後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

珈琲館の閉店、ささやかな地方文化の消滅

2019年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム
近くにあるコーヒー専門の昔風の喫茶店が閉店しました。
東小金井に近い五日市街道沿いあった「くすの樹」が40年間の営業を終えたのです。
さまざまな雑誌やTVで紹介される地元では有名な喫茶店でした。
近隣には喫茶専門の店が無かったので私共も何度も行き自分の生活空間のように思っていました。
永久に続くと勝手に思い込んでいたので大きなショックを受けました。
「くすの樹」は文字通り楠木などの大木で囲まれ緑の蔦で覆われていました。青い瓦の三角屋根でヨーロッパ調の美しい外観で内部は昔風の木造りでした。
世界中の香り高いコーヒーを出していました。内装が昔の喫茶店と同じようだったのです。
静かな店内に座っているとベートーベンやモーツアルトやチャイコフスキーの名曲を思い出すのです。別に音楽は流れていませんが、レトロな店なので昔クラシック音楽の喫茶店で聞いた音楽を思い出すのです。
このコーヒーの店が閉店しました。儚いです。これでまた一つささやかな地方文化が消滅したのです。
先日家内が悲しみながら撮った閉店後の「くすの樹」の写真をお送りします。









後で調べたら4月15日の閉店の前の数日間は、大勢のお客さんが連日つめかけたそうです。
4月6日(土)は、朝9時 開店前から、入店待ちの大行列だったそうです。入店制限のため、名前を記名してから名前が呼ばれ、店内に案内されるまで、1時間以上も待ったそうです。
この店は代々続く郷農の子孫が自分の広い土地を使って40年前に開業したようです。

閉店のご挨拶が「元珈琲館くすの樹店主のBlog」、https://ameblo.jp/cafe-kusunoki/entry-12444741686.html に掲載してあります。
昔から「善い商人は店を早く閉める」と言いますが「くすの樹」の店主はまさしく善い商人でした。商売がおおらかだったのです。
そんな雰囲気があったので多くの人々に愛されたのでしょう。
しかし此の世は儚いものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「私の身の廻りにある緑と花の風景」

2019年06月03日 | 写真
私は花や樹々のある風景が好きです。何時も身の回りにあるようにしています。そんな緑と花の風景写真をお送り致します。
1番目の写真は今デスクトップを叩いている窓から見える庭の緑です。現在は枝を刈りこんで気分良くなりました。
2番目の写真はこの窓の下の花です。
3番目の写真は私がよく行く公園の花園です。
4番目の写真は小金井公園のケヤキの大木です。
5番目の写真は古い農家の先祖が江戸時代に木曽の御嶽さんの参拝の帰りに木曽から持ち帰ってきた楠木です。










文化革命の悲劇が天安門事件の原因

2019年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム
明日の6月4日は天安門事件の30周年記念日です。
天安門事件とは、1989年6月4日(日曜日)に北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し軍隊が武力行使し多数の死傷者を出した事件です。
通常、日本で「天安門事件」という時はこの事件のことです。
中国では周恩来の追悼で天安門で起きた騒乱を 第一天安門事件と言い1989年の事件を第二天安門事件と言います。
今日の日本の新聞は第二天安門事件だけを取り上げて民主化運動を武力弾圧することは悪いと非難しています。
何故、鄧小平が武力弾圧をしたか、その原因を考えないのです。単純に武力弾圧は悪いと叫んでいるだけで事件の考察があまりにも皮相的なのです。
今日の私の主張は文化革命による民衆の悲惨な体験が第二天安門事件の原因になっているという主張です。
毛沢東の命令に従った紅衛兵の狂った略奪行為で全ての国民が苦難の生活を送りました。
指導的立場にいた人々は全員農村に送られ強制労働をさせられました。死者は40万にんから一説によると1000万人とも言われています。
まさしく文化革命は1966年から1976年までの10年間も続いた国内戦争でした。
中国人は皆この悲惨な混乱を起こさないためには天安門のデモを武力鎮圧をすべきと感じたのです。民主化よりも平穏な日常生活を選んだのです。
天才的な政治家の鄧小平がこの民衆の感じ方を見逃すはずはありません。武力鎮圧を断行したのです。
武力鎮圧に反対した者は1976年に終結した文化革命の悲惨さを体験しなかった若い学生達だったのです。中年以上の中国人は鄧小平を支持したのです。そして鄧小平の市場経済化政策を歓迎したのです。
結果的には中国は平穏になり経済的に大躍進をしたのです。鄧小平は正しかったのです。
しかし第二天安門事件の数十万人の犠牲者を忘れるべきではありません。そして中国の民主化は葬られたのです。

さてここで文化革命や天安門事件に関連した中国の政治家の写真を見てみましょう。

1番目の写真は毛沢東です。1949年に天安門の上から中華人民共和国の建国を宣言した頃は英雄でした。
しかし彼は共産主義の狂信者で、なおかつ権力欲の亡者でした。その後の大躍進政策や文化革命によって民衆を塗炭の苦しみに追いやったのです。

2番目の写真は毛沢東の下で首相を務めた周恩来です。毛沢東の残酷な政策で苦しむ民衆を救おうと努力した善い政治家でした。民衆は周恩来が大好きでした。

3番目の写真は鄧小平です。天安門のデモを武力鎮圧し中国の経済を大躍進させた人物です。しかし彼の性格は冷徹で周恩来のような人気はありませんでした。日本に来て新幹線に乗り感動していました。

4番目の写真は日本に来て中曽根総理と握手している胡耀邦主席です。胡耀邦主席は中国の民主化政策を進めようとしますが、鄧小平によって失脚させられます。彼の死後に追悼の為に天安門広場に学生たちが集結したのです。そして30年前の明日、天安門事件が起きたのです。

5番目の写真は趙紫陽です。彼は学生の改革要求を「愛国的」であると評価したために胡耀邦と共に失脚しました。
私は文化革命の終わった後の1981年から数回、中国に行き文化革命の悲惨な破壊行為の跡を嫌になるほど見ました。下放させられた周栄章教授から下放の悲惨な強制労働の残酷さを何度も聞きました。
瀋陽では破壊されたカトリック教会で冷たい床に膝まづいて彼等と一緒に祈りました。教会の椅子は全て紅衛兵が暖をとる焚火になってしまったのです。

こんな体験から私は軽々しく天安門事件を一方的に非難出来ないのです。それは中国人にとって避けることの出来なかった悲劇です。そして人類の愚かさを示す悲劇でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============================
(1)文化革命、https://ja.wikipedia.org/wiki/文化大革命
当時の中華人民共和国の経済は大躍進による混乱ののち、党中央委員会副主席兼国家主席に就任して実権を握った(実権派と呼ばれる)劉少奇や鄧小平共産党総書記が、市場経済を部分的に導入し(このため、実権派はまた走資派とも呼ばれた)回復しつつあったが、毛沢東はこの政策を、共産主義を資本主義的に修正するものとして批判していた。「中国革命は、(劉や鄧のような)走資派の修正主義によって失敗の危機にある。修正主義者を批判・打倒せよ」というのが毛沢東の主張であった。そのころ、毛沢東を支持する学生運動グループがつくられ、清華大学附属中学(日本の高校に相当)で回族(イスラム教を信仰する中国の少数民族)の張承志によって紅衛兵と命名された。
毛沢東の腹心の林彪共産党副主席は指示を受け、紅衛兵に「反革命勢力」の批判や打倒を扇動した。実権派や、その支持者と見なされた中国共産党の幹部、知識人、旧地主の子孫など、反革命分子と定義された層はすべて熱狂した紅衛兵の攻撃と迫害の対象となり、組織的・暴力的な吊るし上げが中国全土で横行した。劉や鄧が失脚したほか、過酷な糾弾や迫害によって多数の死者や自殺者が続出し、また紅衛兵も派閥に分れて抗争を展開した。さらに旧文化であるとして文化浄化の対象となった貴重な文化財が甚大な被害を受けた。
紅衛兵の暴走は毛沢東にすら制御不能となり、毛は1968年に上山下郷運動(下放)を主唱し、都市の紅衛兵を地方農村に送りこむことで収拾を図る。その後林彪は毛と対立し、1971年9月毛沢東暗殺計画が発覚したとされる事件が起き、飛行機で国外逃亡を試みて事故死する(林彪事件)。林彪の死後も「四人組」を中心として文革は継続したが、1976年に毛沢東が死去、直後に四人組が失脚して、文革は終息した。
犠牲者数については、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第十一屆三中全会)において「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計されている。しかし、文革時の死者数の公式な推計は中国共産党当局の公式資料には存在せず、内外の研究者による調査でも40万人から1000万人以上と諸説ある。大革命によって、1億人近くが何らかの損害を被り、国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらした。

(2)天安門事件の武力弾圧、https://ja.wikipedia.org/wiki/文化大革命
6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国のメディアによっても報じられるようになる。実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装した兵士が配置に着いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された。
その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、戒厳令実施の責任者である李鵬首相の指示によって、人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が、天安門広場を中心にした民主化要求をする大学生を中心とした民衆に対して投入された。複数の外国メディアや大使館からの公電によれば、解放軍の進行は一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で民衆に対して無差別に発砲したと伝えられた。
この際に、中国人民解放軍のトラックは、事前に民衆に襲撃されており、武器や弾薬の一部が奪われていた。現場に居た四君子の一人である高新の証言によると、当時の天安門広場には、鉄パイプ、火炎瓶、ライフル1丁、機関銃1丁があり、民衆は非武装・無抵抗ではなく人民軍と戦闘を行う準備がある程度は整っていた。
広場へと続く道路では民衆がバスを横転させ放火し、炎のバリケードを作り、橋の上からは石やコンクリートブロックを兵士に投げつけた。兵士の一部はデモ隊に巻き込まれ、暴行され、撲殺される者も居た。或いは逃げ遅れた兵士を民衆が捕まえ、ガソリンを掛けて燃やし、死体を陸橋にぶら下げるなど、民衆による残忍な行為もあった。人民軍第54軍では民衆の暴行を受け、死者1名、重傷246名、軽傷1,500名、失踪150名という被害を受けたが、上層部からの命令を守り、最後まで発砲しなかった。天安門事件を研究している二十一世紀中国総研のディレクターで横浜市立大学名誉教授の矢吹晋はこの状況について、人民軍の発砲は味方が死傷する様な重大局面で行われており、一方的な虐殺ではなく双方に被害のある市街戦だったと述べている。また、矢吹は89年12月4日の『読売新聞』夕刊においても、天安門での虐殺は不確かな噂やデマに基づく誤報だと指摘した。一晩中現場に居たスペイン国営テレビの極東支局特派員ファン・レストレポ記者も同じく、本国のマドリードに送ったテープが恣意的に編集され、広場での虐殺という歪んだ事実が報道されてしまったと述べている。
広場へ続く道路での武力鎮圧は数時間続き、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、最終的に中国人民解放軍の説得に応じて広場から退去した。また、スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた。
なお、学生運動のリーダー達の一部は、武力突入前にからくも現場から撤収し、支援者らの手引により中国国外へ亡命した。1995年に製作されたアメリカのドキュメンタリー映画「天安門THE GATE OF HEAVENLY PEACE」の中で、事件発生時に既に脱出していた学生側リーダーの柴玲はインタビューに対し、「流血を期待していた(其实我们期待的就是流血)。中国共産党政府を追い詰めて人民を虐殺させなければ、民衆は目覚めない。」と発言した。・・・・