(先人記念館)
東北道を青森に向かって走ると、一瞬、秋田県を通過する。そこが鹿角である。鹿角は、もともと盛岡藩領であったが、明治四年(1871)の廃藩置県の際、それまで岩手県であった鹿角地方が秋田県に編入された。戊辰戦争の敗戦国から戦勝国へ領地を移す措置だと言われたが、実は正式に文書でその主旨が明確にされたものはない。
今も鹿角は、秋田県にあって風土が異なるという。もとより秋田の風土というものを認識していない私には、その違いというものの理解のしようもない。
司馬遼太郎先生が「街道をゆく」で秋田を旅したとき、鹿角を訪ねている。司馬先生にとって、鹿角を代表する人物といえば、内藤湖南だという。内藤湖南は、明治から昭和初期に活躍したジャーリスト、東洋史学者である(名探偵ではない)。父は、盛岡藩の儒者内藤十湾。大阪朝日新聞記者から京大講師に転じ、中国史や日本文化史にも独自の見識を示した。
鹿角市先人記念館
鹿角市先人顕彰館では、内藤湖南のほか、和井内貞行ら郷土出身の先覚者を紹介している。和井内貞行は、魚の棲まない十和田湖でヒメマスの養殖に成功したという人物である。
私が先人記念館を訪ねたとき、例によって開館時間のずっと前だったため、展示を見ることはできなかった。
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内藤湖南先生誕生地碑
(仁叟寺)
仁叟寺
戊辰戦没之碑
先人顕彰館に近い仁叟寺境内には、戊辰戦争で戦死した盛岡藩士の霊を弔うために「戊辰戦没之碑」が建立された。当初、戦死者十六名がこの寺に葬られたが、墓石が風化したため昭和三十六年(1961)に合葬したものである。
東北道を青森に向かって走ると、一瞬、秋田県を通過する。そこが鹿角である。鹿角は、もともと盛岡藩領であったが、明治四年(1871)の廃藩置県の際、それまで岩手県であった鹿角地方が秋田県に編入された。戊辰戦争の敗戦国から戦勝国へ領地を移す措置だと言われたが、実は正式に文書でその主旨が明確にされたものはない。
今も鹿角は、秋田県にあって風土が異なるという。もとより秋田の風土というものを認識していない私には、その違いというものの理解のしようもない。
司馬遼太郎先生が「街道をゆく」で秋田を旅したとき、鹿角を訪ねている。司馬先生にとって、鹿角を代表する人物といえば、内藤湖南だという。内藤湖南は、明治から昭和初期に活躍したジャーリスト、東洋史学者である(名探偵ではない)。父は、盛岡藩の儒者内藤十湾。大阪朝日新聞記者から京大講師に転じ、中国史や日本文化史にも独自の見識を示した。
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鹿角市先人記念館
鹿角市先人顕彰館では、内藤湖南のほか、和井内貞行ら郷土出身の先覚者を紹介している。和井内貞行は、魚の棲まない十和田湖でヒメマスの養殖に成功したという人物である。
私が先人記念館を訪ねたとき、例によって開館時間のずっと前だったため、展示を見ることはできなかった。
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内藤湖南先生誕生地碑
(仁叟寺)
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仁叟寺
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戊辰戦没之碑
先人顕彰館に近い仁叟寺境内には、戊辰戦争で戦死した盛岡藩士の霊を弔うために「戊辰戦没之碑」が建立された。当初、戦死者十六名がこの寺に葬られたが、墓石が風化したため昭和三十六年(1961)に合葬したものである。