映画「太陽はひとりぼっちは1962年のミケランジェロ・アントニオーニ監督の作品
「情事」、「夜」、「太陽はひとりぼっち」はミケランジェロ・アントニオーニ監督の不毛の三部作といわれる。今回改めて再見して、とても60年代前半とは思えないスタイリッシュな映像に感激する。イタリアの美的センスというのは超越しているのであろうか?建物センスが日本の30年進んでいる。同じ敗戦国とは思えない。アランドロンとモニカ・ヴィッティの主演2人の姿が そのローマの街並みにマッチしている。
ヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)が婚約者と別れるシーンからスタートする。長く付き合ったのにも関わらず、別れるカップルの無情な姿が映し出される。その後で、自分の母親をローマの証券取引所に探しに行く。母親は証券会社社員で場立ちのピエロ(アラン・ドロン)の顧客である。
1.ローマの証券取引所
アランドロン演じるピエロは証券取引所の場立ちである。場立ちどうしで大きな声をだしあって、いったいこれで取引が成り立つのかと思ってしまう。ピレリとかフィアットといった銘柄は日本でもよく知られている名門企業だ。日本の株式取引は完全にコンピュータ取引となり、以前のように兜町の証券取引所の立会い場での活気あふれる光景がなくなった。
飛び交う会話は「なんかいい情報はないか?」いかにもインサイダー取引を連想させる。時代が時代なんで仕方がない。アランドロン演じる証券仲買人は、他の投資家が増資のうわさがあるとコソコソ話しているのを聞きつけて買いを入れる。それに追従して買いが入り、短時間で上昇、すぐ利食いして100万リラをゲットする。場立ちどうしで紙の伝票を融通しあっている。まあ、何でもありの時代なんだと思ってしまう。
そんな景気がいい話がでたあとで、株式が暴落する場面となる。もはや破産だと言っている人がいる。現物取引であれば、会社倒産してゼロにならない限りは一気に飛ぶはずはないので、信用取引であろう。モニカの母親も徹底的にやられてしまうシーンが映る。娘に向かってあなたが別れてしまったから婚約者から金を融通してもらえないなんてすごいセリフまである。このローマ証券取引所のシーンを戦後屈指の名シーンと評する人もいる。自分はそうかな?という感じはするけど。
2.キネマ旬報と当時の著名評論家の評価
1962年のキネマ旬報ベスト10では5位である。この年に3年間で製作されたミケランジェロアントニオーニの3部作が一気に公開されたのか、三作ともエントリーされている。広いジャンルでの粋人植草甚一は太陽はひとりぼっちを1位に選出、自分の高校の大先輩双葉十三郎は4位、私の大学時代に「映画論」の講義をしていた津村秀夫は5位に選出する。大学当時のテキスト本「津村秀夫 映画美を求めて」が私の書棚にある。
津村秀夫は三部作を評して「いずれも構成法に相通ずるものがあって、つまり劇的発展がなく、ただ水の流れのように単調である。起伏といってもしれている。だから、どの作品も”結末”とか”解決”とかいうものはなく。。」(津村1966:p223)としている。確かにあらすじといってもどう書いていいのか困ってしまう。最後の結末も観念的でよくわからない。この2人の愛を語るときに「なぜこの男と別れねばならないのか。。。なぜ株式店員と結ばねばならぬか」これって証券会社社員をおちょくっている感じがする。いかにも戦前派らしい津村秀夫の発言である。
3.不毛の男女関係
別れの場面とすぐわかるシーンがほぼ無言のまま続く。男はよりを戻そうとするがうまくいかない。津村秀夫はそのシーンをとらえて「アントニオー二の芸術は極めて会話が少ないこと、それだけにまた人間の生活感情がムードによって左右され、あるいはそれに流されていくような情景を得意とする」(津村1966:p221)とする。音楽はほとんど流れない。扇風機の鈍い音が響いていく。
そして、冒頭の別離のシーンを評して「感傷味のない、ドラマティックでもない静かな不気味な美しさである」とする。(津村1966:P220)
「アントニオー二の映画美の急所をつけといわれれば、静寂と孤独というよりあるまい」(津村1966:p218)「夜」におけるジャンヌ・モローのけだるい振る舞いも音楽のないなかで静かに追っていく。静寂なシーンと平行して、女友達との遊びの中でモニカ・ヴィッティがアフリカの原住民の振る舞いをしたり、ローマを俯瞰する自家用飛行機にのって楽しむ姿や映像づくりで遊んでいるところもある。
もともとアランドロン演じるピエロはモニカ・ヴィッティ演じるヴィットリアに関心がない様子だったのが、急接近。モニカはキスをさせず焦らせる。それでも追うアランドロン、最初はガラス越しでようやくキス、そしてベッドへ。モニカは心からのっているわけでもない。そしてわけのわからないラストに向かう。この三部作というのが、モニカ・ヴィッティにとってもピークではなかろうか?彼女の持つアンニュイな魅力が充満している。
「情事」、「夜」、「太陽はひとりぼっち」はミケランジェロ・アントニオーニ監督の不毛の三部作といわれる。今回改めて再見して、とても60年代前半とは思えないスタイリッシュな映像に感激する。イタリアの美的センスというのは超越しているのであろうか?建物センスが日本の30年進んでいる。同じ敗戦国とは思えない。アランドロンとモニカ・ヴィッティの主演2人の姿が そのローマの街並みにマッチしている。
ヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)が婚約者と別れるシーンからスタートする。長く付き合ったのにも関わらず、別れるカップルの無情な姿が映し出される。その後で、自分の母親をローマの証券取引所に探しに行く。母親は証券会社社員で場立ちのピエロ(アラン・ドロン)の顧客である。
1.ローマの証券取引所
アランドロン演じるピエロは証券取引所の場立ちである。場立ちどうしで大きな声をだしあって、いったいこれで取引が成り立つのかと思ってしまう。ピレリとかフィアットといった銘柄は日本でもよく知られている名門企業だ。日本の株式取引は完全にコンピュータ取引となり、以前のように兜町の証券取引所の立会い場での活気あふれる光景がなくなった。
飛び交う会話は「なんかいい情報はないか?」いかにもインサイダー取引を連想させる。時代が時代なんで仕方がない。アランドロン演じる証券仲買人は、他の投資家が増資のうわさがあるとコソコソ話しているのを聞きつけて買いを入れる。それに追従して買いが入り、短時間で上昇、すぐ利食いして100万リラをゲットする。場立ちどうしで紙の伝票を融通しあっている。まあ、何でもありの時代なんだと思ってしまう。
そんな景気がいい話がでたあとで、株式が暴落する場面となる。もはや破産だと言っている人がいる。現物取引であれば、会社倒産してゼロにならない限りは一気に飛ぶはずはないので、信用取引であろう。モニカの母親も徹底的にやられてしまうシーンが映る。娘に向かってあなたが別れてしまったから婚約者から金を融通してもらえないなんてすごいセリフまである。このローマ証券取引所のシーンを戦後屈指の名シーンと評する人もいる。自分はそうかな?という感じはするけど。
2.キネマ旬報と当時の著名評論家の評価
1962年のキネマ旬報ベスト10では5位である。この年に3年間で製作されたミケランジェロアントニオーニの3部作が一気に公開されたのか、三作ともエントリーされている。広いジャンルでの粋人植草甚一は太陽はひとりぼっちを1位に選出、自分の高校の大先輩双葉十三郎は4位、私の大学時代に「映画論」の講義をしていた津村秀夫は5位に選出する。大学当時のテキスト本「津村秀夫 映画美を求めて」が私の書棚にある。
津村秀夫は三部作を評して「いずれも構成法に相通ずるものがあって、つまり劇的発展がなく、ただ水の流れのように単調である。起伏といってもしれている。だから、どの作品も”結末”とか”解決”とかいうものはなく。。」(津村1966:p223)としている。確かにあらすじといってもどう書いていいのか困ってしまう。最後の結末も観念的でよくわからない。この2人の愛を語るときに「なぜこの男と別れねばならないのか。。。なぜ株式店員と結ばねばならぬか」これって証券会社社員をおちょくっている感じがする。いかにも戦前派らしい津村秀夫の発言である。
3.不毛の男女関係
別れの場面とすぐわかるシーンがほぼ無言のまま続く。男はよりを戻そうとするがうまくいかない。津村秀夫はそのシーンをとらえて「アントニオー二の芸術は極めて会話が少ないこと、それだけにまた人間の生活感情がムードによって左右され、あるいはそれに流されていくような情景を得意とする」(津村1966:p221)とする。音楽はほとんど流れない。扇風機の鈍い音が響いていく。
そして、冒頭の別離のシーンを評して「感傷味のない、ドラマティックでもない静かな不気味な美しさである」とする。(津村1966:P220)
「アントニオー二の映画美の急所をつけといわれれば、静寂と孤独というよりあるまい」(津村1966:p218)「夜」におけるジャンヌ・モローのけだるい振る舞いも音楽のないなかで静かに追っていく。静寂なシーンと平行して、女友達との遊びの中でモニカ・ヴィッティがアフリカの原住民の振る舞いをしたり、ローマを俯瞰する自家用飛行機にのって楽しむ姿や映像づくりで遊んでいるところもある。
もともとアランドロン演じるピエロはモニカ・ヴィッティ演じるヴィットリアに関心がない様子だったのが、急接近。モニカはキスをさせず焦らせる。それでも追うアランドロン、最初はガラス越しでようやくキス、そしてベッドへ。モニカは心からのっているわけでもない。そしてわけのわからないラストに向かう。この三部作というのが、モニカ・ヴィッティにとってもピークではなかろうか?彼女の持つアンニュイな魅力が充満している。