は彼らの仕業だという。


天狗党による刀の傷跡

 資料館には徳川慶喜の長持ちや斉昭の書などが展示されている。入場料300円はリーズナブルである。


慶喜公御使用長持ち

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ひたちなか

2009年08月01日 | 茨城県
(湊公園)
 夤賓閣は、元禄十一年(1698)、徳川光圀によって日和山台地の上に築かれた水戸藩の別邸で、湊別館、湊御殿、浜御殿とも呼ばれた。建物は元治甲子の乱で焼失し、現在は光圀が明石から取り寄せた松の木のある湊公園となっている。


日和山

 それまで天狗勢とは一線を画していた大発勢であったが、諸生党に水戸城入城を頑なに拒否され、さらには砲撃を受けたことを機に戦闘状態に陥った。ここにきて天狗党と共同で戦うことを決めた。
 このとき諸生党の兵は夤賓閣に拠っていたが、武田魁介(耕雲斎の二男)、天狗勢(藤田小四郎、飯田軍蔵ら)、金子勇二郎(金子孫二郎の二男)隊らの突入を受け、散り散りになって潰走した。夤賓閣を巡る戦いは、頼徳軍(大発勢)の勝利に終わった。


夤賓閣(いひんかく)址

 大発勢は局地戦では勝利を得たが、本来宍戸藩主松平頼徳は、藩内抗争を収束させるために、藩主慶篤の目代として派遣されたものである。それが、一時的とはいえ藩内の尊攘激派である天狗党と手を結んで、門閥派と戦火を交わしてしまったところに、そもそもの過ちがあった。同年九月、頼徳は「計略がある」という周囲の説得を抑えて幕府追討軍本陣に下るが、直ちに切腹を命じられた。年三十六であった。

(華蔵院)


華蔵院


記念碑

 華蔵院はこの争乱により仁王門を残し、全て焼き尽くされた。堂宇が再建されたのは、明治十四年(1881)のことという。これを記念して、本堂正面に記念碑が建てられた。題額の揮毫は、山岡鉄舟。鉄舟は難治と言われた水戸の初代県参事をつとめるなど、水戸とは所縁が深く、県内には多くの鉄舟の書が残されている。

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笠間 Ⅱ

2009年08月01日 | 茨城県
(笠間稲荷)


笠間稲荷

 この日は大洗、水戸を経て笠間に至った。二回目の笠間である。前回は予習不足で目的地に行き着かなかったが、今回はそれなりに準備をしたつもりであった。
 にもかかわらず、予定のスポットの半分は行き着くことができなかった。寺や神社は地図に載っているので何とかなるが、「川又茂七郎自刃の地」とか「天狗党員首塚」「阿弥陀堂」などはいくら走り回っても見付けられない。遠方からの訪問者にも分かり易いように案内板を設けるなど、善処をお願いしたい(密かに笠間市役所に要望をメールすることにした)。

(月崇寺)


月崇寺

 松平頼徳の大発勢が水戸城入城を巡って、諸生党と対峙しているころ、幕府の派遣した追討軍(総督田沼意尊)は笠間まで進出し、月崇寺を本陣として約一か月ここにとどまった。


石灯籠

 本堂前に建つ石灯籠には、佐久良東雄が月崇寺で詠んだ歌が刻まれている。

吹き巻きて深山下しに桜花
散るはめでたきものにぞありける

(高乾院)


高乾院


伊藤益荒雄(左)と伊藤斎宮の墓

 高乾院には、肥前島原の脱藩浪士伊藤益荒雄と伊藤斎宮が葬られている。
 尊王攘夷を旗印とする天狗党には、水戸藩のみならず他藩からも多数加盟していたが、水戸藩内訌戦の様相を呈してきた元治元年(1864)七月、藩外からの加盟者は天狗党と袂を分かち、別働隊として横浜の夷人を襲うことに決した。しかし、鹿島まで進出したところで追討軍と遭遇し、ここから潮来、麻生、美野里、友部と退却することとなった。同年九月九日、笠間池野辺まで落ちのびた部隊は、大橋の森貞次郎宅で休息を取ったあと解散した。伊藤益荒雄と斎宮は下野を目指して逃亡を図ったが、笠間藩兵に捕らわれ刑場の露と消えた。

(吉田神社)


吉田神社

 天狗党別働隊四十名が解散を決した吉田神社である。急な階段を上がりきると、物置のとような祠が現れる。

(森家墓地)


贈従五位森貞次郎義宣墓

 現在、笠間市の一部となっている大橋地区は、かつて水戸藩領であった。大橋地区からは森貞次郎以下十一名が血判の上天狗党に参加した。
 森貞次郎の墓のある森家墓地も極めて分かりにくい場所にある。吉田神社から県道113号線(真端水戸線)を東小学校方面に向かう途中、交番向かいの小さな丘の上に墓地がある。余程の嗅覚と執念がないと発見するのは至難の業である。

(如意輪寺)


如意輪寺

友部上市原の如意輪寺は、笠間藩兵が天狗党の残党狩りのために逗留した寺である。

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