史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

横手 雄物川

2019年01月12日 | 秋田県
(松雲寺)


松雲寺

 設楽和一郎は秋田藩卒。慶応四年(1868)七月二十八日、羽後矢島にて戦死。二十七歳。秋田市内龍泉寺にも墓がある。


官軍 秋田藩 設楽和一郎墓

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横手 大雄 Ⅱ

2019年01月12日 | 秋田県
(耳取西墓地)
 横手市大雄傾城塚94付近に小さな共同墓地があり、そこに秋田藩専蔵の墓がある。
 専蔵は秋田藩夫卒。慶応四年(1868)八月十四日、羽後神宮寺岳にて戦死。


秋田藩夫卒専蔵墓

(折橋農村公園)


折橋農村公園


戊辰戦死之碑

 折橋農村公園の前に戊辰戦死碑が建てられている。この辺りの戦闘で死亡した秋田藩兵九名を慰霊するものである。

(萬栄寺)
 萬栄寺に一関藩菊池弁左衛門の墓がある。一見して比較的新しい墓である。
 菊池弁左衛門は同盟軍として参加した一関藩士。甲三番隊銃士。慶応四年(1868)八月十一日、羽後にて戦死。


萬栄寺


陸戦軒田忠秋村信士 俗名菊地弁左衛門

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横手 平鹿 Ⅱ

2019年01月12日 | 秋田県
(永蔵寺)
 高橋庄右衛門は夫卒。領内下鍋倉村の人。慶応四年(1868)八月(もしくは九月)、下鍋倉にて負傷。九月二十七日、六郷にて死亡。


永蔵寺


官軍 高橋庄右衛門墓

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横手 Ⅱ

2019年01月12日 | 秋田県
(横手高校)
宿は横手駅前の古いビジネスホテルをとった。一泊三千円程度という安さに魅かれたが、Wifiサービスもないのには少々困った。
二日目の朝も朝五時過ぎに起床。気温は七度程度まで急激に下がった。東北地方には秋を飛び越して一足飛びに冬がきたような気配である。実りの時期を迎えた稲田に朝靄がたなびく幻想的な風景がひろがっていた。
最初の訪問地は、横手高校に隣接する榎本武揚の詩碑である。明治二年(1869)六月、函館・五稜郭落城のあと唐丸駕寵で江戸へ護送、その途中、鳥海山を望んでの《奥羽道中》七言絶句といわれるものである。


榎本武揚詩碑

奥羽道中 榎本武揚
碧血痕在奮戦袍  碧血の痕(あと)は旧戦の抱(ほう)に在し
壮図一蹶気猶豪  壮図一蹶(いっけつ)するも気なお豪なり
松陰涼動羽州路  松陰涼は動く羽州の路
白雪摩天鳥海高  白雪天に摩して鳥海高し

(正平寺)


正平寺


官軍 秋藩 赤尾関市兵衛為巳墓

 赤尾関市兵衛は銃士。明治元年(1868)九月八日(二日とも)、羽後小種にて戦死。五十四歳(四十五歳とも)。

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美郷

2019年01月12日 | 秋田県
(台蓮寺)


台蓮寺

 台蓮寺本堂の脇に仙台涌谷藩士之墓碑がある。仙台藩支藩涌谷(現・宮城県涌谷町)藩士の墓である。戊辰戦争では千百余名が出陣し、白河、秋田方面を転戦した。涌谷勢は8小隊が秋田領内に攻め入り、横手城を落とし大曲へ向かう途中、秋田藩の奇襲に遭い、小隊長米谷周蔵ほか三名の犠牲者を出した。


戊辰ノ役戦没 仙台涌谷藩士之墓碑

 この地域における戦闘で戦死した三名を弔うものである。
 米谷周蔵は遠田郡元桶谷住。伊達安芸家来。慶応四年(1868)八月二十九日(十四日とも)、羽後六郷にて戦死。
 門間(門馬とも)聞く三郎は、遠田郡南郷出身。詫治の長男。慶応四年(1868)八月十四日、羽後六郷(九月二十二日、新庄太田村とも)にて戦死。二十七歳。
 野田清三郎は卒。遠田郡涌谷猪岡の人。慶応四年(1868)八月十四日、羽後六郷にて戦死。

(円福寺)


円福寺


維新勤王 辻辰之助夫妻之霊

 辻辰之助は、文政二年(1819)の生まれ。生家は六郷町にあって天明ごろより麹室・染物業を営み、祖父・父とも町役人で学問の素養があった。辰之助も橘千蔭の国学を学び、藩士岩谷氏について儒学を修め、天保初年に平田篤胤の門下に入った。辰之助の代には藩の穀倉地帯仙北平野を舞台とする米穀商、山形等を仕入れ先とする呉服反物商を経営していた。早くから藩内外の勤王志士と交わり、江戸・京都に上ること十数度に及んだ。沢為量や西郷隆盛とも親交を結んだといわれるが、詳細は不明である。藩内では六郷出身の熊谷直光(のち大蔵大丞)や大縄襲撃志士の庇護者であった。戊辰戦争前後には私力をもって各地の動静を総督府に報告し、さらに弟兵助らと周辺農民を組織して有志隊を結成して戦闘に参加した。役後、功により藩より二人扶持を与えられた。しかし、多年にわたる奔走の結果、財を失い晩年は不遇であった。明治八年(1875)、年五十七で没。

(善巧寺)


善巧寺


町野嘯二墓

 町野嘯二は庄内藩士。服部純蔵組。鶴岡馬場町住。慶応四年(1868)八月十三日、羽後野荒にて戦死。三十九歳。

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大仙 大曲 Ⅱ

2019年01月12日 | 秋田県
(大曲小学校)
大曲小学校では少年野球大会が開かれていた。子供たちよりも父兄の応援の方が力が入っているのは、いずこも同じお馴染みの風景である。プロ野球なみに子供たち一人ひとりに応援歌が作られているのには少々驚いた。
大曲小学校は市役所や体育館、幼稚園などを併設する広大な敷地を有している。校内の一角に「故衆議院議員榊田君碑銘」と題した、見上げるような大きさの記念碑が建てられている。建碑は昭和六年(1931)。榊田清兵衛は大曲出身の政治家。立憲政友会に属して、幹事、協議員長などを務めた。昭和四年(1929)没。篆額は西園寺公望、撰文および書は秋田県出身の内藤湖南。残念なことに石碑の周辺は雑草が伸び、それをかき分けないと近寄れないような状態である。


故衆議院議員榊田君碑銘

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秋田 下北手

2019年01月06日 | 秋田県
(歓喜寺)


歓喜寺

 歓喜寺はかつて秋田市街の寺町(現・旭北栄町)にあったが、十年ほど前に現在地に移転してきた。近くには新興住宅街が広がる秋田市の南郊である。広々とした墓地の片隅に古い墓石を集めた一角があり、そこに官軍墓がある。


官軍墓

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秋田 楢山

2019年01月05日 | 秋田県
(金照寺)
金照寺は本堂と墓地が線路で分断されている。墓地を整地して霊園化する工事が始まっており、古い墓石は観音像の周りに集められ、隙間なく並べられている。幸いにして目当ての志賀留吉の墓は最後列に置かれていたので、墓石背面の漢文事績は読み取ることが可能であった。


志賀為吉の墓

 志賀為吉は文政八年(1825)秋田藩士滋賀春蔵の長男に生まれた。藩校明徳館の教授で、文久元年(1861)、評定奉行。翌年、軍事用掛砲術頭取。慶応二年(1866)には郡奉行兼評定奉行等を歴任し、幕末の藩政の中枢にあった。戊辰戦争では勤皇を唱えて積極的に活動し、その功をもって明治二年(1869)、藩参政に任じられ、一時病気で辞職したが、明治三年(1870)には少参事となった。明治四年(1871)三月二十五日の夜、秋田の自宅にて藩政の内紛から小室克三ら五人の壮士に襲われ、殺害された。年四十七。

(仰信寺)


仰信寺


官軍 佐藤喜三郎顕忠墓

 佐藤喜三郎顕忠は秋田藩卒。慶応四年(1868)八月一日、羽後関村にて戦死。三十三歳。

(玄心寺)


玄心寺


先祖累代之墓(安部才治の墓)

 安部才治は吉成弥門組。慶応四年(1868)八月十六日、羽後長浜にて負傷。九月一日、八橋病院にて死亡。二十三歳。


官軍 秋田藩高橋七之丞墓

 高橋七之丞は卒。慶応四年(1868)八月十八日、羽後左手子にて負傷。九月十四日、死亡。四十六歳。

(満福寺)
 満福寺は広い墓地を持つ寺で、ここで目当ての墓を探し当てるのは相当骨が折れる。時間があれば、まだ新しい発見があったかもしれない。


満福寺


官軍 秋藩 館岡小太郎之墓

 館岡小太郎は銃士。慶応四年(1868)七月二十八日、羽後矢島にて戦死。四十八歳(四十六歳とも)。


秀峰良善居士 慶巌洞忠居士
(石川忠四郎の墓)

 石川忠四郎は、橋本助右衛門隊銃士。慶応四年(1868)八月十三日、羽後角間川村にて戦死。十九歳。


官軍 秋藩 斎藤正治之墓

 斎藤正治は田中数馬組。慶応四年(1868)八月十三日、羽後角間川村にて負傷。八橋病院にて死亡。二十一歳。


官軍 秋藩 岡村杢之助之墓

 岡村杢之助は銃士。慶応四年(1868)七月二十八日、羽後矢島にて戦死。三十三歳。

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秋田 北部 Ⅱ

2019年01月05日 | 秋田県
(正洞院跡)

前回訪問時に平田篤胤の墓は訪問済みであったが、今回改めて周辺の戊辰戦争殉難者の墓の掃苔に足を運んだ。かつてここには正洞院というお寺があった。正洞院は、若くして自害した、初代久保田藩主佐竹義宣の正室(下野那須城主烏山家の娘)を弔うために建立された寺である。維新後廃寺となったため、現在は古い墓石が点在しているのみであるが、その大半は無縁化しているようで場所によっては腰ほども伸びた雑草を乗り越えなければならない。隣接する秋田大学鉱業博物館からも道が通じている。


官軍 秋藩 大和久治之墓

 大和(やまと)久治は斥候。慶応四年(1868)八月八日(十八日とも)、羽後植田村にて戦死。四十六歳。

 長井文之助は銃士。明治元年(1868)九月十一日(八日とも)、羽後糠塚森にて戦死。十七歳。


官軍 秋藩 長井文之助之墓


天神林正之丞之墓

 天神林正之丞は銃士。慶応四年(1868)八月二十四日、羽後中小種村にて負傷。二十六日、死亡。三十七歳。


官軍 秋藩 福原藤四郎之墓

 福原藤四郎は銃士。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。二十六歳。


官軍 秋藩 古内冨之助之墓

 古内冨之助は斥候。明治元年(1868)九月十五日、羽後境村にて戦死。二十九歳。


野崎大内蔵徳壽之墓

 野崎大内蔵は三島郡寺泊聖徳寺の住職。俗名は窪沢大内蔵。慶応四年(1868)三月、京都で澤為量の征東軍に加わり、長州桂太郎隊に属した。同年八月十四日、羽後角間川にて戦死。二十一歳。「幕末維新全殉難者名鑑」では越後人、円一と紹介されている。

(白馬寺)


白馬寺


関清治政久之墓

 関清治は銃士。慶応四年(1868)八月二十四日、羽後中小種村にて戦死。二十九歳。


小野崎俊吉通張之墓

 小野崎俊吉は旗奉行。明治元年(1868)九月八日(四日とも)、羽後新田村にて戦死。四十九歳。

 菊地山三郎は銃士。明治元年(1868)九月八日、羽後新田村にて戦死。十七歳。

 八代忠治は銃士。明治元年(1868)九月八日、羽後新田村にて戦死。四十五歳。


官軍 秋田藩菊地山三郎墓


松岳忠高居士(八代忠治の墓)

 田口傳八は槍隊。明治元年(1868)九月十二日、羽後長浜にて戦死。三十一歳。


官軍 秋藩 田口傳八之墓

(闐信寺)


闐信寺(てんしんじ)


官軍 秋藩 渋川謙之進之墓

 渋川謙之進は介川敬之進隊。慶応四年(1868)、羽後角間川村にて戦死。二十六歳。

(本念寺)
 本念寺には、北川治三郎と桜田運太郎という二人の秋田藩士の墓がある。


本念寺


官軍 秋藩 北川治三郎之墓

 北川治三郎は銃士。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。三十二歳。


官軍 秋藩 桜田運太郎之墓

 桜田運太郎は槍隊。明治元年(1868)九月十二日、羽後長浜にて戦死。三十七歳。


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秋田 土崎

2019年01月05日 | 秋田県
(西船寺)
土崎は、雄物川の河口に位置する港町として繁栄したが、今は住宅街となっている。土崎地区の西船寺と興安寺という二つの寺を訪ねた。なお西船寺は直立不動の歌手東海林太郎の菩提寺である。


西船寺


肥州藩 池田敬重(池田助之進)墓

 池田助之進は肥後藩士。明治元年(1868)、羽後土崎港にて戦死。二十四歳。

(興安寺)


興安寺


伊州 佐兵衛墓

 佐兵衛は伊勢津藩。明治元年(1868)九羽後土崎にて戦死。

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