金照寺は本堂と墓地が線路で分断されている。墓地を整地して霊園化する工事が始まっており、古い墓石は観音像の周りに集められ、隙間なく並べられている。幸いにして目当ての志賀留吉の墓は最後列に置かれていたので、墓石背面の漢文事績は読み取ることが可能であった。

志賀為吉の墓
志賀為吉は文政八年(1825)秋田藩士滋賀春蔵の長男に生まれた。藩校明徳館の教授で、文久元年(1861)、評定奉行。翌年、軍事用掛砲術頭取。慶応二年(1866)には郡奉行兼評定奉行等を歴任し、幕末の藩政の中枢にあった。戊辰戦争では勤皇を唱えて積極的に活動し、その功をもって明治二年(1869)、藩参政に任じられ、一時病気で辞職したが、明治三年(1870)には少参事となった。明治四年(1871)三月二十五日の夜、秋田の自宅にて藩政の内紛から小室克三ら五人の壮士に襲われ、殺害された。年四十七。
(仰信寺)

仰信寺

官軍 佐藤喜三郎顕忠墓
佐藤喜三郎顕忠は秋田藩卒。慶応四年(1868)八月一日、羽後関村にて戦死。三十三歳。
(玄心寺)

玄心寺

先祖累代之墓(安部才治の墓)
安部才治は吉成弥門組。慶応四年(1868)八月十六日、羽後長浜にて負傷。九月一日、八橋病院にて死亡。二十三歳。

官軍 秋田藩高橋七之丞墓
高橋七之丞は卒。慶応四年(1868)八月十八日、羽後左手子にて負傷。九月十四日、死亡。四十六歳。
(満福寺)
満福寺は広い墓地を持つ寺で、ここで目当ての墓を探し当てるのは相当骨が折れる。時間があれば、まだ新しい発見があったかもしれない。

満福寺

官軍 秋藩 館岡小太郎之墓
館岡小太郎は銃士。慶応四年(1868)七月二十八日、羽後矢島にて戦死。四十八歳(四十六歳とも)。

秀峰良善居士 慶巌洞忠居士
(石川忠四郎の墓)
石川忠四郎は、橋本助右衛門隊銃士。慶応四年(1868)八月十三日、羽後角間川村にて戦死。十九歳。

官軍 秋藩 斎藤正治之墓
斎藤正治は田中数馬組。慶応四年(1868)八月十三日、羽後角間川村にて負傷。八橋病院にて死亡。二十一歳。

官軍 秋藩 岡村杢之助之墓
岡村杢之助は銃士。慶応四年(1868)七月二十八日、羽後矢島にて戦死。三十三歳。