後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

突然消えてしまったアイヌの友人と少数民族の悲しさ

2016年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前の北海道にはあちこちにアイヌの人々の集落が散在していたそうです。
仙台に生まれ育った私にも少年の頃アイヌの友人がいました。その友人がある日忽然と消えてしまったのです。80歳になった現在でもその時の別離の悲しさを忘れられません。
戦後すぐに北海道のアイヌの人々の生活向上のため東北地方に移住させる運動があったそうです。真偽のほどは知りませんが共産党が進めていたらしいです。
小学6年生だった当時、私の家は仙台の八木山という郊外にありました。あちこちに雑木林があり引揚者がそれを切り開いて農業を始めた頃です。その一角に父母と息子の3人家族のアイヌの人が入植してきました。その噂を聞いた私は好奇心に駆られて行って見たのです。
雑木林の中に粗末な家があり、十歳くらいのアイヌの少年が一人だけ淋しそうにしていました。すぐに仲良くなり、聞くと父と母は山を下り町中の道路工事の仕事に行っているそうです。
何度も遊びに行きました。アイヌの少年は学校にも行かずに一人で遊んでいます。
ある寒い日に、夕方おそくまで遊んでいたら両親が帰って来ました。父親は色白で髪や髭が黒々としていていかにもアイヌ人のような風貌です。母親も色が白くて美しい人です。
父親が私を見つけると歓迎し、小屋に招じ入れ囲炉裏に薪をくべて暖めてくれました。淋しくしている息子と遊んでくれて有難うと言うのです。
その一家が突然、こつ然と消えてしまったのです。サヨナラも言わずに何処かへ引っ越して行ったのです。
遊びに行った私が見たのは雑木林の中にある狭い広場だけです。家が跡形も無く撤去されています。わずかに囲炉裏のあった場所に黒い薪の燃え残りがあるだけです。その光景に唖然としました。
現在考えてみると違法に入植してきたアイヌの一家を地主が追い出したのかも知れません。
しかしまだ小学6年生だった私にはそんな事情は想像も出来ません。
まるで神隠しにあったように私を歓迎してくれた一家が消えてしまったのです。
そのことは私の心の悲しみになりました。そしてその悲しみは80歳になった現在も決して忘れられません。
下にアイヌの人々の写真を示します。

(写真の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C です。)
そんなアイヌの一家のことを時々思い出すような旅に出ました。それは昨年の10月の知床地方などを巡る旅でした。四六時中アイヌのことを考えていたのではありませんが、時々思い出すのです。
知床の風景を見るとアイヌの人々はこんな場所に住んでいたと想うのです。
そしてヒグマやエゾシカを見ると彼らの猟の様子を想像するのです。
鶴も見ればアイヌと鶴の関係はどうたったのだろうかと思いを巡らせるのです。
下に昨年の10月に知床で撮ったそんな写真を示します。







ここでいきなり話は飛びます。いつもの事ですが今日もお許し下さい。
国連の調査によると世界の2500種の言語が絶滅危惧におちいっているそうです。
日本ではアイヌ語、琉球語、八丈語などの8言語が国連によって絶滅危惧と言われています。
ある民族の文化や言語が消えることは悲しいことです。その民族が存在し、人々が幸せに暮らしていた事実が完全に忘れ去られるのです。何故か理解出来ませんが、私にとってそれが深い悲しみなのです。

一般的に民族の消滅はその民族が使っていた言語の消滅で判断出来ます。
アイヌ人の血を受け継ぐ人々が現在日本には23000人余が居ると言いますが、アイヌ語を日常使う人は絶えました。ですからアイヌ語は事実上消滅したと言っても大きな間違いではありません。言葉が無くなったので、アイヌ文化は消滅したと考えても良いわけです。固有の文化が消滅すれば、その民族が消滅したとも考えることが出来ます。
アイヌ語については話し手が15人いるとも言いますが、日常使っている人は殆ど居ないのが実態です。これは財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構(札幌市)もこの実態を認めています。

かつて北海道や本州の北半分に住んでいたアイヌの人々は消滅したのです。
この現象は生物界の絶滅危惧種の悲しい運命と似ているようです。
人間界の文化も弱肉強食と考えると悲しい限りです。
そして一つの言語や民族の消滅は悲しいものです。親しかった知人や友人の死の悲しみとは違う何か奥深い悲しみを感じるのです。
皆様は如何でしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)