後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「本当の桃源郷、中国の西逓村と宏村に近い黄山の紅葉」

2023年10月16日 | 写真
桃源郷、中国の西逓村と宏村に近い黄山の紅葉の写真をお送り致します。
国古代王朝の祖とされ、道教や医学など様々な文化の始祖ともいわれる神話伝説上の帝王、黄帝が不老不死の霊薬を飲み仙人となったと伝わる山が、自然遺産にして文化遺産の黄山です。
多くの文人が訪れ、画や詩の題材としてきました。

「本当の桃源郷、中国の西逓村と宏村」

2023年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は本当の桃源郷をご紹介します。中国の黄山の麓にある西逓村と宏村です。中国の南部の黄山の麓の安徽省にある村です。昔から桃源郷と言わている村です。
この西逓村と宏村の2つの村は世界遺産として登録されているのです。そこには明時代や清時代の暮らしが現在もそのまま伝えられているのです。
早速ですが「安徽南部の古村落 - 西逓・宏村」の風景写真をご紹介したいと思います。
写真と説明文は長谷川 大さんの『世界遺産ガイド』(https://allabout.co.jp/gm/gc/325134/ )を参考にしました。
西逓村と宏村は20Km離れていますが同じ地域です。

1番目の写真は西逓村にある牌坊です。村の入り口にある村の出入り口です。

2番目の写真は西逓村の路地です。道は細く、入り組んでいます。
漆喰の白壁、灰褐色のレンガ、すがすがしい青空、水路を流れる清流……何気ない路地がたまらなく美しいそうです。
3番目の写真は西逓村の店です。
4番目の写真は宏村の、明・清時代の家並みと南湖です。白と青の淡い色彩がとても美しいです。宏村は西逓村の北20kmにあります。
5番目の写真は宏村と南湖の風景です。桃源郷と間違えられるだけある美しい景色です。
6番目の写真は宏村の街角風景です。西逓と宏村は家並み全体が世界遺産に登録されており、この中で人々は日々の生活を送っています。外には田園と山岳が広がっている農村です。
7番目の写真は外の畑から農産物を昔ながらの天秤棒で運んでいる光景です。

これらの写真で示した2つの村についてはいろいろ調べましたが、長谷川 大さんの写真と紀行文がしみじみとしていて、とても感動的なものだったのでご紹介いたします。

この西逓村と宏村については中国人にさえほとんど知られていない辺境の村なのだそうです。それが世界文化遺産に登録されたのです。
村には、かつての繁栄を物語る白壁の独特な住居が立ち並び、周囲の美しい山々の景色とあいまって、まるで桃源郷のようなのです。

2005年、中国中央テレビが2万以上もある中国の村落(鎮)の中から、特に魅力的な「十大名鎮」を発表しました。ここでも見事選ばれたのが、安徽省の西逓村と宏村だったのです。
4~5世紀の詩人・陶淵明は、『桃花源記』の中で、山に迷い込んだ漁師が桃の林に囲まれた美しい農村を発見する物語を描いています。
中国人はこの外界から隔絶した2つの美しい村を「桃源郷」と呼び理想郷として憧れて来たのです。
そこは四方を山に囲まれ、その山々は現在は「黄山」と呼ばれています。黄山は中国の名勝がすべて集まっているといわれる世界遺産として別に認定されています。
西逓村と宏村は奇跡的な景観に守られた盆地ということで桃源郷のモデルではないかという噂が立ち、やがて「小桃源」の名を冠するようになったのです。特に西逓の異名は「桃花源里人家」と呼ばれています。
また古くから中国中から写生家を集めていて、特に宏村は「中国画里郷村」といわれているのです。

長谷川 大さんの紀行文によると、西逓村・宏村の両村を歩いていて感じるのはなんといっても素朴さで、大都会とは空気が圧倒的に違うそうです。
それは世界のどこでも同じに、田舎の村のやさしさというか、たとえば何かを忘れていっても盗まれることはないだろうな、困ってその辺に立っていたらきっと誰か助けてくれるだろうな、そんな安心感があるそうです。
たとえば街角で子供たちが駆けている。おばあさんが水路で野菜を洗っている。お母さんが籠にお茶を入れて道端で売っている。井戸端会議に花が咲いている。軒下で麻雀をしている。こんな何気ない日常の光景がたまらなく美しいそうです。
陶淵明が描いた桃源郷は天国でも黄金の国でもなく、人々が日々天地と会話しながら農地を耕す、ごくごく普通の農村だったのです。 
西逓村と宏村はいつか見たことのある懐かしい風景ではないでしょうか?何故
か旧懐の情は胸を温かくします。

中国は共産主義革命がありました。しかし西逓村と宏村では、そんなことは微塵も関係無く人々は悠々と暮らしているのです。
ヨーロッパの古い中世の町に行くと同じような風景があります。
そんな風景はしみじみとした人の一生を感じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===2村の歴史を詳しく知りたい方々の為に==============
西逓村;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%80%93%E6%9D%91

西逓村は中華人民共和国安徽省黄山市黟県西逓鎮にある村である。
11世紀、宋朝の元祐年間にある河川の西岸にできた。そのため、元の名を「西川」といった。物資輸送の駅として使用されたため西逓(「逓」は宿場)と呼ばれるようになり、また「桃花源裡人家」とも呼ばれた。
この村を支えていたのは胡氏である。10世紀、唐の昭宗の子が変乱から逃れてこの地に隠れ住み、胡姓を称した。胡氏は1465年に商売を始めて成功し、土木、建築、修祠、道路整備、架橋などを行った。17世紀中ごろ、胡氏から官僚が出たため、さらに発展した。18世紀から19世紀にかけて、西遞の繁栄は頂点を極め、600もの豪邸が作られた。
西遞村の中心には東西を貫く幹線道路があり、その両脇に並行する道路との間に沢山の路地がある。敬愛堂、履福堂、刺史牌樓の公共施設も設けられていた。現在でも明清建築の124棟が観光用に保全されており、そのほとんどが一般に公開されている。そのほかの主要建築物に、1578年に作られた青石牌坊、1691年に作られた大夫第(医師屋敷)などがある。
2000年11月30日、オーストラリア ケアンズで行われた第24回ユネスコ世界遺産委員会により、「安徽南部の古村落」として、宏村と共に世界遺産に登録された。

宏村;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8F%E6%9D%91
この村は中国安徽省黄山市黟県宏村鎮にある村。2000年に世界遺産に登録され、2001年に中国政府国務院により中華人民共和国全国重点文物保護単位に、2003年に中国歴史文化名村に指定されている。明清代の歴史建築が数多く残る村落で、家々をめぐる水路が完全な姿で残っており、「牛」の形に例えられる村の配置は徽州の村落の典型的な代表例である。
安徽省南部黄山市にある黄山の南西麓に位置する。黟県の県城からは東北へ11kmの位置にあり、現在は宏村鎮がこの集落に置かれている。集落は黃山の余脈である雷崗山を背後にし、西に邕溪河と羊棧河に面している。全村面積は約28万平方m。
11世紀、北宋時代の政和3年(1113年)に汪氏一族により、集落が結成された。汪氏一族は、村が作られる前から宏村に居住し、今では汪氏一族の住まいとなっている。明朝の万暦頃に、村内にある泉を掘り、そこに川の水を引き入れ、南湖を造った。
清朝中期になると、当時の村名「作弘」が6代皇帝乾隆帝の名に当たるとして、「宏村」に改名された。村内には、清の建物がおよそ140現存する。これらの建物は全て、徽州を基盤とする設計がされている。
村内には水を供給する整備がされている。村の全景がはっきりと牛に例えられ、村内向かって西の丘が首、出入り口が角、村の前後の橋が足となっている。
2000年11月30日、オーストラリアケアンズで行われた第24回ユネスコ世界遺産委員会により、「安徽南部の古村落」として、西逓村と共に世界遺産に登録されている。