後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「山林の中の小屋の紅葉、そして人生が変わった」

2024年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
人生にはいろいろなことがあります。でも終りに近づくと、嗚呼、邯鄲の夢だったと思う日々が多くなります。
その人生の中で私は自慢出来るたった一つのことがあります。それは山梨県の甲斐駒岳の麓の山林の中に小屋を持っていることです。
1974年に作ってから50年間も通っていることです。何故、自慢に思うのか理由は分かりません。
春夏秋冬、その小屋の周囲の自然を眺め自然に魅了されてきたのです。しかも高齢になると自然の風景に一層深く感動するようになります。
特に2016年には11月の紅葉の美しい時に行きました。周囲の雑木林が晩秋の色になっていました。撮ってきた写真を示します。

1番目の写真は紅葉の雑木林の中を登りつめた所にある山林の中の小屋です。
6畳間と4畳間の鉄筋コンクリートの小屋です。湿気の多い場所なので腐らないコンクリート製にしました。
この小屋には妻と何度も泊まりました。子供や孫たちも連れて行きました。勤めていた大学の研究室の学生さんたちも行きました。いろいろ思い出があります。

2番目の写真は小屋に行く道路の様子です。
こんな道を根気よく2Kmほど登ると小屋に着きます。

3番目の写真は小屋の窓の下によく来る野生の猿です。
群れで来ますがボス猿だけ窓の下に来て私が危険な動物か否か確かめに来るのです。
猿の他、鹿や狐やイノシシも時々見かけます。本当に深い山林なのです。

4番目の写真は標高2,967 m の甲斐駒岳です。
甲斐駒ヶ岳は古くから信仰の対象でした。山麓の駒ヶ岳神社から実際に登ってみると山頂にいたる黒戸尾根には現在も不動岩等の信仰にまつわる石碑や石仏が残っていました。

写真で示したように小屋は人気の無い深い、深い林の中にあります。
そこに行くと自分を見つめなおします。自分の人生を考えます。
すると私は古い「立身出世主義」に無意識に囚われていたことに気がついたのです。立身出世よりも大事なものがあるのではと考えるようになったのです。
それまでは自分の専門の分野の人々としか付き合わなっかのです。
山林の中の小屋のおかげで視野が広まったのです。
それ以来、私の人生観が変わりました。狭い人生観が広がったのです。自由と平等とはどういうことか少し理解出来るようになったのです。
山林の中の小屋のお陰だと今でも思っています。

今日は山林の中の小屋をご紹介しました。そしてその小屋のおかげで私の人生がどのように変わったかを説明致しました。

今日は皆様も趣味を楽しみ、輝く老境を持つ事をお祈り申し上げます。

「芸術の秋(5)山里の小さい清春白樺美術館の写真」

2024年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
山林の中の私の小屋の近所にある美術館をご紹介いたしたいと存じます。山梨県の北杜市にある清春白樺美術館です。
清春白樺美術館の南には白い花崗岩が輝く甲斐駒岳が美しく見え、北には八ヶ岳連峰が見える高台にあります。その高台は少しだけ平地になっていて、一歩足を踏み入れると急にパリの芸術的な香りが漂ってくるのです。
エッフェルが設計した画家たちの集合アトリエのラ・ルーシュがパリの雰囲気をかもしだしているのです。ラ・ルーシュはパリから移築した本物です。
そしてエッフェル塔の階段の一部が庭に展示してあります。
その奥にはジョルジュ・ルオーの油彩画や白樺派の作家達の作品を多数展示してある美術館があるのです。谷口吉生設計の小さいけれども美術館らしい雰囲気の漂う清楚な建物です。
白樺林の中にはルオー礼拝堂もあります。ステンドグラスは彼が作りました。十字架像は17世紀のものをルオーが彩色しました。
敷地の奥にはパリでルノアールに師事していた梅原龍三郎のアトリエが移築され展示されています。
この一画を清春白樺芸術村と言います。銀座の画廊の主の吉井長三が1983年に作りました。
ここは私の山小屋に近いので何十回も訪れた場所です。敷地に沿って桜の大樹があります。
1番目の写真は清春白樺美術館の門です。
古めかしい鉄門がヨーロッパの雰囲気を出しています。この門を入ると集合アトリエのラ・ルーシュがあります。パリの雰囲気を感じます。
2番目の写真は敷地内にある白樺林の向こうにある美術館の本館です。
ルオーの油彩画多数と、梅原龍三郎、岸田劉生、有島生馬、髙村光太郎、高村智恵子などの白樺派の作品が展示してあります。
そしてこの美術館はよく企画展を開催しています。その予定表は美術館のホームページに出ています。
3番目の写真は清春芸術村にあるレストランです。
ここでコーヒーをゆっくり楽しみます。後ろの丸い建物が集合アトリエのラ・ルーシュです。コーヒーを運んできた女性がヨーロッパの人でした。
4番目の写真は白樺林の中にはルオー礼拝堂です。
5番目の写真はルオー礼拝堂の内部です。古いヨーロッパのオルガンがあります。左上のステンドグラスはルオーが作ったものです。
6番目の写真は美術館に展示してあるルオーの風景画です。
7番目の写真は美術館にあるイエス様の画です。
8番目の写真は十字架にかけられたイエスの絵です。
この美術館はそのものが楽しいだけでなく周りも豊かな雰囲気が漂っています。少し脚を伸ばすと雑木林の中には有名な蕎麦の店「翁」があり楽しい場所なのです。
そこは八ヶ岳高原へ続く高台になっていて畑や林の風景がヨーロッパに似ています。
そんな風景と美術がお好きな方々へ心からお薦めしたい場所です。
地図は、http://www.kiyoharu-art.com/ に出ていますので、晴天の日にお出掛けになっては如何でしょうか。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「芸術の秋(4)夭折の画家、 中村彝」

2024年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
中村彝(なかむらつね)は結核に苦しみながら感動的な油彩画を沢山描いて37歳で亡くなった夭折の画家でした。私は何年も前に水戸の近代美術館で彼の特別展を見た時の強い衝撃を忘れません。そして新宿の中村屋には何度も行って壁に掛かっている中村彝の絵画を見ています。
油彩画はどれも暗い色で人間の苦悩と美しさを描いたものです。風景を描いても静物画を描いても何か 中村彝の苦悩が滲んでいるのです。深い精神性を感じさせるのです。特に日本の重要文化財に指定されている「エロシェンコ氏の肖像画」はロシアの詩人エロシェンコの盲目の苦しみと強い情熱が描いてある彼の傑作です。
そんな絵画を写真でお送りします。

1番目の写真は大きさ45.5×42cmの「エロシェンコ氏の肖像画」です。1920年(大正9年)に描かれた油彩画で現在は東京国立近代美術館に展示してあります。国の重要文化財です。
エロシェンコの像は盲目の詩人の内に秘めた精神性と内面的なものを感じさせる肖像画の傑作です。中村彝の“心の内”が投影された、いわば彼の自画像とも言はれてる作品です。

2番目の写真は下落合の「中村彝アトリエ記念館」に展示してある1914年の描かれた「少女像」です。
中村は1911年新宿中村屋の相馬夫妻の厚意で新宿中村屋裏のアトリエに引っ越します。絵のモデルは相馬家の長女「俊子」です。彼女との恋愛を反対され中村彝は失意のうちに新宿中村屋を去ります。
新宿中村屋の創業者の相馬愛蔵氏と奥さんの黒光さんは明治、大正、昭和の始めにかけて深い人類愛と芸術へ対する尊敬を持ち、数多くの芸術家を情熱的に支援してきたのです。その正確な歴史的記述は「中村屋サロン」と題する、HP: http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p01.html にあります。


3番目の写真は彝のアトリエ裏手の風景『目白の冬』です。中央に描かれてあるのがメーヤー館(宣教師の住居)で右端に描かれてあるのが英語学校です。

4番目の写真は福島の海岸の風景です。彝が21歳の頃転地療養中に福島県いわき市に滞在した時の作品です。板に描かれているので絵具が薄い部分は下地の木目が見えています。それが海の透明感や海中の岩を感じさせています。暗い色彩ですが美しい絵です。

5番目の写真は1919年、大正8年に描かれた「静物」です。現在は茨城県近代美術館が所蔵しています。

さて中村 彝(1887年 - 1924年)は大正期にかけての洋画家でした。(https://ja.wikipedia.org/wiki/中村彝 )
1887年(明治20年)、茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれました。父は彝が生まれた翌年に没し母も彝が11歳の時に没し、淋しい少年期を過ごします。
1904年(明治37年)祖母が死に、唯一生き残った姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり一人暮らしの境遇になったのです。
その上、彝自身も結核を病み療養のため折角入学した陸軍中央幼年学校を中退します。
1905年(明治38年)、18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に行き、彝はこの地で水彩スケッチを始めたのです。翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をするが、その間にも千葉県などへ転地療養を繰り返しています。
1909年(明治42年)22歳の時に第3回文展に初入選します。
1910年(明治43年)には第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり作品は実業家の今村繁三が購入します。
1911年(明治44年)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになります。

1913年(大正2年)~1914年(大正3年)にかけての彝の作品には相馬家の長女の俊子をモデルにした裸婦像が数点あり2人は親密な関係だったのです。彝は俊子に求婚するが結核を理由に反対されます
その後の1916年に新宿区下落合にアトリエを構え、以後、彝は亡くなるまでこのアトリエでで油彩画を描き続けたのです。
1920年(大正9年)にはルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を受けました。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影響が感じられると言う人もいます。
1921年(大正10年)には病状が悪化し翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していません。
1924年(大正13年)に37歳で夭折します。
2013年(平成25年)に新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンします。

この様に中村 彝は生前からその油彩画は高く評価されたのです。しかし37歳での旅立はあまりにも早過ぎました。これから円熟した絵を沢山描こうとしていた時に亡くなったのです。中村 彝の才能が惜しまれます。嗚呼。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「芸術の秋(3)茨城県近代美術館の展示絵画のご紹介」

2024年09月26日 | アート・文化
今日は茨城県近代美術館の展示絵画をご紹介したいと存じます。美しい梅林の偕楽園の下にあります。碧いさざ波の広がる千波湖の岸辺にある美術館です。
茨城県近代美術館では茨城ゆかりの作家をはじめ、日本と西洋の近代美術作品を紹介しています。
偕楽園の下に広がる千波湖畔にある美術館です。横山大観など茨城県ゆかりの作家を中心に、国内外約4,000点の近現代美術作品を収蔵、展示しています。ロダン作「三つの影」、横山大観作の「流燈」など多数の所蔵作品を鑑賞することができます。また、美術館南側に、水戸市出身の洋画家である中村彝(つね)のアトリエを新築復元し、彝の遺品や資料を公開展示しています。
詳しくは、茨城県近代美術館 | The Museum of Modern Art, Ibaraki (ibk.ed.jp) をご覧下さい。
展示絵画の写真を示します。
上の4枚の写真は常設展示の写真です。
この美術館では時々にあるテーマを決めて公募展をしています。次の2枚の写真は公募展の様子です。
公募展では多数の絵画が集まるので壁一面にビッシリと展示します。
最後に茨城県近代美術館の建物の写真をお送り致します。
この茨城県近代美術館は偕楽園の下にあるので梅林が満開になる頃に訪れると良いと思います。私どもも何度か薫る梅林と近代美術館を訪ねました。
なお水戸に行ったら町中にある藩校の弘道館の庭の梅の花もご覧ください。梅の木は偕楽園ほど多くありませんが楚々と咲いた梅には感銘を受けます。偕楽園とともに梅の名所です。 
 
今日は茨城県近代美術館の展示絵画をご紹介致しました。そして美しい梅林の偕楽園と弘道館もご紹介しました。
 
それはそれして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「芸術の秋(2)笠間日動画廊美術館と板谷波山記念館」

2024年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

茨城県の水戸には県立美術館があり北茨城には県立天心記念五浦美術館があります。
そして笠間市には笠間日動画廊美術館と県立陶芸美術館があります。笠間の西隣りの筑西市には板谷波山記念館があります。

私はこれらの美術館を以前に家内と一緒に見てまわりました。水戸の県立美術館での中村彜の特別展は印象深いものでした。
今日は笠間日動画廊美術館の展示の絵画と板谷波山記念館の板谷波山の陶芸作品をご紹介したいと思います。
まずこれらの写真を示します。

1番目の写真は「泉のそばの少女 」 オーギュスト・ルノワール (1841-1919)です。

2番目の写真は「ヴェトゥイユ、水びたしの草原 」クロード・モネ (1840-1926)です。

3番目の写真は「パリ裏街 」 佐伯 祐三 (1898-1928)です。

4番目の写真は板谷波山の彩磁藤文花瓶です。

5番目の写真は彩磁花弁紋香炉です。

6番目の写真は白磁唐草文壺です。

7番目の写真は青磁袴腰香炉です。
これらの数少ない写真だけでは笠間日動画廊美術館や板谷波山記念館の多数の展示品から受ける感動はお伝え出来ません。それらのほんの片鱗をご紹介したのです。
日動画廊の展示絵画は豊富です。どれも身近に置きたくなるような楽しい油絵が並んでいます。その上、有名な絵描きさん達と親交が深かったので、美しいパレットが蒐集展示してあるのです。アトリエの中の画家の息吹が感じられるのです。
日動画廊は銀座や名古屋など各地にあります。お店は出入り自由の美術館のようです。その上、その店で時々、個展を開いているのです。
単なる画商ではなく絵画芸術の普及に努力し、画家達を応援しているのです。その精神は尊敬に値しますので以下に創業者の長谷川仁さんをご紹介します。
彼は1928年に友人の弟で洋画家であった松村建三郎の助言で洋画商を志し横浜貿易会館で洋画大展覧を開催したのです。
1931年には、日本動産火災保険の当時の社長の粟津清亮の好意で京橋区銀座5丁目に「東京画廊」を開きます。それをすぐ「日動画廊」と改称して、洋画だけの画商として現在に至っています。
長谷川仁氏は1897年に生まれ 1976に亡くなりました。
そして1965年には、出身地の茨城県笠間市に笠間日動美術館を作ったのです。

一方、板谷波山は明治5年(1872)に茨城県に生まれ昭和38年(1963)に亡くなりました。
明治27年東京美術学校彫刻科卒業後、明治36年に田端に居を構え、「波山」と号し、陶芸家としての道を歩み始めました。貧窮の生活の中で窯を築き、明治39年初窯に成功し、翌年には東京勧業博覧会で三等賞を受賞。以後様々な展覧会・博覧会で入選・受賞を重ね、陶芸界での地位を不動のものとしていったのです。
板谷波山の作品は静謐な美です。眺めていると心が静まります。そしてその上品な美の世界へ吸い込まれていくのです。宗教とはまったく別な崇高なものを感じさせます。嗚呼、そういうのが陶芸芸術なのだと納得するのです。茨城県の筑波山の北の山麓にある筑西市に生まれ育ったので筑波山の筑を消して波山と号したそうです。

波山の精神性に溢れた陶磁器が沢山あるのが板谷波山記念館です。そして笠間日動画廊美術館の近所にある茨城県立陶芸美術館にも波山の作品が沢山展示してあります。
是非、笠間日動画廊美術館と板谷波山記念館にあわせて茨城県立陶芸美術館もご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)