人間の記憶力とは不思議なもので、幼少や少年の頃に覚えたことは一生忘れません。忘れていても必ず、フッと鮮明に思い出すのです。
その記憶も季節によって変わります。秋になると私は落葉焚きのにおいと紅葉の風景を思い出します。
昔は落葉焚きは禁止されていませんでした。秋になると落ち葉を掃き集め焚火をしたものです。そしてその煙のにおいが懐かしいです。

1番目の写真は以前に私の山林の中の小屋の庭でした落葉焚きです。
以前は焚火禁止がなかったので秋になると必ず落葉焚きをしました。毎年秋になると自宅の庭でもしました。
そしてサツマ芋を焚火の中に入れます。私は不器用なので焼き芋が上手に作れません。半生でガリガりだったり焼け過ぎて黒焦げになったりします。
それも懐かしく思い出します。
落ち葉焚きをしなくなって何年にもなります。
落ち葉焚きは秋の風物詩だったのです。消えてしまった風物詩です。
そしてもう一つの秋の思い出は紅葉を求めて遠くへ旅したことです。紅葉が美しくなる北海道や東北地方に何度も行きました。
ある時は関東と信州をつなぐ三国峠を超えて新潟県の苗場や秋山郷の紅葉をもとめて旅をしました。
苗場のゴラドンゴラという日本一長い5キロメートルもあるロープウエイに乗って撮った紅葉の写真をお送りします。

2番目の写真はゴラドンゴラです。谷川と紅葉が美しく写っています。

3番目の写真はゴラドンゴラ から撮った山の紅葉です。
全山が黄、橙、茶色に彩られ、起伏のあるゴンドラからの俯瞰は今まで見たことも無いすばらしさでした。
この苗場からさらに足を伸ばして新潟県と長野県の県境まで行くと秘境の秋山郷があります。紅葉が美しい所です。

4番目の写真は秋山郷の滝と周囲の紅葉です。

5番目の写真は紅葉した秋山郷の山です。
秋山郷はあまりにも山深い秘境なのでそこに人が住んでいるとは誰も知りませんでした。
それが江戸時代に「北越雪譜」を書いて有名になった鈴木牧之が秋山郷に入り、「秋山紀行」を書き、人が飢饉にもめげず住み着いていることを報告しました。そして隔絶したの独特な風習を書いています。
「北越雪譜」の中にある秋山郷の冬季の部分は凄惨です。食糧難で家族が一人、二人と息を引き取ってゆく極限状態を描いています。
その文章の行間には静かな祈りが満ちています。
現在、秋山郷は舗装道路がついていますが大型バスは通行出来ません。津南町まで大型バスで行って、そこで小型バスや乗合タクシーに乗り換えて、山並み深く分け入ります。
ついでに少し付け足しておくと、秋山郷は現在、13の山間集落の総称です。新潟県の8つの集落と長野県の5つの集落があります。
それにしても紅葉の美しい所でした。
今日は秋になると思い出す焚火のにおいと紅葉の風景について書きました。
思い出す紅葉の風景はたくさんありますが、今日は新潟県の苗場と秘境、秋山郷の紅葉をご紹介しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)====追記=============
「北越雪譜」の「秋山紀行」の概要をお送りいたします。
鈴木牧之は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商でした。
「北越雪譜」には魚沼郡塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を詳しく書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。多数の精密な絵も示しています。
そして「秋山紀行」には山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。
そこでは大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしています。フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。
家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出ると大切にしていた少しのコメでお粥を作って、薬として食べさせるのです。
その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。
わずかに開けた山肌に稗や粟を植えて一年間の食料を作ります。その命の綱の粟と稗が冷害で取れない年には栃の実の毒を根気よく抜いて飢えをしのぎます。しかしそれも尽き果てる豪雪の冬には囲炉裏を囲んで寝る他はありません。寝ている間に囲炉裏の火も消えて一家の人々の命のともしびも静かに消えて行きます。
カヤぶきの掘っ立て小屋の外では音も無く雪が降り続き、やがては白一色の夢幻の世界に化してしまうのです。・・・こんな内容です。悲しい内容の紀行文です。