史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

由利本荘 岩城 Ⅱ

2019年01月18日 | 秋田県
(龍門寺)


龍門寺

 龍門寺は亀田藩二万石岩城家の菩提寺である。この寺は室町時代に福島県いわき市荒川に創建され、その後寛永五年(1628)にこの地に移建されたものである。岩城家墓所は、正面に初代宣隆の位牌、その右に二代重隆、左に七代隆喜の木像が安置され、左右に五輪塔が並ぶ。五輪塔は、十代隆政、四代隆韶、三代秀隆、十一代隆邦、七代隆喜、その後方に八代隆永の室となっている。


岩城隆邦の墓

岩城隆邦は出羽国亀田藩十二代藩主。天保十五年(1844)、八代藩主・岩城隆喜の七男として生まれた。文久元年(1861)、兄で十一代藩主隆政の死去により家督を継いだ。慶応4年(1868)四月、明治新政府の命に従って上洛し、明治天皇に拝謁。戊辰戦争では当初奥羽越列藩同盟に参加したが、同年七月、久保田藩の呼びかけで本荘藩・新庄藩・矢島藩と共に同盟を脱退し、新政府に加担した。
その後、庄内軍に敗れた新政府軍が本荘、亀田を見捨て、秋田まで退却したことを受けて庄内藩の説得に応じて和議を結び、庄内軍と共に再び奥羽越列藩同盟軍の一員として新政府軍と交戦した。しかし、援軍により勢いを盛り返した新政府軍に敗れ、降伏した。明治元年(1868)十二月、亀田藩は二千石の減封となり、隆邦は隠居を命じられた。江戸の菩提寺・総泉寺で謹慎。明治三年(1870)、亀田藩知藩事になっていた隆彰の後見人に任命されたが、同年七月、廃藩置県のため免職。その後、岩城家の家督は隆邦の長男・隆治、次いで三男・隆長が相続したが、明治四十一年(1908)、隆長が隠居したため、隆邦が再び当主に就いた。それに伴い子爵となった。明治四十四年(1911)、東京にて死去。享年六十八。


岩城隆政の墓

岩城隆政は亀田藩十一代藩主。天保十三年(1842)、八代藩主・岩城隆喜の六男として生まれる。安政二年(1855)、兄で十代藩主・隆信の死去により、家督を継いだが、文久元年(1861)、亀田で死去。享年二十歳。

 亀田藩士小田部忠蔵(忠次とも)は、慶応四年(1868)八月一日(七月十四日とも)、羽後関村にて戦死。十九歳。


忠徹儀孝居士(小田部忠蔵の墓)

(太平寺)


太平寺


即安明心居士(石塚英治の墓)

 石塚英治は物頭。慶応四年(1868)八月一日、羽後関村にて戦死。三十四歳(三十六歳とも)。

(正念寺)
 正念寺は岩城亀田市街に位置する寺である。墓地が二か所に分れているが、一方に四倉安兵衛、もう一方に羽賀賢助の墓がある。
 亀田藩は小藩の悲哀というべきだろうか、東西両軍の間にあって翻弄された。一時は奥羽越列藩同盟に参加したが、秋田藩の離脱により官軍につき、その後庄内藩に攻められると同盟軍に寝返った。
 四倉安兵衛は西軍(官軍)の兵士として戦死したが、羽賀賢助は東軍(同盟軍)側の戦死者である。


正念寺


四倉安兵衛胤精墓

 四倉安兵衛は物頭。慶応四年(1868)七月十四日(十六日とも)、羽後三崎にて戦死。三十七歳。


忠山英徹居士(芳賀賢助の墓)

 羽賀賢助は慶應四年(1868)、羽後由利郡大正寺にて戦死。

(天鷺神社)
 天鷺神社に戊辰戦争における亀田藩の犠牲者十六名を慰霊するために、明治十一年(1878)に建てられた戊辰戦死碣(碑の異体字)がある。
 亀田藩は官軍、同盟軍両軍についたが、この石碑の特徴は両軍の戦死者が合葬されている点である。


天鷺神社


戊辰戦死碣

 殞命弾丸 凛○峻節
 金鐡可銷 姓名不滅


忠烈碑

 忠烈碑は明治四十年(1907)建立。篆額は大島久直。撰文は大槻文彦。書は阪正臣(ばんまさおみ)。

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湯沢 院内 Ⅱ

2019年01月18日 | 秋田県
(院内銀山跡)


院内銀山 異人館跡

 前回(六年前)訪問時は残雪のため通行止めとなっていて断念した院内銀山跡を訪ねた。
 院内銀山は慶長十一年(1606)に発見され、以来江戸期を通じて我が国最大の銀山であった。維新後は工部省に移管され、近代化が推し進められた。明治十二年(1879)、ドイツ人技師ハンザ―、ロージングの両名を招き、その指導のもと、最新式諸機械を移入設置した。入口付近の異人館跡は外人技術者の居宅として洋式住宅が建築されていた場所である。
 異人館はのちに古河組に移管され、代々の鉱山所長宅となった。鉱山の衰微にともない大正末期に払い下げられ、当時の十文字の植田銀行の建物として使用された。
 院内銀山は大正年間に規模を大幅に縮小した。その後も細々と操業を続けていたものの、昭和二十九年(1954)、閉山となった。


三番共葬墓地

 院内銀山は開山以来賑わいを極め、諸国から入山した有縁無縁の人々がこの地で生涯を終え、数知れない人たちが数カ所の寺に葬られた。その多くは共葬墓地に葬られ、その数三千余柱と推定されている。墓石に刻まれている最も古い年号は延享五年(1748)である。地元の老人クラブの手により定期的に清掃されているそうだが、墓石はいずれも厚く苔むしている。
 三番共葬墓地の道路に面した場所に小倉藩小山勇の墓がある。
 小山勇は小倉藩戦士。慶応四年(1868)七月十四日、羽後銀山にて戦死。二十七歳(二十一歳とも)。


官軍 小山勇墓

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