後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

美しい新緑の奥多摩湖と悲しい物語

2019年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム
今日から東京地方は梅雨入りのようです。昨日は最後の晴天です。午前中から家を出て新緑の奥多摩湖まで小さな旅に行きました。
奥多摩湖まで山々の緑を楽しみんがらゆっくり2時間30分かけて車を走らせました。
昨日撮って来た奥多摩湖と少し下流の多摩川の4枚の写真をお送りいたします。







湖の風景を眺めながら小鳥の声を聞いていました。空気が爽やかです。平和です。
しかし突然悲しいこと思いだしました。
この大きなダムの建設工事で犠牲になった殉難者の慰霊碑を思い出したのです。

5番目の写真がダムの南側にある87名の殉難者の慰霊碑です。
写真の出典は2013年05月09日に掲載した私のブログ記事です。「小河内ダム建設殉難者と満蒙開拓青少年義勇隊」という題の記事です。
この慰霊碑は30年位前に見に行って、刻まれている殉難者の名前を丁寧に見て行きました。
87名の半分くらいが金とか李とか朴とか朝鮮系の名前なのです。
慰霊碑の足元には野の花と水の瓶が供えてありました。

奥多摩湖にまつわる悲しい話はこれだけではありません。
湖底に沈んだ小河内村の人々は悲しみながら故郷を離れ移住して行ったのです。
移転総数は945世帯だったのです。
昭和13年、ようやく小河内村との補償の合意が出来ました。
小河内村長小澤市平氏は、『湖底のふるさと小河内村報告書』(昭和13年)のなかで次のように書いています。
・・・「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである」・・・
この『湖底のふるさと小河内村報告書』の内容は、https://blog.goo.ne.jp/kenmatsu_fs/e/2fe8b1559b226d7c6422de6b1fe785c6 に出ています。
この報告書は、小河内村のダム建設に振り回され困り果てていく姿とその窮状を都議会へと訴え出て何とか解決しようという戦いの記録として残されたものです。
 直ぐに離れることの決まった耕地を耕すものはいなくなり、村は荒廃し、収入を得られなくなったことで貧窮に追い込まれていく村の様子が書かれています。
そして昭和13年にようやく起工式を迎えます。
その後第二次世界大戦による中断がありましたが1957年(昭和32年)に竣工しました。
そして1961年(昭和36年)には昭和天皇・香淳皇后が小河内ダムを視察します。

さて移住の苦難や悲しみは筆舌に尽くせませんが一つだけご紹介します。
八ヶ岳の麓に移転した酒井冶孝さんの手記です。
(http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=411)
 白いモダンな形の魔法瓶。それがダム竣工式の記念品だった。当時は未だ珍しく、とても重宝させて貰ったものだ。顧みますと都民の水の確保と言う大儀の中で住民のそれぞれが新天地へと移動、我々の祖先は県営開墾事務所長、安池興男先生の斡旋により八ヶ岳への入植を決意。昭和13年4月大きな不安と期待を胸に2才の私と3才の姉を連れ、仲間28戸清里駅に降り立ち以来先生との深い交わりが生まれ運命を共にしたのです。足を踏み入れた八ヶ岳山麓は一面の笹の荒野で、物資の乏しい中での開墾の明け暮れ、気候的には夏青天井が我が家なりと快適だったが冬の雪と寒さは想像をはるかに絶し、誰れ彼れとなくこれでは子供が可哀想だ、学校がほしいと先生に懇願、早速国県に交渉するも理解が得られず最終、水道局のご高配により、これが大きな力となり昭和15年7月苦心の学校が完成。その経過は筆舌に難いものがあり当時における最大のエピソードである。その後住宅をはじめ計画された総てが完了、今日の基礎になっています。・・・

新緑の美しい奥多摩湖にまつわる歴史を想う時その悲しい歴史を忘れることが出来ないのです。
日本の、そして朝鮮の労働者が87殉難したのです。
その上、945世帯の小河内村の人々が悲しみながら故郷を離れ移住して行ったのです。
いつの時代でも下積みの人々が犠牲になるのです。
このような悲劇は全国のダム建設にまつわっているのです。
最近話題になった八ツ場ダムの建設も下積みの人々が犠牲になっているのです。
この世の不条理です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

初夏の風物詩、北海シマエビ打瀬帆舟の風景

2019年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の東部には長大な砂洲の岬が湾曲して海を囲んでいる不思義な風景が広がっています。その岬に囲まれた海を野付湾と言いますが、地元では尾岱沼(おだいとう)と呼んでいます。この尾岱沼は別海町にあります。

1番目の写真は砂洲で出来た野付半島が湾曲して海を囲んでいる風景です。この野付湾は昔、沼だったのでを尾岱沼と呼ぶのです。この野付湾の写真の出典は、http://betsukai.jp/blog/0001/archives/2009/06/images/1245371831.jpg です。
この尾岱沼は初夏と秋に北海シマエビ漁があります。
船の舳先から船尾にかけて幅の広い網を海中に降ろし、船を横向きにして幅広い網を帆の受ける風の力で静かにゆっくり引っ張って行くのです。雄大な海の中に浮かんだ白帆の風景が素晴らしいのです。
この北海シマエビをとる打瀬帆舟の風景が季節の風物詩として有名なのです。写真で示します。

2番目の写真は野付半島のナラワラの木を背景にした打瀬舟の写真です。
出典は、https://www.hokkaidoisan.org/heritage_039.html です。

3番目の写真は船を大きくして帆を沢山上げた打瀬舟の写真です。出典は、http://ugk70671.blog117.fc2.com/blog-entry-282.html です。

4番目の写真は伝統的な逆三角形の帆を上げた打瀬舟の写真です。
出典は、http://www.hokkaidolikers.com/articles/180 です。
この北海シマエビ漁の風景を楽しむための観光客への案内は以下のURLにあります。
http://betsukai-kanko.jp/tokusanhin/shimaebi/hokkaisimaebi-question/
夏漁は例年6月中旬~7月中旬で、秋漁は例年10月中旬~11月上旬です。

この野付半島には不気味な光景のナラワラとトドワラがあります。私共は2012年に訪れました。
その旅日記は以下の記事にあります。
『水辺の風景(1)荒涼たる風景の野付湾と、トドワラやナラワラの無気味さ』(2012年09月21日掲載)
冒頭部分だけ抜粋します。
・・・北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その南に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという枯れたトドマツの原とナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。不気味です。
その白骨のような林が野付湾を一層荒涼とさせています。人間の住む世界ではありません。
しかし野付湾には美味しい縞エビが棲んでいて、その味を楽しむことが出来ます。
今回の旅の目的の一つは荒涼たる野付湾と、トドワラやナラワラを見てその写真を撮り、茹でた縞エビを食べることでした。茹でた縞エビは濃厚な味で、確かに有名なエビだけに申し分の無い美味でした。・・・

5番目の写真が北海シマエビです。
ビジターセンターでこのようなシマエビを食べました。茹でたシマエビが美味しかったです。
この野付半島の向かい側、16km沖には国後島があります。野付港は国後島の町や村に行く船の発着場として昔は賑わっていたそうです。
訪れたビシターセンターの2階には昔の択捉島や国後島の町や村落の写真が沢山置いてあります。丁寧に見て行くと択捉・国後には多くの日本人が住み、鮭やニシンを取っていたことが判ります。

毎年、6月になるとこの北海道の初夏の風物詩、北海シマエビをとる打瀬帆舟の風景を思い出します。あれから7年の月日が流ましたが昨日のように鮮明に思い出します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)