史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

秋田 楢山

2019年01月05日 | 秋田県
(金照寺)
金照寺は本堂と墓地が線路で分断されている。墓地を整地して霊園化する工事が始まっており、古い墓石は観音像の周りに集められ、隙間なく並べられている。幸いにして目当ての志賀留吉の墓は最後列に置かれていたので、墓石背面の漢文事績は読み取ることが可能であった。


志賀為吉の墓

 志賀為吉は文政八年(1825)秋田藩士滋賀春蔵の長男に生まれた。藩校明徳館の教授で、文久元年(1861)、評定奉行。翌年、軍事用掛砲術頭取。慶応二年(1866)には郡奉行兼評定奉行等を歴任し、幕末の藩政の中枢にあった。戊辰戦争では勤皇を唱えて積極的に活動し、その功をもって明治二年(1869)、藩参政に任じられ、一時病気で辞職したが、明治三年(1870)には少参事となった。明治四年(1871)三月二十五日の夜、秋田の自宅にて藩政の内紛から小室克三ら五人の壮士に襲われ、殺害された。年四十七。

(仰信寺)


仰信寺


官軍 佐藤喜三郎顕忠墓

 佐藤喜三郎顕忠は秋田藩卒。慶応四年(1868)八月一日、羽後関村にて戦死。三十三歳。

(玄心寺)


玄心寺


先祖累代之墓(安部才治の墓)

 安部才治は吉成弥門組。慶応四年(1868)八月十六日、羽後長浜にて負傷。九月一日、八橋病院にて死亡。二十三歳。


官軍 秋田藩高橋七之丞墓

 高橋七之丞は卒。慶応四年(1868)八月十八日、羽後左手子にて負傷。九月十四日、死亡。四十六歳。

(満福寺)
 満福寺は広い墓地を持つ寺で、ここで目当ての墓を探し当てるのは相当骨が折れる。時間があれば、まだ新しい発見があったかもしれない。


満福寺


官軍 秋藩 館岡小太郎之墓

 館岡小太郎は銃士。慶応四年(1868)七月二十八日、羽後矢島にて戦死。四十八歳(四十六歳とも)。


秀峰良善居士 慶巌洞忠居士
(石川忠四郎の墓)

 石川忠四郎は、橋本助右衛門隊銃士。慶応四年(1868)八月十三日、羽後角間川村にて戦死。十九歳。


官軍 秋藩 斎藤正治之墓

 斎藤正治は田中数馬組。慶応四年(1868)八月十三日、羽後角間川村にて負傷。八橋病院にて死亡。二十一歳。


官軍 秋藩 岡村杢之助之墓

 岡村杢之助は銃士。慶応四年(1868)七月二十八日、羽後矢島にて戦死。三十三歳。

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秋田 北部 Ⅱ

2019年01月05日 | 秋田県
(正洞院跡)

前回訪問時に平田篤胤の墓は訪問済みであったが、今回改めて周辺の戊辰戦争殉難者の墓の掃苔に足を運んだ。かつてここには正洞院というお寺があった。正洞院は、若くして自害した、初代久保田藩主佐竹義宣の正室(下野那須城主烏山家の娘)を弔うために建立された寺である。維新後廃寺となったため、現在は古い墓石が点在しているのみであるが、その大半は無縁化しているようで場所によっては腰ほども伸びた雑草を乗り越えなければならない。隣接する秋田大学鉱業博物館からも道が通じている。


官軍 秋藩 大和久治之墓

 大和(やまと)久治は斥候。慶応四年(1868)八月八日(十八日とも)、羽後植田村にて戦死。四十六歳。

 長井文之助は銃士。明治元年(1868)九月十一日(八日とも)、羽後糠塚森にて戦死。十七歳。


官軍 秋藩 長井文之助之墓


天神林正之丞之墓

 天神林正之丞は銃士。慶応四年(1868)八月二十四日、羽後中小種村にて負傷。二十六日、死亡。三十七歳。


官軍 秋藩 福原藤四郎之墓

 福原藤四郎は銃士。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。二十六歳。


官軍 秋藩 古内冨之助之墓

 古内冨之助は斥候。明治元年(1868)九月十五日、羽後境村にて戦死。二十九歳。


野崎大内蔵徳壽之墓

 野崎大内蔵は三島郡寺泊聖徳寺の住職。俗名は窪沢大内蔵。慶応四年(1868)三月、京都で澤為量の征東軍に加わり、長州桂太郎隊に属した。同年八月十四日、羽後角間川にて戦死。二十一歳。「幕末維新全殉難者名鑑」では越後人、円一と紹介されている。

(白馬寺)


白馬寺


関清治政久之墓

 関清治は銃士。慶応四年(1868)八月二十四日、羽後中小種村にて戦死。二十九歳。


小野崎俊吉通張之墓

 小野崎俊吉は旗奉行。明治元年(1868)九月八日(四日とも)、羽後新田村にて戦死。四十九歳。

 菊地山三郎は銃士。明治元年(1868)九月八日、羽後新田村にて戦死。十七歳。

 八代忠治は銃士。明治元年(1868)九月八日、羽後新田村にて戦死。四十五歳。


官軍 秋田藩菊地山三郎墓


松岳忠高居士(八代忠治の墓)

 田口傳八は槍隊。明治元年(1868)九月十二日、羽後長浜にて戦死。三十一歳。


官軍 秋藩 田口傳八之墓

(闐信寺)


闐信寺(てんしんじ)


官軍 秋藩 渋川謙之進之墓

 渋川謙之進は介川敬之進隊。慶応四年(1868)、羽後角間川村にて戦死。二十六歳。

(本念寺)
 本念寺には、北川治三郎と桜田運太郎という二人の秋田藩士の墓がある。


本念寺


官軍 秋藩 北川治三郎之墓

 北川治三郎は銃士。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。三十二歳。


官軍 秋藩 桜田運太郎之墓

 桜田運太郎は槍隊。明治元年(1868)九月十二日、羽後長浜にて戦死。三十七歳。


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秋田 土崎

2019年01月05日 | 秋田県
(西船寺)
土崎は、雄物川の河口に位置する港町として繁栄したが、今は住宅街となっている。土崎地区の西船寺と興安寺という二つの寺を訪ねた。なお西船寺は直立不動の歌手東海林太郎の菩提寺である。


西船寺


肥州藩 池田敬重(池田助之進)墓

 池田助之進は肥後藩士。明治元年(1868)、羽後土崎港にて戦死。二十四歳。

(興安寺)


興安寺


伊州 佐兵衛墓

 佐兵衛は伊勢津藩。明治元年(1868)九羽後土崎にて戦死。

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秋田 Ⅱ

2019年01月05日 | 秋田県

謹賀新年

実に六年振りの秋田における史跡訪問(その九割は墓巡りである)となった。
秋田県にはつい数か月前にも出張したばかりであったが、この時は個人的な時間をとれなかった。今回は金曜日の午後、秋田市近くの工場を見学し、翌日土曜日はゴルフというスケジュールであったが、ゴルフを嗜まない私は、週末を全て史跡訪問に充てることができた。
金曜日の夜に開かれた宴会は、秋田県の郷土料理(きりたんぼやら、ハタハタやら、いぶりがっこなど)と日本酒飲み放題というコースであった。地元の人にいわせると「日本酒は翌日残らない」というが、そもそもさほど酒に強くない私には、相当なダメージであった。脳みそが厚い雲で覆われているような朝であったが、それでも日の出時間に合わせて活動を開始した。レンタカー店の開く朝八時までは市内の寺院を歩いて回った。酒の影響だろうか、いつもの勘が働かず、いくら探しても見つけられない墓が三基。各寺で想定以上に時間を費やしてしまい、秋田市内の寺を回り終えた時点で、正午を過ぎていた。当初予定していた大仙市の史跡は諦めて、大曲から横手に直行することにした。一日目は横手市内の史跡も半分くらい積み残してしまったので、翌日も早朝から動きだし、前日の遅れを取り戻した。結果的には当初予定していた目的地を全て回り、予定になかった角館(仙北市)のお寺もいくつか回ることができた。

(旧亀ノ丁新町)


旧亀ノ丁新町

 最初の訪問地は、宿泊した市内のホテルに近い南通六丁目である。本来この辺りに雷風義塾址石碑があり、前回秋田市内を探索した時もその石碑を探し求めて歩き回ったが、行き当たらなかった。今回はその石碑に再挑戦したが、やはり見つけられなかった。「旧亀ノ丁新町」という旧町名の説明した鉄柱に、「幕末この辺りに雷風義塾が置かれた」と記載がある。雷風義塾は、平田篤胤の門人、小野崎通亮、井口糺らが始めた私塾で、幕末には秋田勤王派の拠点となった。

(正覚寺)


正覚寺

 織田寅蔵は岩崎(椿台)藩士。慶応四年(1868)八月二十九日、羽後長浜にて負傷。九月四日、八橋病院にて死亡。三十歳。


織田寅蔵平信之墓

(聲体寺)


聲体寺


官軍 吉川勇五郎忠行墓

 吉川(きっかわ)勇五郎は銃士。明治元年(1868)九月十五日、羽後境村にて戦死。二十八歳。


故執政小埜岡府君之墓

 小野岡義音(よしね)は、秋田藩家老(1785~1845)。天保の大飢饉では食糧調達に努めた。

(鱗勝院)


鱗勝院

 仁平文九郎は橋本助右衛門隊銃士。慶応四年(1868)八月十三日、羽後角間川にて戦死。二十六歳。


官軍 秋藩 仁平文九郎之墓


官軍 秋藩 樋口長吉之墓

 樋口長吉は斥候。慶応四年(1868)八月二十四日、羽後花館にて戦死。二十七歳。


官軍 秋藩 鎌田伊太郎之墓(右)
官軍 秋藩 忠岩道性居士

 鎌田伊太郎は銃士。明治元年(1868)九月十五日、羽後境村にて戦死。二十五歳。墓石が二つ並べられているが、左手は遺族が私的に建立したものだろうか。


官軍 隊長 瀬谷和三郎之墓

 瀬谷和三郎は浅利運吉隊。御刀番。慶應四年(1868)八月十三日、羽後角間川にて負傷。十月三日、死亡。三十二歳。

(傳法寺)


傳法寺

 傳法寺の無縁墓石の中に秋田藩士武藤善太郎の墓石がある。もう一つ官軍 秋藩の墓石があるが、被葬者不明。


秋田藩士の墓


武藤善太郎の墓

 武藤善太郎は銃士。明治元年(1868)九月十五日、羽後境村にて戦死。二十七歳。

(龍泉寺)


龍泉寺


設楽大助 設楽和一郎 墓

 設楽和一郎は卒。慶応四年(1868)七月二十八日、羽後矢島にて戦死。二十七歳。


田所勇之進の墓

 田所勇之進は銃士。慶応四年(1868)八月一日、羽後関村にて戦死。二十三歳。

(誓願寺)
 竹様の「戊辰掃苔録」によれば、ここに秋田藩士堀尾茂の墓があるはずだが、二回誓願寺を訪ねたが、見つけることはできなかった。


誓願寺


(應供寺)


應供寺

 應供寺墓地の一角に秋田藩士の墓が集められている。


秋田藩士の墓
前列右から 佐々木米蔵頼静之墓
祓川勝蔵朝晴墓 梅津忠名妻墓
伊勢久吉貞真墓 斎藤兵蔵墓 中山善右衛門墓
梅津忠村之奥墓(梅津千代吉の墓)

 佐々木米蔵は梅津千代吉家人。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。十五歳。
 払川勝蔵(正蔵とも)は梅津千代吉家人。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。二十六歳。
 伊勢久吉(久治とも)は、梅津千代吉家来。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。十八歳。
 斎藤兵蔵も梅津千代吉家人。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。二十一歳。
 中山善右衛門は梅津千代吉勢。歩行士。慶応四年(1868)八月(九月とも)八日、羽後福部羅にて戦死。二十八歳。
 梅津千代吉は番頭。隊長。明治元年(1868)九月八日、羽後福部羅にて戦死。二十七歳。


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