(楽山園)
楽山園は、織田信長の次男信雄がこの地に城下町を築いた際に造った庭園である。
名勝楽山園
楽山園
御殿跡
楽山園は典型的な池泉回遊式庭園である。池を中心に中島や築山を配置し、起伏ある地形を作りだしている。一見すると手入れの行き届いたゴルフ場のようでもある。
庭園に隣接した場所に御殿(藩邸跡)がある。今、建造物は残っていないが、かつてここで小幡藩の政務が執られていた。
小幡藩は、元和元年(1615)天下統一を成し遂げた徳川家康が、織田宗家を継いだ織田信雄に大和宇陀三万石と小幡二万石を与えたことがその始まりで、その翌年、信雄の四男信良が仮陣屋に入り藩政が開始された。織田家の藩政は八代百五十二年続いたが、明和四年(1767)、小幡藩の内紛(山県大弐の明和事件)により織田家が出羽高畠に移封され、代わって親藩である松平忠恒がこの地に入った。以来、四代にわたって松平家の統治が続き、明治維新を迎えた。
幕末の藩主は松平忠恕(ただゆき)。幕府の奏者番や寺社奉行といった重職を歴任したが、戊辰戦争では早くから新政府への恭順を表明した。維新後は知藩事に任じられたが、廃藩置県により免職。明治三十五年(1902)、七十八歳で没した。
(食い違い廓)
食い違い廓
甘楽の街には城下町の風情が色濃く感じられる。楽山園近くの山田家主屋の東南側には食い違い廓と呼ばれる石垣が残されている。この奇妙な石垣は、戦時の防衛のため造られたといわれるが、下級武士が上級武士と出会うのを避けるためのものとも言われている。
(松平家大奥)
食い違い廓のある山田家のちょうど向い側に松平家大奥があった。今は江戸後期に築造された庭園が残されているのみである。大奥には奥方と何人かの腰元が住んでいたといわれる。幕末、ペリーが来航した際、将軍が江戸城大奥の女官たち十五~十六人を親藩である小幡藩のこの屋敷に疎開させたと伝えられている。
松平家大奥庭園
(中小路)
中小路は織田氏の統治時代に造られた道路で、道幅は十三~十四メートルもある。車の無い時代にこのような広い道路を作ったのは、全国的に珍しい。中小路沿いにある書院造りの屋敷や石垣は、城下町時代の面影を今に伝えるものである。写真左手の大きな屋敷は、小幡藩の勘定奉行も務めた高橋家もの。無患子(ムクロジ)の巨木が中小路を見下ろしている。
中小路
(大手門)
甘楽町歴史民俗資料館
大手門礎石
陣屋の内と外を分ける場所に門が設けられた。陣屋の正面にあたる場所には、大手門が置かれた。現在、ここにあった四脚門は残っていないが、門を支えた礎石が残されている。
大手門近くには甘楽町歴史民俗資料館が開設されている。建物は大正十五年(1926)に甘楽社小幡組製糸工場の繭工場として建設されたレンガ造り二階建て、瓦葺きのものである。
織田信雄の肖像画や書状などのほか、この地域で養蚕に使われていた道具類も展示されている。入館料二百円。
(雄川堰)
雄川堰
小幡の街を流れる雄川堰(おがわぜき)は、開削時期は不明であるが、藩政時代以前から存在していたといわれる。一級河川雄川から引き込んだ大堰があり、そこから取水して陣屋内に張り巡らされた小堰から成っている。古くから生活用水、非常用水、灌漑用水として活用されてきた。雄川堰は江戸時代から受け継がれる貴重な歴史遺産であると同時に、小幡の街並みに風情を添えている。私が訪れた時、楽山園にも雄川堰周辺にもほかに観光客らしき姿はなかった。全国的にはあまり有名とはいえない街であるが、落ち着きのある良い街並みである。もっと注目されて良い。
楽山園は、織田信長の次男信雄がこの地に城下町を築いた際に造った庭園である。
名勝楽山園
楽山園
御殿跡
楽山園は典型的な池泉回遊式庭園である。池を中心に中島や築山を配置し、起伏ある地形を作りだしている。一見すると手入れの行き届いたゴルフ場のようでもある。
庭園に隣接した場所に御殿(藩邸跡)がある。今、建造物は残っていないが、かつてここで小幡藩の政務が執られていた。
小幡藩は、元和元年(1615)天下統一を成し遂げた徳川家康が、織田宗家を継いだ織田信雄に大和宇陀三万石と小幡二万石を与えたことがその始まりで、その翌年、信雄の四男信良が仮陣屋に入り藩政が開始された。織田家の藩政は八代百五十二年続いたが、明和四年(1767)、小幡藩の内紛(山県大弐の明和事件)により織田家が出羽高畠に移封され、代わって親藩である松平忠恒がこの地に入った。以来、四代にわたって松平家の統治が続き、明治維新を迎えた。
幕末の藩主は松平忠恕(ただゆき)。幕府の奏者番や寺社奉行といった重職を歴任したが、戊辰戦争では早くから新政府への恭順を表明した。維新後は知藩事に任じられたが、廃藩置県により免職。明治三十五年(1902)、七十八歳で没した。
(食い違い廓)
食い違い廓
甘楽の街には城下町の風情が色濃く感じられる。楽山園近くの山田家主屋の東南側には食い違い廓と呼ばれる石垣が残されている。この奇妙な石垣は、戦時の防衛のため造られたといわれるが、下級武士が上級武士と出会うのを避けるためのものとも言われている。
(松平家大奥)
食い違い廓のある山田家のちょうど向い側に松平家大奥があった。今は江戸後期に築造された庭園が残されているのみである。大奥には奥方と何人かの腰元が住んでいたといわれる。幕末、ペリーが来航した際、将軍が江戸城大奥の女官たち十五~十六人を親藩である小幡藩のこの屋敷に疎開させたと伝えられている。
松平家大奥庭園
(中小路)
中小路は織田氏の統治時代に造られた道路で、道幅は十三~十四メートルもある。車の無い時代にこのような広い道路を作ったのは、全国的に珍しい。中小路沿いにある書院造りの屋敷や石垣は、城下町時代の面影を今に伝えるものである。写真左手の大きな屋敷は、小幡藩の勘定奉行も務めた高橋家もの。無患子(ムクロジ)の巨木が中小路を見下ろしている。
中小路
(大手門)
甘楽町歴史民俗資料館
大手門礎石
陣屋の内と外を分ける場所に門が設けられた。陣屋の正面にあたる場所には、大手門が置かれた。現在、ここにあった四脚門は残っていないが、門を支えた礎石が残されている。
大手門近くには甘楽町歴史民俗資料館が開設されている。建物は大正十五年(1926)に甘楽社小幡組製糸工場の繭工場として建設されたレンガ造り二階建て、瓦葺きのものである。
織田信雄の肖像画や書状などのほか、この地域で養蚕に使われていた道具類も展示されている。入館料二百円。
(雄川堰)
雄川堰
小幡の街を流れる雄川堰(おがわぜき)は、開削時期は不明であるが、藩政時代以前から存在していたといわれる。一級河川雄川から引き込んだ大堰があり、そこから取水して陣屋内に張り巡らされた小堰から成っている。古くから生活用水、非常用水、灌漑用水として活用されてきた。雄川堰は江戸時代から受け継がれる貴重な歴史遺産であると同時に、小幡の街並みに風情を添えている。私が訪れた時、楽山園にも雄川堰周辺にもほかに観光客らしき姿はなかった。全国的にはあまり有名とはいえない街であるが、落ち着きのある良い街並みである。もっと注目されて良い。