今年は日本の敗戦から茫々78年です。敗戦の後、子供たちは面白い経験をしました。生活は苦しかったのですがかつてない冒険の日々でした。
今日は敗戦後、私が行った事や見た事のいろいろを書いてみたいと思います。
太平洋戦争の敗戦は1945年でした。昭和11年に仙台に生まれた私は9歳でした。
私の少年の頃の冒険とは日本軍が放置した上陸用舟艇に乗って広瀬川を川下りをする冒険です。上陸用舟艇は勝手に拝借し、川下りの後は岸辺に放置しました。悪童連と5回ほど上陸用舟艇での川下りをしました。岸辺に放置した上陸用舟艇は無くなっていましたから、広瀬川から太平洋に流れて行ったのでしょう。上陸用舟艇は長さ10メートル位で兵隊が10人以上乗れる小型なものでした。川下りをした広瀬川の写真を示します。
1番目の写真は評定河原橋の上から見た広瀬川です。真ん中の山並みの右の小高くなった所に青葉城跡があります。左の樹々の上には伊達政宗の霊廟がある経ヶ峰が聳えています。この写真の上流に第二師団の軍隊の兵舎が並んでいました。そしてそばの広瀬川の岸辺に上陸用舟艇が15隻ほど放置されていたのです。
2番目の写真は経ヶ峰の断崖です。上陸用舟艇での川下りをした場所です。上陸用舟艇はここから500メートル位上流の第二師団跡の河原に放置してありました。上陸用舟艇は折り畳んであったので両方の側面を起こして棒で支えて乗り込みます。あとは持参して行った竿で上陸用舟艇が浅瀬に座礁しないように方向を変えながら川下りをするのです。
一番遠くまで川下りをしたのは愛宕山の下まででした。重い上陸用舟艇は何度も座礁するのでした。
3番目の写真は旧陸軍の上陸舟艇です。私が川下りした上陸舟艇はもっと小さくてエンジンもついていませんでした。これが敗戦直後のドサクサに私が行ったことです。
そして敗戦直後にはいろいろな事があったのです。
1945年の8月には私は仙台の北方の田舎に疎開していました。そこ出身の航空兵が8月15日の直後に零戦に乗って復員して来たのです。故郷の上空に来ましたが飛行場がありません。仕方無く狭い河原に不時着します。
少年だったわれわれは零戦の操縦席のガラスを割り、ガラス片を持ち帰りました。そのガラス片は合成樹脂で出来ていたので硬い物とこすると甘いバナナの香りがするのです。甘いものに飢えていた当時は零戦の風防の合成樹脂は貴重品だったのです。
その他、敗戦直後にはいろいろな事がありました。日本国内で終戦を迎えた兵隊はすぐに復員出来たのです。軍用トラックごと田舎に帰った者もいました。軍馬に乗って郷里へ帰った者もいました。
4番目の写真は旧陸軍の軍用トラックです。
疎開先でこんな軍用トラックを見ました。トラックはガソリンが無くて農家の裏に放置してありました。
5番目の写真は今から出征する軍馬です。農家の馬もこのように出征して行ったのです。多くは二度と帰って来ませんでした。
さて終戦を迎えて日本国内では、将校は部下の兵隊達がアメリカ軍の捕虜になる前に復員させてしまったのです。その折軍隊の物資もアメリカ軍に接収されるくらいならと部下に分け与えたのでしょう。将校たちはアメリカ軍が進駐するまで踏み止まりました。
兵隊たちは軍用トラックに乗ったり軍馬に乗って故郷に帰って来ました。家内は疎開先の農家で、馬に乗って復員して来た疎開先の息子から馬の世話を教えられ、やがて馬が大好きになったそうです。
戦後の新聞には日本軍の隠匿物資がいろいろと摘発されたことが報じられていました。隠匿物資は今考えると将校たちの責任のように思えます。
敗戦直後の仙台の街には軍服姿の復員兵が溢れていました。ギターを持った白衣の傷病兵が歌を唄って物乞いをしていました。並木路子のリンゴの歌や笠置シズ子の東京ブギブギが街に流れていました。
茫々あれから78年。日本も住み良い国になったものです。しかし戦没した方々、南の島々でそしてシベリアで飢死した将兵のことを私は絶対に忘れません。
皆様は終戦直後にどんな経験をされたでしょうか?
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)