後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「戦後の貧しさ、そして現在の豊さをしみじみ幸福に思う」

2020年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前生まれ、戦後育ちの私は少年時代にひどく貧しい生活を体験しました。私だけが貧しかったのではなく日本中が貧しかったのです。進駐して来たアメリカ兵のジープが走り、その一方で復員兵がギターをかき鳴らしながら物乞いをしていました。
食料も乏しく住宅は戦災に焼け狭い部屋に家族が重なるようにして寝ていました。
現在の豊な生活に比べると戦後の貧しい時代は悪夢でした。現在の豊さを思うとしみじみとした幸福感につつまれます。戦後の悪夢は忘れることが出来ません。
しかしそんな苦しい経験をしたからこそ現在の幸福を一層深く感じるのです。それは貧乏を経験した人の特権です。そしてその特権は貧しい家に生まれ大人になって豊な生活をした全ての人々の特権なのです。

今日は戦後の生活がどんなに貧しかったか、食生活を一つの例としてご紹介いたします。食生活と言っても昔食べた魚と、豊な現在に食べている魚の比較をしたいと思います。
戦中、戦後、私は魚をよく食べました。もっと正確に言うと魚しか食べられませんでした。漁港の塩釜から少し内陸に入った仙台市に24歳まで住んでいました。
私が戦前に食べた魚は塩イワシ、塩タラ、イカ、塩ニシン、塩鮭、それに多量のクジラ肉でした。どれも塩釜の北にある三陸海岸の近海で多量に獲れる魚ばかりです。イカ以外はものすごく塩が強いものばかりでした。
戦前、戦後は氷が無いし、ましてや冷凍技術などほとんど無かったのです。腐らないように塩漬けにして塩釜から仙台へ鉄道輸送しなければならなかったのです。
料理方法はといえば、塩漬けのイワシ、タラ、ニシンを焼いて食べたのです。イカは煮つけにします。イカの塩辛もよく食べました。クジラ肉は味噌をつけて焼きました。
当時は三陸海岸近海に多数のクジラが回遊して来ました。小さな捕鯨船で獲って、女川漁港で解体して仙台へ送るのです。それが戦後、南氷洋の捕鯨が始まると多量の冷凍クジラ肉が仙台の魚店で売られるようになりました。今でも覚えていますが高校時代の弁当のおかずは味噌漬けのクジラ肉でした。
生の魚は塩釜の近海で獲れたボラ、カレイ、スズキ、などでした。煮つけで食べました。
牛や豚や鶏の肉は全然食べられませんでした。それに外食は出来ませんでしたから江戸前の握り寿司は見たことがありませんでした。外食には外食券が必要だった時代だったのです。
お寿司と言えば海苔巻寿司と稲荷寿司だけでした。
戦前、戦後の仙台の庶民は塩釜が遠方なので生の刺身は食べられません。それからどういう訳かアジやサバは無かったのです。食べた記憶がありません。その上、ウナギの蒲焼は見たこともありませんでした。
北海道のタラバガニや毛ガニは遠方過ぎてだめです。ですから蟹と言えばワタリガニだけでした。しかし三陸沖で毛ガニが獲れる季節があったらしく塩釜で大釜で茹でたものを食べた記憶があります。

さて現在はどうでしょう?
何よりも世界中の美味しい魚が鮮魚として、あるいは刺身として食べることが出来るのです。
輸送中も冷凍装置を動かし、魚類を完全に冷凍状態で南米沖やアフリカ沖や北大西洋から日本各地のスーパーへ直接送る流通システムが完備してあるのです。
冷凍も極低温にし、解凍技術も進歩したので地球の向う側の魚や貝でも刺身で食べられます。
近海もののメバル、カレイ、ギ
キンメダイ、イナダ、タイ、カツオ、ノドグロ、から淡水魚のアユ、イワナ、コイまで活きの良い状態で売っているのです。
そんな魚の写真を「角上魚類」、東久留米店で撮った写真で示します。









こういう時代になると魚の食文化は日本全国が皆同じになってしまいます。
私がよく行く山梨県の山の中のスーパーの魚の売り場は東京と寸分変わらない刺身が並んでいるのです。その光景を昔の仙台の魚屋と比較すると感慨無量です。
そして現在の幸福を一層深く感じるのです。こうして私は幸福な老境を過ごしています。
日本の経済成長に努力した全ての人々に感謝しています。感謝しながら最近の豪雨と山崩れで悲嘆にくれている熊本をはじめ九州の人々や最上川が氾濫した山形の人々の苦難に心を寄せ祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)