映画とライフデザイン

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映画「私が棄てた女」 浦山桐郎

2019-10-20 10:53:45 | 映画(日本 昭和35年~49年)

映画「私が棄てた女」は1969年(昭和44年)の浦山桐郎監督作品である。


1969年(昭和44年)のキネマ旬報ベスト10の2位の作品である。これも長らく見れなかったが、ようやくDVD化された。浅丘ルリ子が主演であるような映画ポスターであり、クレジットもトップである。今は妖怪のようになった浅丘ルリ子もこのころは美しかった。バストトップは見せないが、入浴シーンもある。実際には小林トシエがまさに「棄てた女」である。この映画で映る東京を見ているだけで懐かしく面白い。

自動車会社に勤める吉岡努(河原崎長一郎)は、社長の姪のマリ子(浅丘ルリ子)と社内恋愛をしていた。ある夜、かつては学生運動の仲間だった長島(江守徹)らとクラブに行きホステスの女(夏海千佳子)を抱いた。その女は努と会ったことがあるという。そしてミツ(小林トシエ)の噂を聞いて驚いた。ミツは努が学生時代に遊び相手として見つけた女工である。努が海岸におきざりにして逃げて別れたのだ。


マリ子と一緒に社長一家の別荘に向かう途中の道で、努は偶然ミツを見かけて追いかける。突然の再会にミツは泣き崩れた。ミツが子供を中絶したことなど努は知る由もなかった。社長一族との宴で努はかなり泥酔した。それでも努はマリ子と結婚した。しかし、努の心には、ミツを無残に見捨てたことへの思いがあったのだ。一方、ミツはその頃、借金をかかえて飲み屋で働いていたが、女工時代からの仲間しま子から努の結婚のニュースを聞いた。それでも彼女は努との思い出を大事にしていた。

ミツはひょんなことから知り合ったキネ婆さんが入った老人ホームに住み込みで働くようになる。ある日、努は業者の接待にきたホステスのしま子からミツの近況を聞き、会った。二人は結ばれた。その様子をしま子の情夫が撮影していた。マリ子の許にかつて努がミツに送ったラブレターが送られてきた。マリ子は、老人ホームで働くミツを訪ね罵倒し、手切金をつきつけた。手紙はしま子の仕業だったのだが。。。

1.浦山桐郎 キューポラのある街との比較
浦山の前作「キューポラのある街」では、川口の鋳物工場で働く父親東野英治郎をもつ中学生吉永小百合が主人公だ。川口の貧民エリアに住み、修学旅行にも貧しくて行けず、成績がいいのに高校にも行きたいのに行けない。まさに実際の浦和一女をロケして、校庭で体操する女子学生を恨めしそうに見つめる吉永小百合の姿を映す。これがせつない。その貧しい吉永小百合の友人である川口の富裕層のお嬢さんを登場させ観客に格差社会を訴える。
キューポラのある街
浦山桐郎


主人公河原崎長一郎は名前は出ないが、大隈翁の銅像が映る早大校舎と早稲田独特の学部章をつけた学ランで早稲田出身を示す。1960年の回想シーンが出てくる。安保闘争にうつつを抜かし、雑誌のペンフレンド募集の欄を見て町工場の女工であるミツと待ち合わせる。そして、処女のミツと無理やり交わる。当然相手のミツは積極的になる。でも河原崎は本気ではない。そして、関係を断ち切る。今は社長のメイである浅丘ルリ子と付き合っている。社長一族のお供で葉山の別荘に行く。みんなは横須賀線の一等車に乗って葉山に向かう。社長兄弟と一族が一家団らんする光景はいかにもブルジョアの世界だ。


川口と東京のブルジョア、レベルが違うかもしれない。でも、浦山桐郎が強調したいのは同じ格差社会である。今、盛んに格差社会について言われるが、昭和30年代から40年代の格差に比べればマシだと思う。

2.1969年の五反田
浅丘ルリ子河原崎長一郎が2人で乗っている自動車の車窓に移る山手線のガードは五反田駅みたいだ。信号待ちしていると横断歩道にミツの姿が見える。あわてて車から飛び出し追いかける。行き着くのは目黒川沿いの五反田の歓楽街だ。今はもうない。その昔は青線エリアともいわれた飲み屋でミツは働いている。このエリアは浅丘ルリ子がマドンナの映画「男はつらいよ 忘れな草」にも出たことがある。近くのガード上を古い型の池上線が走る。


自分はこの飲み屋街の目黒川を隔てて反対側にあった産婦人科で生まれた。今はラブホテルになっている。信号待ちしていた駅前の交差点横に当時大人気の不二家があった。その近くに自分の家はあった。この映画が公開された昭和44年は祖父が死んだ年、思い出はつきない。


3.1960年代の老人
ミツはひょんなきっかけで老人ホームに勤めるようになる。そこにいる老人たちはみんな和装だ。昭和40年代前半であれば、このおばあさんたちは明治生まれである可能性が高い。自分が子供のころのおばあさんというのはみんなこんな感じだった。この映画の数年後自分は小学校を卒業する。その写真に写る母親は全員絵に描いたように和装である。明治大正生まれが減るたびに和装は減る。昭和一桁だった母親たちが境目だったのかもしれない。



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