史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

甘楽

2019年03月09日 | 群馬県
(楽山園)
 楽山園は、織田信長の次男信雄がこの地に城下町を築いた際に造った庭園である。


名勝楽山園


楽山園


御殿跡

 楽山園は典型的な池泉回遊式庭園である。池を中心に中島や築山を配置し、起伏ある地形を作りだしている。一見すると手入れの行き届いたゴルフ場のようでもある。
 庭園に隣接した場所に御殿(藩邸跡)がある。今、建造物は残っていないが、かつてここで小幡藩の政務が執られていた。
 小幡藩は、元和元年(1615)天下統一を成し遂げた徳川家康が、織田宗家を継いだ織田信雄に大和宇陀三万石と小幡二万石を与えたことがその始まりで、その翌年、信雄の四男信良が仮陣屋に入り藩政が開始された。織田家の藩政は八代百五十二年続いたが、明和四年(1767)、小幡藩の内紛(山県大弐の明和事件)により織田家が出羽高畠に移封され、代わって親藩である松平忠恒がこの地に入った。以来、四代にわたって松平家の統治が続き、明治維新を迎えた。
 幕末の藩主は松平忠恕(ただゆき)。幕府の奏者番や寺社奉行といった重職を歴任したが、戊辰戦争では早くから新政府への恭順を表明した。維新後は知藩事に任じられたが、廃藩置県により免職。明治三十五年(1902)、七十八歳で没した。

(食い違い廓)


食い違い廓

 甘楽の街には城下町の風情が色濃く感じられる。楽山園近くの山田家主屋の東南側には食い違い廓と呼ばれる石垣が残されている。この奇妙な石垣は、戦時の防衛のため造られたといわれるが、下級武士が上級武士と出会うのを避けるためのものとも言われている。

(松平家大奥)
 食い違い廓のある山田家のちょうど向い側に松平家大奥があった。今は江戸後期に築造された庭園が残されているのみである。大奥には奥方と何人かの腰元が住んでいたといわれる。幕末、ペリーが来航した際、将軍が江戸城大奥の女官たち十五~十六人を親藩である小幡藩のこの屋敷に疎開させたと伝えられている。


松平家大奥庭園

(中小路)
 中小路は織田氏の統治時代に造られた道路で、道幅は十三~十四メートルもある。車の無い時代にこのような広い道路を作ったのは、全国的に珍しい。中小路沿いにある書院造りの屋敷や石垣は、城下町時代の面影を今に伝えるものである。写真左手の大きな屋敷は、小幡藩の勘定奉行も務めた高橋家もの。無患子(ムクロジ)の巨木が中小路を見下ろしている。


中小路

(大手門)


甘楽町歴史民俗資料館


大手門礎石

 陣屋の内と外を分ける場所に門が設けられた。陣屋の正面にあたる場所には、大手門が置かれた。現在、ここにあった四脚門は残っていないが、門を支えた礎石が残されている。
 大手門近くには甘楽町歴史民俗資料館が開設されている。建物は大正十五年(1926)に甘楽社小幡組製糸工場の繭工場として建設されたレンガ造り二階建て、瓦葺きのものである。
 織田信雄の肖像画や書状などのほか、この地域で養蚕に使われていた道具類も展示されている。入館料二百円。

(雄川堰)


雄川堰

 小幡の街を流れる雄川堰(おがわぜき)は、開削時期は不明であるが、藩政時代以前から存在していたといわれる。一級河川雄川から引き込んだ大堰があり、そこから取水して陣屋内に張り巡らされた小堰から成っている。古くから生活用水、非常用水、灌漑用水として活用されてきた。雄川堰は江戸時代から受け継がれる貴重な歴史遺産であると同時に、小幡の街並みに風情を添えている。私が訪れた時、楽山園にも雄川堰周辺にもほかに観光客らしき姿はなかった。全国的にはあまり有名とはいえない街であるが、落ち着きのある良い街並みである。もっと注目されて良い。

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安中 Ⅱ

2019年03月09日 | 群馬県
(南窓寺)
 安中市板鼻の南窓寺には算学者、天文学者小野良佐栄重の墓がある。


南窓寺


壽算榮重居士
(小野良佐(りょうすけ)栄重の墓)

 小野良佐は、宝暦十三年(1763)、碓氷郡中野谷村に生まれた。江戸で関流算学者藤田貞資の門下で算学を学び、更には伊能忠敬について天文学を学び、海岸線の測量にも参加した。また、天文、暦術、算術に関する図書の編集にも関係し、寛政九年(1797)には郷土板鼻に和算塾を開き、文化八年(1811)には恩師藤田貞資の遺命により関流数学師範の免許皆伝が伝達され、関流六伝の家元として日本和算数学界の中心的地位を授けられた。「上毛の数学栄重を得て始めて大なり」と称された。天保二年(1831)没す。

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碓氷峠 Ⅱ

2019年03月09日 | 群馬県
(めがね橋)
 碓氷峠を越えて坂本側に降りてくると、めがね橋と呼ばれる巨大な構造物に出会う。正式には「碓氷第三橋梁」といい、国指定重要文化財に指定されている。急勾配でしられる碓氷峠は、路線決定と工事が難航した。軽井沢―直江津間は明治二十一年(1888)に開通していたが、それから五年後の明治二十六年(1893)四月にようやく開業を迎えた。碓氷線には、当時の土木技術の粋を集めて、二十六のトンネルと十八の橋梁が造られたが、なかでもこのめがね橋は二百万個以上のレンガを使用した、国内でも最大のレンガ造アーチ橋である。


めがね橋

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軽井沢

2019年03月09日 | 長野県
(中軽井沢)
 最近は便利になったもので、WEB上のライブカメラを通じて現地の天候など、自宅に居ながらリアルタイムで把握することができる。軽井沢周辺にも小雨は降ったようだが、雪にはなっていないようなので、軽井沢行きを決行した。
 朝四時に起床。八王子から二時間ほどで軽井沢に行き着いた。確かに雪は降っていなかったが、氷点下の寒さに震えた。やはり冬の軽井沢は寒かった。
 もう一つ誤算だったのは、この日の軽井沢の日の出時間が午前七時前であったことであった。しばらく駐車場で明るくなるのを待ったが、結局待ちきれずに薄暗い中で撮影を開始した。


本陣 土屋家

 中軽井沢駅を出た辺りが、中山道の沓掛宿である。本陣を務めた土屋家の表札に「本陣」とあるのが辛うじて宿場町の名残である。
 文久元年(1861)十一月八日、和宮は沓掛宿にて宿泊した。同年十月二十日に京都を出立した和宮一行は、二十三泊を重ねて十一月十五日に江戸に到着した。
 長い時間をかけて和宮の宿泊した中山道の宿場町を訪ねてきたが、ようやくこれで二十三宿場全てを踏破することができた。無茶苦茶寒かったが、人知れず満足感に浸った。


脇本陣蔦屋跡

 本陣土屋家の向い側、八十二銀行の駐車場内に脇本陣蔦屋跡石碑がある。
 もう一つの脇本陣は、旅館桝屋本店として今も営業している。


旅館桝屋本店

 中軽井沢から碓井峠を越えて群馬県安中へ向かった。ところどころ路面が凍結していて、非常に神経を使うドライブであった。やはりこの時期、自動車を運転して長野県に行くというのはお勧めしません。

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日暮里 ⅡⅩⅧ

2019年03月02日 | 東京都
(一乗寺)
 一乗寺まで来ると地下鉄千代田線根津駅が近い(台東区谷中1‐6‐1)。本堂前に江戸中期の儒学者太田錦城の墓がある

 太田錦城の名は元貞、字は公幹、才佐と称した。錦城は号である。加賀国大聖寺に生まれ、当時の大儒皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、一家の学を建てた。晩年に至り、一時京畿に遊び、三河国吉田藩に仕えたが、加賀国金沢藩から賓師として招かれ、三百石を給された。文政八年(1825)、六十一歳にて没。「九経談」「春草堂詩集」「鳳鳴集」など非常に多くの著述がある。


一乗寺


錦城太田先生之墓

(法蔵院)


法蔵院

 森まゆみ著「彰義隊遺聞」(新潮文庫)によれば、法蔵院に彰義隊士有賀庫三郎の墓があるという(台東区谷中1‐6‐26)。墓地には有賀家の墓が三基ほどあったが、いずれも彰義隊士のものとは特定できなかった。

 有賀庫三郎は、上野戦争の後、市内に潜伏し、慶応四年(1868)八月十九日、榎本艦隊に加わり品川を出帆、箱館に向かったが、暴風雨に遭って乗っていた三嘉保丸が沈没、命からがら九十九里浜に上陸した。箱館に向かって奥州街道を陸路青森まで行ったが、海峡を渡る船がなく、そのうち五稜郭は降伏、また江戸に戻ったという。庫三郎は下谷金杉下町に蟄居して、毎日上野を望み、同志の慰霊に余生を送った。

(大圓寺)


大圓寺

 これも森まゆみの「彰義隊遺聞」から。上野戦争前夜、五月初旬のことである。官軍の酔っ払いと彰義隊士西村賢八郎と関規矩守とが谷中三崎町ですれ違った。両者は斬り合いとなり、薩摩藩士三人は斬殺された。彼らの遺体は近くの大圓寺まで運ばれそこに埋葬されたという(台東区谷中3‐1‐2)。
 鹿児島側の記録は少し違っている。斬殺された三名は、有吉庄之丞、湯地次右衛門、有馬早八郎。いずれも小銃第三隊に属する薩摩藩士で、斥候として出たところを襲われ、一人は敵に手傷を負わせて斬り伏せられ、もう一人は深手を負って切腹、残る一人も切腹しようとしたところを鉄砲で打たれて死んだとされている。


三崎坂

 大圓寺前の緩やかな坂が三崎(さんさき)坂である。諸説あるが、この地が駒込、田端、谷中の三つの高台に向かうためこう呼ばれるようになったといわれる。

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青山霊園 補遺 Ⅸ

2019年03月02日 | 東京都
(青山霊園 つづき)


小宮山綏介君墓

小宮山南梁は有名な風軒の孫。水戸藩士。幼名造酒之介。南梁は号。明治以降は綏介(やすすけ)を名乗った。幕末期の藩内の激しい政争には巻き込まれず、祖父の死後も膨大な著作と豊富な史料、書簡、書籍に接し学問研鑚を深めた。元治元年(1864)の天狗・諸生の乱の後、召し出されて大御番格弘道館助教を経て、東扱郡奉行に就任した。その間、学者の目で冷静に藩内外で起こる出来事を記録したのが「南梁年録」で、現在も水戸藩政史研究の基礎的史料となっている。維新後も大蔵省、東京府へ出仕。明治二十三年(1890)には「古事類苑」編集委員に任じられ、学者として活躍を続けた。明治二十九年(1896)、東京で没。六十八歳。(1種ロ19号5側)


永田熊吉之墓

先日、大河ドラマ「西郷どん」の最終回が放映されたところである。番組の終わりに「西郷どん紀行」と称して、ドラマ所縁の史跡が紹介されるが、そこで青山霊園の(大河ドラマではタレント塚地武雅が演じた)永田熊吉の墓が紹介された。画面に映ったのはほんの数秒であり、青山霊園のどこにあるかというところまでは分からなかった。
通院のため休みをとった日、早速青山霊園を訪ねた。霊園の事務所で場所を尋ねると、地図を渡された。そこに永田熊吉だけでなく、西郷糸子や川路家、有村家の墓の場所が記載されていた。大河ドラマの影響で青山霊園を訪ねる人も増えているということだろう。

永田熊吉は西郷家に代々仕える使用人。隆盛が生まれたときからその成長を見守った。西南戦争後は西郷従道家で庭師として雇われた。墓石によれば、明治三十三年(1900)、六十六歳で死去。傍らには妻袈裟の墓もある。袈裟は明治二十二年(1889)、五十六歳にて没している。


正五位勲四等松野礀墓(右)
松野Craraの墓(左)

松野礀は弘化四年(1847)長州美祢郡大田の生まれ。明治三年(1870)、北白川宮に随行してドイツに渡り、高等森林学校にて林学を学び、明治八年(1875)帰国して内務省に迎えられ、初の林業技術者として林業行政に携わった。技術者養成の必要性を痛感し、林業試験研究の端緒となる樹木試験場を創設した。さらに東京大学林学科の前身である山林学校を設立し、初代校長として人材育成に貢献した。山林局の要職を歴任後、明治三十八年(1905)目黒に設立された林業試験場の初代場長となった。明治四十一年(1908)五月、六十一歳にて没。
妻クララは1853年ドイツ・ベルリンの生まれ。日本人男性とドイツ人女性の正式な国際結婚第一号といわれる。明治九年(1876)、我が国で最初の官立幼稚園(東京女子師範学校附属幼稚園)の主任保母としてフレーベルの幼児教育法を導入し、指導にあたった。またピアノ奏法の指導にも先駆的役割を果たした。昭和六年(1931)没。


松野礀顕彰碑
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田町 Ⅶ

2019年03月02日 | 東京都
(綱町三井倶楽部)
 綱町三井倶楽部(港区三田2‐3‐7)は、大正二年(1913)にイギリス人建築家所サイア・コンドルの設計で建てられた、ネオ・バロック風の建物である。コンドルは明治十年(1877)に来日し、鹿鳴館、銀座煉瓦街をはじめ、幾多の建築に携わり、日本の近代化に貢献した。この建物は、三井家の賓客接待用として建てられたもので、室内装飾や家具などに優美な装飾が見られる。建物の背後には広い庭園もあるという。平成二十年(2008)には、門も建築当時の姿に復元された。


綱町三井倶楽部

 三井倶楽部から隣接するオーストラリア大使館の敷地は、江戸時代には佐土原藩島津家や、会津藩保科家の屋敷があった場所で、かつては前面道路に面したところに大名屋敷の建物を模した、近代に建てられた長屋もあったという。

 つい先日取引先のオーストラリア系企業のパーティーに招かれ、オーストラリア大使館の敷地に入る機会を得た。庭園を取り囲むように建物が建てられている。庭園は藩邸時代の名残かもしれない。

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