今日は日曜日。タレントに関するマタイの福音書の朗読と説教を聞いた。ある金持の主人が旅に出る前に、僕(しもべ)を呼び、ある僕には5タラントン預け、他の僕には1タラントンの現金を預けた。ながい旅行から帰ってみると、5タラントン預けた僕はそれで商売をして5タラントン儲けて10タラントンを主人へ差し出した。1タラントンだけ預かった僕はそれを大切に地中へ埋めて保管し、主人が帰ってきたとき掘り出して返した。
さてどちらの僕が主人に褒められたでしょうか?日本人の道徳観からすると主人から預かった大金(1タラントンはほぼ8000万円くらい)を勝手に使って商売をした僕はいけないと思いませんか?忠実に保管し、大金へ手をつけなかった僕の方が信頼したくなりますね。ところが主人は預けた大金を勇気をもって使い、商売をした僕のほうを褒め、重用します。地中に埋めて保管していた僕からお金を受け取ると、その僕を首にして放り出します。
人間が大切だと思ってだいじに持っているものは全て神が預けたもの。勇気をもってその大切なものを活用しなさい。そのほうが神に褒めらるのです。
それはそれとして、タレントの才を日本語では「天与の才」と言う時もあります。これは神の預けた才能に近いのですが、「与えた」と「預けた」との違いがあります。ここが案外、重要な違いかも知れません。
テレビで活躍する日本のタレントたちは、その才能を神からの預かりものと感じているでしょうか?
テレビを見ている我々は彼らの才能は神のものと考えながらみているでしょうか?俳優、女優、歌手、司会者、お笑い芸能人・・・などをタレントと呼んでいますが、彼らの芸を我々は感心しながら何となく見てはいませんか。見ている我々は芸人の才能をその人間のものと見がちです。
欧米人は神様の預けたものと、無意識のうちに感じながら、見て聞いて楽しんでいるのです。全員がそうだと言っているのではありませんが。少なくとも私自身は時々そのように感じます。
特に日本の芸人で、「神からの才能」を思い出すのは、美空ひばりの歌を聞くときです。天賦の才があるだけでなく、ひばりさんは死にいたるまでチャレンジを続けました。本人は神から預かった才能と考えていたか、いなかったは別にしてテレビを見ている私は神の存在を考えながらひばりさんの歌を聞いています。
素晴らしい妻や子供や孫を持っていたら、みな神様からの預かりもの。と言ってしまえば綺麗事に過ぎますね。テレビタレントはその才能を神からの預かりものと冷静に感じることが出来るのです。家族は有難いのですが近すぎる存在なのかも知れません。(終わり)