史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

秋田 雄和

2012年05月19日 | 秋田県
(潜竜寺)


潜竜寺

雄和町種沢の潜竜寺は、九月九日、庄内藩によって焼かれた。現在の本堂は再建されたものであるが、背後にある樅の木は当時からのもの。根元には当時の焼け焦げが残る。

(普門院)


普門院

慶應四年(1868)八月十七日、普門院も秋田藩の手によって放火されて焼かれた。当時、普門院は十棟も堂宇を有する大きな寺院であった。


新波橋

(椿台城跡)


椿台城跡

現在、秋田空港や国際教養大学のある秋田市雄和町付近は、秋田藩領における最後の戦場となった場所である。
九月十日、糠塚山(標高百二㍍)を奪おうとした庄内藩を秋田藩軍が撃退し、ようやく庄内藩の進撃は停止した。秋田藩および新政府軍はここで踏みとどまり、庄内藩の秋田城下新軍を食い止めた。
椿台に城が築かれたのは、慶応四年(1868)三月になってからのことである。藩主佐竹義尭は、佐竹支藩の佐竹壱岐守義諶(よしづま)に命じてここに城郭を築かせた。建設半ばにして戊辰戦争がこの地に至り、期せずしてこの地が秋田城下防衛の最前線となった。戦後、椿台城は義諶の子、義理(よしさと)に引き継がれるが、間もなく義理も岩崎に転封された。椿台城はわずか二年で廃城となった。現在、城郭の遺構はほとんど残っておらず、わずかに土塁が残されているのみである。

(椿台カントリークラブ)


椿台カントリークラブ


戊辰戦争砲台跡

ゴルフと縁を切って久しい。ゴルフ場に足を踏み入れるのも八~九年振りである。「砲台グリーン」があるゴルフ場は珍しくないが、ホンモノの砲台跡が存在するゴルフ場は、全国でもここだけではないか。
何とかコースの途中にある「砲台跡」を見学したかったが、折しも連休中の書き入れ時で、のんきに写真撮影にコースをうろついていてはつまみ出されるのがオチである。翌朝、出直すことにした。
ホテルを五時前にチェックアウトし、秋田市内の史跡を探索した後、再度椿台カントリークラブを訪れた。流石に早朝六時にコースに客はいない。前日、キャディさんに聞いたとおり、「つばきコース」の1番ホール途中の小高い丘の上に「戊辰砲台跡」の木柱を発見した。木柱は根っこが腐って折れていた。取りあえず建て直しておいたが、きちんと手入れをしてもらいたいものである。

(陣笠墓地)


五十嵐永吉墓

雄和町陣笠地区の山裾にある陣笠墓地に、五十嵐永吉の墓がある。五十嵐永吉は、庄内藩四番大隊士で、八月十八日の雄物川渡河作戦の戦いにて戦死。享年二十。

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秋田 下浜

2012年05月19日 | 秋田県
(本敬寺)


本敬寺


松山藩士毛呂太郎太夫正孝戊辰之役長浜戦終焉之地碑

海岸沿いに進軍した庄内藩三番大隊は、八月十八日には下浜の秋田藩陣地を突破し、さらに長浜に迫った。この報を受けて秋田藩では増援部隊を長浜に送った。
薩摩藩では軍艦「春日」を出動させ、海から援護砲撃を加えた。大砲の威力は凄まじく、庄内三番大隊は、ここで初めて敗戦を味わった。庄内軍は九月十二日にも再び道川(現・由利本荘市)まで迫ったが、ここを突破できなかった。
この日の戦闘で戦死した庄内松山藩小隊長、毛呂太郎太夫の終焉の地を現す石碑が本敬寺境内に建っている。

(長浜下浜)


毛呂太郎太夫の墓

本敬寺から一旦国道にもどって、秋田方面に進む。最初の信号を渡ってそのまま海に向かって未舗装道を行くと、藪の中に毛呂太郎太夫の墓がある。

(高安森)


戊辰戦役長濵古戦場碑

長浜古戦場碑の場所が分からず、しばらく近所を歩き回った。朝早かったこともあり、尋ねるにも人がいない。ようやくビニルハウスの中で農作業に勤しむ初老の男性を発見することができた。オジサンは作業の手を休め、自宅まで連れて行ってくれた。戊辰戦争関連の史跡を探しているというと、オジサンは「若いのに感心やね」というと「ちょっと待ってね」と自宅の奥に消えた。「若い」といってもさほどオジサンと年齢は変わらないと思うが…。やがてオジサンは資料を手に出てきた。資料は地元の人が作成したもので、本敬寺の毛呂太郎太夫終焉の地碑のことが記載されていた。「この石碑は、今見てきたところです」と答えると、次は近所の公民館に連れて行ってくれた。そこにはお目当ての長浜古戦場碑の写真が飾ってあった。「この石碑を探しているんです」とお話しすると、オジサンは「分かりにくい場所だから、連れて行ってあげよう」という。
オジサンに先導してもらって、十分ほど小高い丘を上ると、その中腹に石碑が建っていた。オジサンが子供の頃には、この辺りの畑を掘り返すと、戊辰戦争当時の銃弾がいくつも発見できたという。「あのときは価値が分からんかったから。今、思えばとっておけば良かった」
この小高い丘のことを、地元の方々は高安森と呼んでいるそうである。とても自力では行きつくことはできなかった。オジサンの厚意にひたすら感謝。

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秋田 新屋

2012年05月19日 | 秋田県
(忠専寺)


忠専寺


佐賀藩士の墓

新屋忠専寺には、秋田藩領での戦闘で戦死した佐賀藩士三名の墓がある。新屋には、天龍寺、葉隠墓苑など戦死した佐賀藩士の墓が集中的に存在している。

(天龍寺)


天龍寺

天龍寺には佐賀藩士樋口泉兵衛の墓がある。


樋口泉兵衛墓

(葉隠墓苑)


佐賀藩士慰霊碑


佐賀藩士の墓

新屋日吉町の住宅街の一画に葉隠墓苑が開かれたのは、昭和六十一年(1986)のことである。当時原野であったこの場所が区画整理の対象となり、この場所にあった戊辰戦争で戦死した三名の佐賀藩士の墓も移転が必要となった。地元の方々の尽力で墓の主の子孫の方が判明し、子孫の方を招いて慰霊祭を行ったという。墓苑には墓石のほか、戊辰戦争で犠牲となった五十四名の佐賀出身者の名を刻んだ慰霊碑が建立されている。

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秋田 北部

2012年05月17日 | 秋田県
(平田篤胤の墓)


平田篤胤の墓

平田篤胤の遺言に従って、衣冠束帯の姿でこの地に葬られた。師である本居宣長のいた伊勢の方角に向けられているという。
平田篤胤の著述は、「古史伝」「霊能真柱」など百部千巻を超えるといわれ、荷田春満(あずままろ)、賀茂真淵、本居宣長とともに国学の四大人と称される。平田篤胤は、儒教や仏教の渡来以前の、天皇が国を治めていた古代日本に理想社会を求め、王政復古の思想的根拠になった。同時に、人はそれぞれ職業を通じて政治に関わることができると説いたため、身分制に不満を持つ農民、町人に歓迎された。

(天徳寺)


天徳寺

天徳寺総門は焼失を逃れて、慶長年間以来のもっとも古い建造物である。上掲の山門は寛永年間の建造。
戊辰戦争では、天徳寺は臨時の野戦病院となった。


佐竹氏菩提所

天徳寺は秋田藩主佐竹氏の菩提寺で、慶長の国替えのとき常陸から移されたものである。歴代藩主と夫人の御廟所が並んでいるが、施錠されており近くで見ることはできない。なお、最後の久保田藩主佐竹義尭は、明治後東京で亡くなっており、墓所は東京浅草総泉寺にあり(現在、板橋小豆沢に移転)、天徳寺には第十一代藩主佐竹義睦までの墓がある。

(護国神社)


護国神社

秋田市には、久保田城と秋田城の二つの城が存在していた。佐竹氏の居城が久保田城であり、佐竹氏が秋田に入部する以前は、高清水丘陵の秋田城が政治の中心であった。秋田城の歴史は、天平時代まで遡る。

明治二年(1869)、この地に佐竹義尭が戊辰戦争に殉じた戦没者四百二十五柱を祀った招魂社を創建した。招魂社は明治三十二年(1899)に一時千秋公園に移転したが、昭和十五年(1940)に秋田城址に戻った。


高清水公園 秋田招魂社址


秋田城政庁跡

秋田城址からは多くの遺跡が発掘されており、現在も発掘調査は続けられている。再現された政庁は、一見の価値がある。

(西來院)


西來院


仙台藩殉難碑

慶応四年(1868)七月四日、秋田藩に同盟軍としての出兵を促すために、仙台藩からの使者志茂又左衛門ら十一名が市内の旅宿に宿泊していた。夜になって、秋田藩士二十二人が彼らを襲って斬殺、旭川にかかる五丁目橋のたもとに首を晒した。いくらこの時代であっても、武装していない使者を殺すというのは道に反する行為であり、秋田藩の幕末史に汚点を残すことになった。
明治二十一年(1888)になって、西来院に仙台藩殉難碑が建立された。

(全良寺)


全良寺

秋田市八橋本町に所在する全良寺には、官修墓地がある。寺院本堂は建て替えられて、まるで教会のような建物である。

全良寺の官修墓地には、秋田藩と薩摩、肥前、筑前、新庄など、計十六藩の新政府軍側の戦死者を葬っている。全良寺十一世、大内海山和尚が発願して、石工辻源之助が協力し、両者多額の私財を投じて明治二十八年(1895)に完成したものである。その後、明治政府が官修墓地に指定した。当初は五百二十三基(六百六十五霊)を建立したが、のちに遺族が故郷に改葬したこともあり、現在は三百二十三基(三百九十五霊)がここに眠る。


官修墓地 秋田藩士の墓


薩摩藩戦死者墓

薩摩藩の戦死者は、合葬墓となっている。
この四角錐型の墓は、全国十カ所に建立されている。いずれも激戦地であり、秋田が選ばれたのも自然のように思われる。
参考情報として、ほかの建立地を挙げておく。これで八つ目をゲットしたことになる。完全制覇までマジック2。
①京都 林光院 ②東京 大円寺 ③上越高田 金谷山 ④新潟 護国神社 ⑤宇都宮 報恩寺 ⑥白河 白河城 ⑦会津若松 東明寺 ⑧山形 国分寺薬師堂 ⑨函館 護国神社


長州藩合葬墓

長州藩の戦死者も合葬墓となっている。筆頭に世良修蔵の名前を見ることができる。


肥前藩の戦死者


弘前藩の戦死者

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秋田

2012年05月16日 | 秋田県
(千秋公園)


久保田城跡

東京から六百㎞以上北上。どこかで桜前線を追い越したようで、東京を出たときにはすっかり葉桜になっていた桜が、秋田県では盛りを迎えていた。満開の桜を見るたびに日本人に生まれて良かったという思いに浸るが、観光目的ではない私にとって、各所で開かれている「さくら祭」には閉口した。静かに史跡を鑑賞したい向きには、「さくら祭」は大敵である。千秋公園では、酔客を避けながら写真撮影を続けることになった。


久保田城 御隅櫓

久保田城は、佐竹氏の入部後、寛永八年(1631)に完成した。現在は、千秋公園と呼ばれる広大な公園として整備されている。


佐竹義尭公銅像

御隅櫓を入ると、佐竹義尭銅像のミニチュアが出迎えてくれる。
佐竹義尭(よしたか)は、十二代久保田藩主である。もともと陸奥相馬氏の出身であるが、嘉永二年(1849)に秋田藩支藩の佐竹義純の嗣子となり、安政四年(1857)に宗家義暁が卒すると遺命によりその跡を継いだ。藩政改革、財政改革に追われるとともに、文久三年(1863)には平田延胤(篤胤の孫)ら藩内の急進派に動かされて上京した。慶応四年(1868)七月、奥羽鎮撫使一行が城下に滞在し藩論が二分された際、自ら新政府支持を決断した。その後、秋田藩は奥羽越列藩同盟を相手に数カ月にわたって戦うことになった。明治後、久保田藩知事に任じられた。廃藩置県後は東京に移り住み、明治十七年(1884)六十歳にて逝去。



佐竹義尭公の像

最後の藩主佐竹義尭を敬慕する旧家臣が中心となって、戊辰戦争五十年を目前にひかえた大正四年(1915)に千秋公園内に銅像を建立した。第二次大戦の金属供出により一旦姿を消したが、市制百年となる平成元年(1989)に復元されたものである。


弥高神社

弥高(いやたか)神社は、平田篤胤と農学者佐藤信淵を祭神とした神社である。明治十四年(1881)に有志により平田神社が創建されたのが起源で、明治四十二年(1909)、佐藤信淵を合祀して弥高神社となった。名称の弥高は、旧藩主佐竹義和が藩校明徳館に掲げた扁額「仰之彌高」に因んだものである。


秋田八幡神社

秋田神社は、初代藩主佐竹義宣を祀るために明治十四年(1881)に創建されたもので、のちに九代義和、十二代義尭を合祀することになった。

(中央図書館明徳館)


中央図書館明徳館

秋田藩校明徳館の名は、図書館と秋田明徳館高校に引き継がれている。実際に明徳館があった場所は、図書館の隣、現在県立美術館がある辺りと推定される。秋田に明徳館が開かれたのは、九代藩主佐竹義和のときである。戊辰戦争のときには、奥羽鎮撫総督の本陣、政庁、政務所が置かれた。

(平田篤胤大人終焉之地)


平田篤胤大人終焉之地

平田篤胤が没したのは、江戸追放処分を受けたその二年半後の天保十四年(1843)九月のことであった。六十八歳であった。

幕末の秋田藩が新政府軍側についたのは、平田国学の存在が大きいといわれる。加えて、佐竹義睦夫人悦子と叔父にあたる土佐の山内容堂との関連も作用したともいわれる(佐竹史料館学習講座佐竹氏と天徳寺「天徳寺の歴史と佐竹氏」)。

(五丁目橋)


五丁目橋

斬殺された仙台藩の使者は、五丁目橋のたもとに首をさらされた。使者の一人である志茂又左衛門を訪ねてきた弟の丁吉や下僕まで捕えられて斬首されている。


川反観音

橋のたもとでは、仙台藩士供養のために建立されたという川反観音が静かに往来を見つめている。

(土手谷地街区公園)


平田篤胤先生誕生之地

市内、中通り四丁目の土手谷地街区公園が、平田篤胤誕生の地である。
平田篤胤は、安永五年(1776)、久保田城下中谷地町(現・秋田市中通り四丁目)に生まれた。父は久保田藩大番組頭大和田清兵衛。小さい頃から漢学や医術を学び、二十歳のときに江戸に出て苦学しながら多くの学問を修めた。二十五歳のとき、備中松山藩主板倉周防守に見いだされ、備中松山藩士平田藤兵衛の養嗣子となり、平田姓を名乗ることになった。二十八歳で最初の著作、「呵妄書」を著し、以来国学に傾倒していった。
本居宣長の国学に心酔し、宣長の死後の弟子となった。平田篤胤の思想は、幕府から「世を惑わす」として、天保十二年(1841)、六十六歳のとき江戸追放処分を受け、秋田藩預かりとなった。

(中通六丁目街区公園)


砲術所跡

中通六丁目街区公園が、秋田藩の砲術所跡地である。
秋田藩がオランダ式を取り入れた兵制改革により、元治元年(1864)に建築に着手し、翌年秋に操練場、的場、館舎が落成した。大砲、歩兵の二科が設けられ、吉川忠安を頭取として本格的に西洋砲術の修練を行った。

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能代

2012年05月12日 | 秋田県
(清徳寺)


清徳寺




戊辰役肥州八勇士墓

秋田の奥羽鎮撫総督府は、肥前佐賀藩の田村乾太左衛門を隊長に、肥前小城藩兵など五百余の援軍を急派した。田村らは秋田藩軍に合流すると、すぐさま盛岡藩軍を撃退した。肥前藩兵は射程距離の長い新式小銃を所有していた。着弾すると爆発するアームストロング砲が炸裂した。銃器で優位に立った征討軍は、八月二十九日に総反撃に移り、九月六日には大館を奪還し、七日には盛岡軍を三哲山に押し戻した。
二ツ井町の清徳寺には、このときの戦闘で戦死した佐賀藩、小城藩の戦死者八名の墓がある。

明治になって東北巡幸の際、明治天皇は随行していた佐賀藩出身の大隈重信に命じて、代拝させた。


明治天皇富根御小休所

(長慶寺)


長慶寺

慶応四年(1868)五月二十七日から約一か月間にわたり、奥羽鎮撫総督府沢為量副総督一行が長慶寺を本陣として滞在した。奥羽越列藩同盟の成立により、居場所を失った沢副総督らは、流浪の末、ようやく能代に行き着いた。当地には、平田国学に共鳴する町民や神主が多く、安住の地を見出したのである。

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北秋田

2012年05月12日 | 秋田県
(薬師山スキー場入口)


薬師森古戦場

国道7号線は、大館から能代へ繋ぐ幹線道路である。北秋田市から能代市に入る直前に薬師山スキー場がある。この場所が戦地となったのは、慶応四年(1868)八月二十七日。押し寄せた盛岡藩軍を官軍・秋田藩軍が撃退した。

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大館

2012年05月12日 | 秋田県
(山王台日吉神社)


山王台日吉神社

大館市南郊外の山王台日吉神社付近でも激戦となった。兵力に圧倒的な差があり、八月二十二日、大館は盛岡藩軍に征圧された。

(佐竹大和本陣跡)


史跡大館城主佐竹大和本陣跡

大館市内、相染沢中岱の住宅街の中に佐竹大和本陣という石碑が建っている。
佐竹大和義遵は、秋田藩主佐竹氏の一族で、大館城を居城としていた。盛岡藩の大軍を迎え撃つにあたり、佐竹大和は農民や町人からも兵を募った。同時に弘前藩にも応援を求めた。駆けつけた弘前藩小隊長対馬寛左衛門は、大館軍が農民や町民に竹槍を持たせただけという現状に驚き、急いで弘前から鉄砲百丁を取り寄せた。といっても火縄銃ばかりで、とても近代戦に耐えられるものではなかった。


明治戊辰激戦之地

佐竹本陣跡から少し南に行った地点に、明治戊辰激戦之地碑が立っている。八月二十一日から二十二日にかけて、この辺りは激戦地となった。

(桂城公園)


桂城公園

現在、大館城(別名桂城)跡は公園となっている。部分的に堀や土塁が残っているだけで、ほとんどかつてここに城があった形跡は見出せない。敗戦を悟った佐竹大和は城に火を放って逃走した。このとき大館城は全焼した。

(一心院)


一心院

一心院は、もともと佐竹氏の出身地である常陸にあったが、佐竹氏の秋田移封に伴って慶長十六年(1611)この地に移った。一心院の堂宇も、戊辰の戦火で全焼し、現在、見ることができる本堂が再建されたのは、ようやく昭和四十年(1965)のことという。何故か墓地には真田幸村の墓がある。

ここでも十二所の長興寺と同様、「官軍 秋藩」と記された墓石を複数発見することができる。


官軍 秋藩 河野鐡之助墓


官軍 秋藩 柏勝治墓


官軍 秋藩 石塚織之助墓


官軍 秋藩 長井久米松墓


官軍 秋藩 山内形之助墓


官軍 秋藩 山本宮三郎墓


官軍 秋藩 瀬尾直之助墓

(宗福寺)


宗福寺

大館市内の宗福寺は、広い墓地を持つ寺である。ここにも「官軍 秋藩」と記された墓石が散在しているが、そのいずれも青柳姓というのは何かわけがあるのだろうか。


官軍 秋藩 青柳又蔵墓


官軍 秋藩 青柳市之進墓


官軍 秋藩 青柳外記墓


官軍 秋藩 青柳長治墓

(JR早口駅)


JR早口駅

大館から能代に至る道沿いにも、激戦地が点在している。大館市内では岩瀬、外川原、早口でも激戦が交わされた。今回、各所を訪ねて回る時間はなかったが、JR奥羽本線早口駅周辺も激戦地の一つである。

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大館 比内

2012年05月12日 | 秋田県
(扇田神明社)


扇田神明社

大館、能代を訪ねたのは、実は今回が三回目である。比内には、かつて関係会社の工場があった。電子部品を製造する小さな工場であったが、建物の前に綺麗な手作りの花壇があって、何だかのどかな印象が残っている。今回、比内(現在は大館市の一部となっている)を訪ねたが、その印象に変わりは無かった。戊辰戦争では、この静かな街が激戦地となった。


戊辰激戦之地

激戦地を示す木柱。朽ちて根っこが折れている。文字も読み取りにくい。是非とも善処していただきたい。


忠魂碑

扇田出身者の戦死者の慰霊碑。山城ミヨの名もある。


明治天皇巡幸紀念碑

最初の戦闘があった十二所から、米代川を下ると、川舟の港として栄えた扇田の街がある。旧比内町市街地である。慶応四年(1868)八月十二日、茂木筑後は夜明け前に盛岡軍を急襲し、扇田を奪い返した。しかし、わずかにその一週間後、盛岡軍の反撃を受け、敗走を余儀なくされた。


官軍 吉田亥三郎秀一墓

扇田神明社に隣接する墓地には、官軍吉田亥三郎の墓がある。八月十二日の戦闘で戦死した秋田藩兵の一人である。

(寿仙寺)


寿仙寺

扇田の寿仙寺には、山城ミヨの墓がある。八月二十日の戦闘で盛岡藩の反撃を受けて、秋田藩軍は敗戦を喫した。茂木筑後の軍で兵糧を運ぶ手伝いをしていた山城ミヨは、銃弾を受けて戦死した。三十五歳。扇田のタバコ屋の娘という。本来、夫山城八右衛門が従軍すべきところ、病身の夫に代って男装をして参加した。
戊辰戦争では数少ない女性の戦死者である。翌明治二年(1869)には日本で初めて女性として靖国神社に合祀されることになった。


山城美与墓


烈婦山城みよ女之像

寿仙寺境内には、山城ミヨの銅像台座が残されている。恐らく銅像は、戦時中の金属供出で失われたのであろう。

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大館 十二所

2012年05月12日 | 秋田県
(三哲山)


三哲山

慶応四年(1868)八月六日、秋田南方の本荘が落城し、亀田藩が降伏したという報が秋田の奥羽鎮撫総督府に届いた。追い打ちをかけるように、その直後の同月九日には盛岡軍千六百という大軍が大館に進入したという報告が入った。
大館での最初の戦場は、十二所という小さな城下町である。十二所は秋田藩の重臣茂木筑後の「預かり領」であった。その東にある標高三百九十四mの三哲山が攻防の焦点となった。茂木筑後は三哲山に陣を敷いて盛岡軍を迎え撃った。わずか三百の兵では衆寡敵せず、扇田まで撤退することになった。

(成章書院址)


成章書院趾

十二所の公民館の前に成章書院趾石碑が建っている。旧成章小学校の跡地である。
成章書院は、寛政五年(1793)に秋田藩の命により開校された郷校の一つである。成章書院には、藩校明徳館より督学が定期的に派遣され人事や学習指導などを行った。成章書院の学業成績はほかに比べても高く、風紀も厳正で生徒は勉学に熱心だったといわれる。
郷校成章書院の名称を継いだ成章小学校は、場所を移転して、今も健在である。


成章小学校

(長興寺)


長興寺

秋田県下を旅して実感したのは、官軍として戦った秋田藩の戦死者が多いことである。大館十二所でも激戦が交わされ、双方に多くの犠牲者が出た。長興寺墓地にもたくさんの秋田藩戦死者が眠る。いずれも墓石に「官軍 秋藩」と刻まれている。


官軍 秋藩 忍菊吉墓


官軍 秋藩 月居才助墓


官軍 秋藩 菊地順之助墓


官軍 秋藩 武田富蔵墓


官軍 秋藩 奈良善吉墓


官軍 秋藩 成田又右衛門墓


官軍 秋藩 羽澤半蔵墓

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