後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の年間第16主日のミサは動画配信で与りました」

2020年07月19日 | インポート
今日は年間第16の主日です。ミサを動画配信であずかりました。
日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めていましたが、制限しながら教会でのミサが始まりました。けれども高齢者は出席はしません。
東京大司教区では土曜日の夜に行う主日のミサを動画配信しています。
古い伝統では土曜日の夜に日曜日が始まるのです。ですから土曜日の夜に日曜日の主日のミサも行えるのです。
私どもは何時ものように今日の午前に昨日の土曜日の夜の年間第16主日のミサにあずかりました。

1番目の写真は司式したタルチシオ菊地功神父さまです。
何時もながらタルチシオ菊地功神父の信者への愛の深さや優しさに感動しました。
そして説教も格調高く、しかも分かりやすいのっです。
そこで以下に今日の説教の冒頭を示します。
「大司教、タルチシオ菊地功神父の今日の年間第16主日のミサ説教」
「すべてに心を配る神はあなた以外におられない」と、知恵の書は記していました。
わたしたちはこの世界が、創造主である神によって支配されていることを信じています。神は「正義の源」であるその力を通じて「万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方」であると、わたしたちは信じています。

しかしながら、同時にわたしたちは、この世界が様々な矛盾に包まれていることも知っています。神が、その愛といつくしみをもって創造された世界であるにもかかわらず、そこに大きな矛盾が生じるのはなぜなのか。

それは例えば、環境破壊もその矛盾の一つであります。いったいなぜ、そのような矛盾が生じるのでしょうか。

教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」には、こう記されています。
「わたしたちがずうずうしくも神に取って代わり、造られたものとしての限界を認めるのを拒むことで、創造主と人類と全被造界の間の調和が乱されました。このことによって、わたしたちに賦与された、地を『従わせ』、『そこを耕し、守る』という統治の任にゆがみが生じたのです(66)」

すなわち、人間の欲望や思い上がりが、あたかも人間が神の座を奪い取り、神の存在なしですべてをコントロールできるかのように勘違いをさせ、勝手な行動を続けてきたがために、この世界に矛盾を生じさせてしまったのだと、教皇は指摘されます。・・・・以下は、https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2020/07/post-e23f18.html?fbclid=IwAR2gmUIGw2OftWOqlkql75-q9YJ5y4YPOR5li8RK__aqwUmtsngtuNZAwE8 に続きます。

追加した2枚の写真は今日の動画配信のミサの場面です。




「イエス様や神の愛は荒唐無稽な話です、とても信じられません!」

2020年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する文章を書きたいと思います。
日本の人々は意識していませんが仏教の影響を深く受けています。日本は正真正銘の仏教国です。
しかしその一方で、明治維新以来、日本は西洋に学び、富国強兵をしてきました。その結果、ヨーロッパの文化も日本に入って来ました。キリスト教も入って来ました。
しかしキリスト教は仏教とあまりにも違います。仏教と非常に違うので理解出来ません。当然、信じることも不可能です。
こんなに欧米と交流のある現在でも日本のキリスト教徒は人口の3%以上になりません。増える傾向もありません。

キリスト教が理解出来ないのは、それが愛の宗教だからです。愛という言葉は明治維新以前には現在のように広く使われている言葉では無かったのです。
神が人間を愛しています。イエス様も人々を愛しています。人間は神やイエス様を愛します。
キリスト教では神やイエスや人間の絆は愛で結ばれているのです。このようなことを信じられますか?
このような考えは仏教にはまったく存在しません。仏教国の日本人に理解出来ないのは当然ではないでしょうか。

ここで愛という言葉の意味を考えてみましょう。愛とは相手を大切にする心です。相手の苦しみや悲しみに心を寄せ、その苦しみを担ってあげることです。相手が好ましいと思う心です。
キリスト教では神が人間を愛するのでイエス・キリストという人間を地上に送り、人々を救けようとしました。キリストはいろいろな教えを説いた後で、人間の罪を担って十字架についたのです。
死んで3日目にふたたび生き返り、弟子たちに会ったのです。そして天上に上がり全知全能の神の右の座についたのです。
そして天上から神とイエスは地上の人々を愛し続けているのです。

私はカトリック信者です。毎週、日曜日には教会のミサに行きます。
それでは私は神やイエス様が愛して下さっているという実感を何時も持っているのでしょうか?
答は、否!です。
しかしイエス様に愛されているという感じは時々持てます。例えばミサの中で、神父さんが「イエスの体」と言いながらパン片を私の手にくれる時に感じます。
その上、神父さんが私を信じ、大切にしてくれると、私は「イエス様が私を愛している」と感じます。
愛してくれれば、当然自分もイエス様を愛し、その教えに心を寄せます。

そして私の場合は洗礼を受けたカトリック立川教会の主任司祭をしていた塚本金明神父さまを忘れられません。そしてカトリック小金井教会の初代主任司祭だったムニ神父さまの愛を忘れられません。そしてその後、主任司祭になった山本量太郎神父さまの愛を忘れません。
現在の主任司祭の神父さまからも愛を感じます。
こうしてカトリックでは神父さんを通うしてイエス様の愛を実感するのです。神の愛を感じるのです。
愛されていると感じれば人間は相手を愛します。
これがキリスト教が「愛の宗教」と言われる理由なのです。

しかし元来、人間は疑い深い性格を持っています。イエス様や神の愛など信じられないのです。
しかし1日、24時間のうち数秒でもイエス様や神の愛を感じられば、それが決定的に重要になります。信者になれるのです。

まあ一般的に言えばイエス様や神の愛は荒唐無稽な話です。
多くの日本人がそれを信じないのも自然なことではないでしょうか?
宗教は無理に信じてはいけません。他人に無理強いしてはいけません。自然体で考え、信じられる人が信じれば良いことです。
私は絶対にキリスト教を他人へお薦めしません。
そして私は信じて初めて「キリスト教は愛の宗教だ」という意味が理解出来たような気がします。
世の中には信じないと理解出来ないものもあるのですね。

今日の挿し絵代わりの写真は一昨日、小金井公園に行って撮って来た林の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)