(台蓮寺)

台蓮寺
台蓮寺本堂の脇に仙台涌谷藩士之墓碑がある。仙台藩支藩涌谷(現・宮城県涌谷町)藩士の墓である。戊辰戦争では千百余名が出陣し、白河、秋田方面を転戦した。涌谷勢は8小隊が秋田領内に攻め入り、横手城を落とし大曲へ向かう途中、秋田藩の奇襲に遭い、小隊長米谷周蔵ほか三名の犠牲者を出した。
戊辰ノ役戦没 仙台涌谷藩士之墓碑
この地域における戦闘で戦死した三名を弔うものである。
米谷周蔵は遠田郡元桶谷住。伊達安芸家来。慶応四年(1868)八月二十九日(十四日とも)、羽後六郷にて戦死。
門間(門馬とも)聞く三郎は、遠田郡南郷出身。詫治の長男。慶応四年(1868)八月十四日、羽後六郷(九月二十二日、新庄太田村とも)にて戦死。二十七歳。
野田清三郎は卒。遠田郡涌谷猪岡の人。慶応四年(1868)八月十四日、羽後六郷にて戦死。
(円福寺)

円福寺
維新勤王 辻辰之助夫妻之霊
辻辰之助は、文政二年(1819)の生まれ。生家は六郷町にあって天明ごろより麹室・染物業を営み、祖父・父とも町役人で学問の素養があった。辰之助も橘千蔭の国学を学び、藩士岩谷氏について儒学を修め、天保初年に平田篤胤の門下に入った。辰之助の代には藩の穀倉地帯仙北平野を舞台とする米穀商、山形等を仕入れ先とする呉服反物商を経営していた。早くから藩内外の勤王志士と交わり、江戸・京都に上ること十数度に及んだ。沢為量や西郷隆盛とも親交を結んだといわれるが、詳細は不明である。藩内では六郷出身の熊谷直光(のち大蔵大丞)や大縄襲撃志士の庇護者であった。戊辰戦争前後には私力をもって各地の動静を総督府に報告し、さらに弟兵助らと周辺農民を組織して有志隊を結成して戦闘に参加した。役後、功により藩より二人扶持を与えられた。しかし、多年にわたる奔走の結果、財を失い晩年は不遇であった。明治八年(1875)、年五十七で没。
(善巧寺)

善巧寺
町野嘯二墓
町野嘯二は庄内藩士。服部純蔵組。鶴岡馬場町住。慶応四年(1868)八月十三日、羽後野荒にて戦死。三十九歳。