後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「感動的なコメントをご紹介します」

2022年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「懐かしい思い出の中のドイツ人と中国人」 という記事を掲載しました。そしたら趣味人俱楽部のeruzaさんから感動的なコメントを頂きましたのでご紹介します。
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eruzaさんからのコメント、2022年06月06日 16:22
感動しながら読みました。
私の初めてのドイツ体験!は・・小学校3年の時に読んだ、ハンス・エーリッヒ・ケストナー・・でした。2度目が‥おそらく、最も心理的に苦しんでいた頃の、ヘッセの、「ナルチスとゴルトムント」これは、暗記するくらいに(訳本ですが)読んだかな~デス・・それから、ムージルですが・・
これはさておき・・
「周栄章さんは「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と言い切りました。」これも‥初めて知りました。
知って‥これも本当に、涙出るくらい‥嬉しくて感動しました。私も‥周恩来‥好きなのです。毛沢東なんか・・本気で嫌いだ。周恩来を私は好きだ・・あ~~私の感覚は間違っていなかった。
私はこのシュミート日記で・・何度も魯迅の事を書いている。漱石は本に・・魯迅を愛していただろうと思っている。だから・・ネットで、
中国の若者たちが「中国の現代化で足りなかったのは、渋沢栄一的な人材だったんだ」と言っている‥と知ってこれも本当に嬉しかった。
私は日本で生まれて‥海外に留学したこともなく、日本人以外の友人知人もいない(現在は、パキスタンやイラン、タイの方達と話すことはあります、が、みな庶民であり、有名な方々ではもちろんアリマセン)のですが・・
文学や音楽、絵画の力で、、遠く離れた世界の人々と触れ合い、影響をうけ、吸収し現在の私を形成してきた気がしている。ドイツも中国も遠すぎる国ですが・・不可解なことに・・
私の魂は深く、遠くの魂とも触れ合ってきたのだナは思うのですね。

旅順工大について調べました。
>大学令による単科大学としては日本最初の官立工科大学。
前身の旅順工科学堂は、数少ない 4年制の旧制専門学校 (高等工業学校) の一つであった。
創立時は学部に機械工学科・電気工学科・冶金学科・採鉱学科を設置した(後に応用化学科・航空学科・物理学科・化学科を増設)。
第二次世界大戦敗戦により、1945年9月にソ連軍に学舎を接収され、閉鎖された。
今‥私はウクライナ問題をずっと考えているのですが・・ロシア・・に関しても知識が広がりました。ロシアと、中国文化圏の関連も含めて・・です。
話はちょっと飛びますが・・ウクライナ問題は、、ベアテ・シロタ・ゴードンさんという、敗戦時に日本にGHQの一員として日本の憲法の機関部作りを行った女性ですが・・。彼女は日本で育ち留学生としてアメリカに渡った時「自分は日本の愛国少女だった、と、発見した」と、語っていました。このベアテさんと直接話せた機会があった。ベアテさんに「あなたは、ウクライナ人の両親を持ち、ウイーン国籍を持ち、日本で成長し、アメリカ国籍で活躍しておられる‥あなたのアイデンテイテイのこっかはどこですか?」と‥無遠慮に聴きました・・答えは「人間にとって、国籍、どの国に属するということはあまり深い意味は無いのです。」でありました。
とても感動しました。そういうわけで‥このベアテさんを生んだ‥ウクライナが遭遇した問題をずっと考え続けています。

長く書きましたが・・・今回の、日記・・書いてくださって‥本当に本当にありがとうございました。私の日記(公開はしません)に‥コピーさせていただきました。悪用は決してしません。私の大事な心の一部になりました。


「写真で見る中国文化(8)承徳市の避暑山荘と外八廟」

2022年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム
承徳市は北京から250キロの距離にあります。燕山山脈の涼しい高原地帯で明や清の避暑地でした。1982年に家内と2人だけで北京から汽車に乗ってはるばる訪れた場所です。
世界遺産の清の離宮、避暑山荘や外八廟を有する歴史のある所です。
 避暑山荘とは避暑のための別荘のことで外八廟は8つのお寺という意味です。承徳を訪れて吃驚したことは北京とまったく違う風光明媚な緑の丘でした。広い山里に巨大な避暑山荘が白く輝いています。そして別荘を兼ねたお寺が美しく散在しているのです。
その上満族、モンゴル族、回族、朝鮮族などの少数民族が多く異文化の雰囲気が強いのです。嗚呼、中国は多民族の国だと感じがします。 
承徳では避暑山荘の中を丁寧に回り、幾つかの別荘のようなお寺を見て帰路につきました。夕方の汽車で夕日を見ながら北京に帰ってきました。
避暑山荘は1703年(康熙42年)に康熙帝が造りました。夏は避暑山荘で政務を執り、その後は清の副都のような存在になったおです。それでは写真を示しましょう。

1番目の写真は避暑山荘です。
1933年(民国22年)には関東軍による熱河侵攻作戦が行われ承徳は占領されたので日本では承徳が有名になったのです。1994年、避暑山荘と‎外の8つの寺院‎が世界遺産に登録され、一躍世界的に知られるようになったのです。

2番目の写真は大きな蓮池のある別荘です。
3番目の写真は城郭にょうな別荘の一つです。背後にお寺のような別荘も見えます。

4番目の写真は外八廟の一つで美いい池に囲まれた別荘です。
外八廟は承徳にある避暑山荘を取り囲んでいる寺社の総称です。八廟と言いますが8つだけではなく実際にはもっと多数のお寺があります。

今日は曾裕の地、清の離宮、避暑山荘や外八廟をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)