後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「世界遺産になった隠れキリシタンの悲しい歴史」

2024年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム
隠れキリシタンの悲しい歴史は日本民族の精神力の強さを証明しています。従って隠れキリシタンを精神文化の視点から評価すると日本民族が誇りに思えるような素晴らしい歴史的事実だったのです。
この精神文化は世界的にも高く評価され、国連によって「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に認定されたのです。それは姫路城、古都京都の文化財、白川郷、などと共に認定されているのです。

今日は安息日の日曜日なので、隠れキリシタンの歴史を簡略にご紹介いたします。
長崎県の隠れキリシタンは250年の禁教を耐え忍びました。そして幕末の1865年にフランス人の神父の前に突然現れて、はじめて信仰を告白します。しかしそれは時期が早過ぎたのです。幕府も、その後の明治政府も禁教令を明治6年まで墨守し、その間の8年間にキリシタンが多数捕縛され各地へ流され、拷問され、殺されたのです。それは浦上崩れとか五島崩れと呼ばれるキリシタンの流刑と処刑です。
そして明治6年になってやっと晴れて信仰が公に認められ自由になったのです。
ローマ法王のもとに帰り、カトリック教徒になった信者たちはかつての辛酸をきわめた歴史の反動で熱狂的な宗教活動を繰り広げたのです。それは禁教の250年の間に溜まったエネルギーが一挙に爆発したようなものです。それは長崎県全域で起きました。しかし何と言っても隠れキリシタンが仏教徒を装って多数住んでいた五島列島で激しく燃え上がりました。現在、五島列島には50ケ所ものカトリック教会があるのです。
現在、五島列島の北半分の島々は新上五島町となり下五島は五島市という2つの自治体になっています。
この50の教会はすべて長崎大司教区に属し、その上のフランシスコ法王に直結しています。50もの教会の全てに常住の主任司祭はおけないので幾つかずつに分けて巡回教会のグループをつくり、時間をずらしてミサを行っています。

私どもは2015年にこの五島列島を訪れました。その時撮った写真をご紹介いたします。

1番目の写真は2015年の4月に訪れた五島列島にある堂崎天主堂で、内部は隠れキリシタン関連の展示場になっています。幾万人の足ですり減った踏み絵の青銅のキリスト像があります。ここの祭壇や柳天井、そしてステンドグラスは創建当時のままです。
長崎県の古いカトリック教会は初期に多くのフランス人神父の指導で作られたのでフランスの田舎の教会のような雰囲気を持っています。

2番目の写真は日本最古のルルドの泉の上に立っているマリア様の像です。福江島の井持浦教会の左わきにありました。資料の、http://gigazine.net/news/20111017_lourdes_japan/ よると以下のようです。
「1858年にフランスのルルドで聖母がベルナデッタという少女の前に姿を現し、そこの場所がルルドの泉と言います。バチカン市国も認定したので、現在でも当地を訪れる巡礼者は後を絶ちません。1891年に当時のローマ法王レオ13世が自らバチカンにルルドの泉の模型を造らせたことから、世界中で「ルルドの泉」が造られるようになったのです。五島列島では、その8年後の1899年(明治32年)に、日本で初めて福江島の井持浦教会にルルドの泉が造られました。

3番目の写真は磔にされた聖ヨハネ五島の等身大の彫刻です。堂崎天主堂の入り口の向側にありました。聖ヨハネ五島は日本二十六聖人の一人です。
以下は、http://tenjounoao.web.fc2.com/mysite1/nihontabi/nagasaki4.html から抜粋しました。
ヨハネ五島はこの五島の出身ですが、どこで生まれたのかははっきり分っていません。両親ともキリシタンの家庭で育ち長崎と天草のセミナリヨで学びました。
その後大坂に出てモレホン神父の同宿になり、一緒に暮らして手伝いをしていたのですが、神父を逮捕しようとして役人がやってきた時に、素早く神父を隠し代わりに自分が捕まりました。
モレホン神父は二十六聖人の殉教の報告書と共にこのことをローマへ送ります。
神父はその後追放令にあってマカオに行きますが、そこの修道院で遺骨となって送られてきたヨハネ五島と再会します。

4番目の写真は堂崎天主堂に展示してあった五島列島出身の司祭さんたちの写真です。展示ではこの3倍位の人数の司祭さんたちの写真が並んでいました。一生独身をとおし神に仕え信者の世話をした神父さん達です。それは現在でもカトリック集落の信仰の支えになっています。

観光バスの車窓から見るとキリシタン墓地もあります。五島列島で多数見られるのは仏教風の墓地です。江戸時代から目立つところに作られ仏教徒を装う必要があったのです。幕府の役人が検分しやすいように道端や丘の上に仏教風の墓場がありました。江戸時代のキリシタンはお葬式を仏式とキリシタン式の2回したそうです。

5番目の写真は頭ケ島教会の下にあったキリシタン墓地です。

世界遺産に認定された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」は日本民族の精神力の強さを示すものとして高く賞賛され世界の文化遺産として 認定されたのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「今日はカトリック松原教会のミサにあずかりました」

2024年09月01日 | 日記
今日はカトリック松原教会のミサにあずかりました。

2024年9月1日 、 年間第22主日

今日はインターネットを通してカトリック松原教会のミサにあずかりました。
添付の写真は今日の松原教会のミサの風景です。

ミサはカトリック教会においてパンとぶどう酒を聖別して聖体の秘跡が行われる祭儀です。 司祭が司式し、信者全体が捧げるものです。カトリック教会で最も重要な典礼儀式です。

〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5
TEL.03-3321-0941   FAX.03-3321-0009

「美しい五島列島と無人島に残るカトリック野首教会」

2024年09月01日 | 日記・エッセイ・コラム
五島列島は雄大な景観、美しい浜辺など手つかずの自然がたくさん残っています。島へは長崎から飛行機で約30分、ジェットホイルでも約1時間30分で行けます。
遣唐使時代、日本で最後の寄港地となった福江島もあります。遣唐使たちは五島から唐へと命がけで海を渡りました。
島内には遣唐使や空海ゆかりの地が点在し、壱岐・対馬とともに「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」として三井楽、明星院本堂、白石のともづな石が日本遺産に認定されています。
そんな五島列島へは以前に家内と旅をしました。懐かしい嘗遊の地です。

1番目の写真は遠浅の海水浴場「浜田海水浴場」です。

2番目の写真は福江島の風景です。
さて五島列島の野崎島の野首地区に住む17世帯のキリシタン信者たちが費用を工面し、1908年(明治41年)に野首教会を完成しました。
五島をはじめ長崎県で多くの教会建築を手がけた鉄川与助が作りました。
野崎島の島民は最盛期には約650人でしたが、高度経済成長期になると島民が減少し、1971年(昭和46年)に残っていた野首地区のカトリック信徒6世帯31人が島を去り、教会は無人となったのです。
そして2018年に、ユネスコの世界遺産(文化遺産)になったのです。
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3番目の写真は野首教会です。(写真の出典は、http://yuru-chara.jp/prof-t53.html です。)
写真に写っている教会は現在、小値賀町の所有になり、町役場が管理しています。

4番目の写真は教会の内部です。鉄川与助の得意としたコウモリ天井が見事です。
(写真の出典は、http://chabashira.sowzow.com/juumin/19usagi/usagi_041.html です。)

5番目の写真は夕方の教会のシルエットです。
(写真の出典は、http://yumiusa217.blog133.fc2.com/blog-entry-1134.html です。)

6番目の写真は星空を背景にした教会の風景です。
(写真の出典は、http://www.asahi.com/travel/aviation/SEB201110040074.html です。)

潜伏キリシタンが多く住んでいた五島列島の島々は年々過疎化が進み明治期に建設された天主堂(カトリック教会)だけが島の守り神のように残っています。
五島列島だけでなく長崎県全域にはこのようにキリシタンが禁教令の廃止後に建てた美しい天主堂(カトリック教会)が300もあると言います。

古い荘厳な教会堂はヨーロッパに幾らでもあります。それらに比べると長崎県の教会は質素すぎます。建築芸術としてもあまり優れていません。
しかし何故、それらが「世界文化遺産」になるのでしょうか?
理由はたった一つです。江戸幕府による250年間の過酷な禁教政策と処刑にもかかわらず日本人がキリスト教を信仰したからです。ザビエルたちの宣教師を裏切らなかったからです。古い天主堂や修道院こそが日本民族の誠実さと勇気を示しているからです。だからこそ「世界文化遺産」なのです。

今日はの美しい五島列島の風景を紹介しカトリック野首教会の詳細をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)