史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

鹿角 十和田

2012年05月12日 | 秋田県
(先人記念館)
東北道を青森に向かって走ると、一瞬、秋田県を通過する。そこが鹿角である。鹿角は、もともと盛岡藩領であったが、明治四年(1871)の廃藩置県の際、それまで岩手県であった鹿角地方が秋田県に編入された。戊辰戦争の敗戦国から戦勝国へ領地を移す措置だと言われたが、実は正式に文書でその主旨が明確にされたものはない。
今も鹿角は、秋田県にあって風土が異なるという。もとより秋田の風土というものを認識していない私には、その違いというものの理解のしようもない。
司馬遼太郎先生が「街道をゆく」で秋田を旅したとき、鹿角を訪ねている。司馬先生にとって、鹿角を代表する人物といえば、内藤湖南だという。内藤湖南は、明治から昭和初期に活躍したジャーリスト、東洋史学者である(名探偵ではない)。父は、盛岡藩の儒者内藤十湾。大阪朝日新聞記者から京大講師に転じ、中国史や日本文化史にも独自の見識を示した。


鹿角市先人記念館

鹿角市先人顕彰館では、内藤湖南のほか、和井内貞行ら郷土出身の先覚者を紹介している。和井内貞行は、魚の棲まない十和田湖でヒメマスの養殖に成功したという人物である。
私が先人記念館を訪ねたとき、例によって開館時間のずっと前だったため、展示を見ることはできなかった。


内藤湖南先生誕生地碑

(仁叟寺)


仁叟寺


戊辰戦没之碑

先人顕彰館に近い仁叟寺境内には、戊辰戦争で戦死した盛岡藩士の霊を弔うために「戊辰戦没之碑」が建立された。当初、戦死者十六名がこの寺に葬られたが、墓石が風化したため昭和三十六年(1961)に合葬したものである。

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鹿角 花輪

2012年05月12日 | 秋田県
(恩徳寺)


恩徳寺

鹿角花輪の恩徳寺と、隣接する長年寺には、戊辰戦争で戦死した盛岡(南部)藩士四十三名が葬られている。内訳はそれぞれ恩徳寺には十六名、長年寺には二十七名となっている。いずれも墓石は自然石を使ったものである。
奥羽越列藩同盟に離反した秋田藩の非を質すという名目で、慶応四年(1868)八月九日、盛岡藩は藩境を越えて攻め入った。緒戦で花輪、扇田を抜いた盛岡藩は、大館城を落とし破竹の勢いで久保田城に迫った。このとき近代兵器で武装した佐賀藩の支援を受けた秋田藩の反攻にあい、領境まで退却し対峙することになった。
四十三名の戦死者は、花輪での戦闘の犠牲者である。


戊辰之役戦死者之墓

(長年寺)


長年寺


戊辰之役戦死者之墓


戊辰役追悼紀念碑

(圓徳寺)


専正寺

ちょうど圓徳寺本堂は修理中で写真撮影ができなかった。花輪大堰には圓徳寺のほか、専正寺、長福寺という三つの寺が軒を連ねる。圓徳寺の代わりに専正寺の山門の写真を掲載しておく。専正寺山門は、花輪代官所の正門を移築したものである。

花輪の圓徳寺には、やはり盛岡藩の戦死者、村山廉治の墓がある。


村山廉治墓

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鹿角 尾去沢

2012年05月12日 | 秋田県
今年のゴールデン・ウィークの訪問先は、秋田県であった。これから当面、秋田それから山形の史跡が続くが御辛抱いただきたい。

秋田県と聞いて連想するのは、「秋田美人」「秋田犬」「きりたんぽ」くらいのもので、一般的には幕末の史跡旅行のターゲットになるとはあまり思えないかもしれない。実は県域全体にわたって戊辰戦争の戦場となっている。
秋田(すなわち当時の久保田藩)が、奥羽越列藩同盟軍から攻撃されるに及んだのは、一つの陰惨な事件がきっかけとなっている。
慶應四年(1868)七月四日、同盟軍として出兵を促す仙台藩の使者十一人を、秋田藩は惨殺してしまったのである。総督府下参謀の大山格之助(薩摩藩)がそそのかしたためともいわれるが、あまりに陰湿な行為である。
これに激怒した同盟軍は、南北から秋田に攻め込んだ。秋田藩は弱兵であった。最終的には、新政府軍からの支援を受けて辛うじて勝利を収めたが、多くの犠牲を払うことになった。戊辰戦争における秋田藩の戦死者の数は三百名を越える。これは新政府軍の主力として全国を転戦した薩摩、長州に継ぐ犠牲である。非戦闘員の数を加えると、犠牲者の数はもっと増えるだろう。
秋田における史跡訪問の旅は、ほとんどが無名の戦死者の掃苔となる。

仕事を定時で切り上げ、速攻で帰宅。夕食をかき込んで、風呂を済ませて、自宅を出発したのは午後八時四十分であった。順調にいけば、秋田まで六時間程度と見込んでいたが、途中何度も休憩を取りながら、しかも岩手に入ったところで力尽きてサービス・エリアで仮眠をとったりしたので、一気に秋田までドライブする計画は頓挫した。仮眠から目が覚めたらもう外は明るかった。

(マインランド尾去沢鉱山)
最初の目的地は、マインランド尾去沢である。
尾去沢鉱山は伝説によれば、和銅年間(708~)には既に操業していたというが、いずれにせよ古い歴史を持つ鉱山である。江戸時代には、別子銅山、阿仁鉱山(秋田)と並んで三大銅山と呼ばれた。明治の初め、俄かにこの鉱山が世の注目を集めることになった。明治五年(1872)、当時鉱山経営を請け負っていた盛岡の商人、村井茂兵衛から明治政府が没収し、政商岡田平蔵に払い下げるという不可解な事件が起きた。これが明るみに出て、時の大蔵大臣井上馨が刑事責任を問われ、明治新政府を揺るがす大疑獄事件となった。


尾去沢鉱山 石切澤通洞坑

その後、尾去沢鉱山の経営は三菱に引き継がれたが、昭和五十三年(1978)にその長い歴史を閉じた。
跡地は現在テーマパークとして営業している。選鉱場跡や製錬所事務所跡などの遺跡も残されている。


選鉱場跡

(長泉寺)


長泉寺


荒木田政次郎墓

尾去沢の長泉寺には、扇田(現・大館市)の戦闘で戦死した盛岡藩士荒木田政次郎の墓がある。

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