後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「スエーデンの紅葉の思い出」

2024年09月06日 | 写真
随分前にスエーデンへ短期集中講義に行きました。秋だったので紅葉が綺麗でした。
北国の紅葉は鮮烈な黄色と赤色でした。忘れられない風景です。
そんな風景写真をインターネットからお借りしてお送り致します。

「皆様はこのような林を最近ご覧になったことがありますか?」

2024年09月06日 | 写真
今朝は「日本の悲劇(3)敗北の転機になったガダルカナルの玉砕」と題した重い内容の記事を書きましたので疲れました。太平洋戦争の一つの悲劇です。
気分転換のために、林の写真を眺めて楽しんでおります。
場所は甲州の甲斐駒岳の東の麓にある北杜市武川町から山道を根気よく登ったところです。以前の秋に撮った写真です。

1番目の写真は武川町の黄金色の稲田の間を通り過ぎて入った山道の写真です。

2番目の写真は同じ山道の写真ですが、登るに従って険しい凸凹の道になります。道の両側からは樹木が覆いかぶさり梢の間から秋の陽が射しこんでいます、

3番目の写真は樹木の繁る悪路を2Kmくらい根気よく登った所にある私の山小屋です。小屋の向こうに年中水の涸れない小川が流れています。55年前に作った山小屋です。

4番目の写真は小屋の東側の高台の上の樹木の写真です。崖に細い道を作りました孫たちは「イノチガケ」だと言って何度も登り降りを楽しんでいました。小屋を建てた55年ほど前は一面の白樺林でした。整然とした白樺林でしたが土地が白樺に合わないようでその後枯れてしまいました。今は2本だけ大木になっ残っています。小屋の周囲はこのような深い雑木林になっています。

小屋の前の小川のそばにテーブルとイスを出して樹木を眺めます。赤トンボが飛び、秋の虫の声が聞こえ、小鳥が啼いています。
ジーっと静かに坐っていると子供連れの猿の群れがやって来て遊んでいます。
一度だけでしたがキツネが足元に遊びに来ました。
鹿は臆病でめったに見えませんが、車の前を横切る習性があるのか5,6回遭遇しました。
イノシシの足跡は沢山あるのですが、夜行性の動物らしく姿を見たことがありません。
ここでは森が主役なのです。
しかしこんなにも深い森の中から縄文土器が出て来るのです。
住居跡はありません。鹿や猪が沢山いる良い狩場だったのでしょう。
森の風景を見て楽しんでいます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「紅葉の写真を見て秋を楽しむ」

2024年09月06日 | 写真
最近は「紅葉の写真」を検索して紅葉を楽しんでいます。
今日は感動した紅葉の写真をお送り致します。出典は、https://www.pixpot.net/view_spots/spot/2374/sinasawa/ です。

1番目の写真は長野県駒ヶ根市の宝剣岳直下にあるカール。
通年営業の駒ケ岳ロープウェイ終点「千畳敷駅」を降りると鋭い岩峰の宝剣岳が聳え、その下に広がる氷河地形「千畳敷カール」には遊歩道が整備されおり高山植物、錦の紅葉、満天の星空、白銀の冬景色など目の前に広がる四季折々の絶景を楽しむことができる。

2番目の写真は苗場山と小赤沢の集落を展望できるビューポイントです。
小さなトンネル横の旧道を5分程歩くと展望が開けた場所に着きます。11月上旬冠雪した苗場山と山麓の紅葉が重なった時は見事です。昼12時ぐらいが影が少なくて撮影に適しています。

3番目の写真は鏡池(戸隠)です。
長野県長野市戸隠にある池。戸隠連峰の山々が湖面に映る神秘的な場所である。

4番目の写真は品沢高原です。
ほとんど無名に近い高原ですが戸隠連山が直近に望めるカラマツの紅葉が綺麗なスポットです。


「日本の悲劇(3)敗北の転機になったガダルカナルの玉砕」

2024年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
ガダルカナル島の戦いは、太平洋戦争開戦以来、連戦連勝だった日本陸軍が敗北を喫し、アメリカとの攻守が逆転するきっかけとなった歴史的な戦いと位置付けられています。
1942年7月に日本軍が飛行場を設営しました。しかしアメリカ軍の攻撃が始まり1943年2月に玉砕いました。
以下の内容は次の2つの資料を参考にしました。
https://www.nhk.or.jp/archives/sensou/special/warmuseum/04/  とhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 です。
さてガダルカナル島では日本軍の将兵2万人あまりが亡くなりましたが、アメリカ軍との戦闘ではなく病気と餓えで命を落とした人が15,000人にものぼりました。「ガ島=餓島」と呼ばれた悲惨な戦場でした。なぜこのような事態になったのでしょうか。
日本軍が作った飛行場がアメリカ軍に奪われた
ガダルカナル島は、日本から5,500キロ離れたソロモン諸島にある、千葉県ほどの大きさの密林の島です。アメリカとオーストラリアを結んだ線上にあり、日本海軍は両国の連携を阻む前線基地として、1942年7月に飛行場を設営しました。当時、日本軍はオーストラリア領だった東ニューギニアに上陸し、オーストラリアへの攻勢を強めていました。
ところが、飛行場の完成間近となってアメリカ海兵隊の部隊が1万を超える大軍で上陸し、あっという間に占領してしまいます。日本軍は奪還に乗り出そうとしますが、ここで大きな判断ミスをします。作戦計画を担う東京の大本営は、アメリカ側の反攻は早くても1943年以降と考えていたこともあり、アメリカ側の兵力を2,000人規模と誤認したのです。
アメリカ軍1万人と日本軍900人の戦い
1942年8月、飛行場の奪回を期して送り込まれたのは、900人あまりの陸軍部隊でした。
この部隊はアメリカ軍の規模をつかめないまま、夜間の白兵突撃を行います。小銃の先に剣を装着し、暗闇にまぎれて敵に殺到する、日本軍が得意とする攻撃方法でした。
しかしアメリカ軍は飛行場の周辺に集音マイクを設置し、日本軍の動きを察知していました。突進してくる日本兵に対し、2方面から機関銃などを浴びせる十字砲火で応戦しました。朝になると海岸線は、日本兵の遺体で埋めつくされていました。死者は777人に及びました。
その後、日本側は新たな部隊を投入しますが、その数はおよそ6,000人でした。命を賭した夜間突撃は、アメリカ兵に恐怖を与えましたが、多くの日本兵が銃弾に倒れ、激戦地は「血染めの丘」と呼ばれました。
1942年10月から11月にかけて、大本営はさらに多くの部隊を島に送り、上陸した将兵は最終的に3万人を超えました。しかし、アメリカ軍は島の飛行場から軍用機を飛ばして制空権を確保、周辺の制海権も手中に収めつつありました。輸送船を次々と沈められた日本軍は、輸送に適さない駆逐艦や小型の舟艇を使うしかなくなりました。
上陸した日本軍の兵士はやせ衰え、そこにマラリアや赤痢などの感染症が追い打ちをかけました。ある少尉は、最後に配られた食糧は、乾パン2粒と、コンペイ糖1粒で、「生きているものと、それから腐ったものと、白骨になったものが、枕を並べて寝たまま動かない」と、その惨状を記しています(小尾靖夫少尉(当時)「陣中日誌」)。
その後も悲劇は続いて翌年の2月に玉砕したのです。
このガダルカナルの玉砕が日本の敗北の転機になったのです。関連の写真をお送り致します。

1番目の写真はアメリカ軍の襲撃を受け荷揚げに失敗した輸送船鬼怒川丸です。

2番目の写真は1942年8月7日、ガダルカナルに上陸するアメリカ軍の海兵隊です。

3番目の写真はガダルカナル島へ輸送のため駆逐艦に乗り込む日本の将兵です。

4番目の写真は壊滅した部隊の住吉支隊です。(1942年10月24日、マタニカウ川河口)。

今日は太平洋戦争開戦以来、連戦連勝だった日本陸軍が敗北を喫し、アメリカとの攻守が逆転するきっかけとなった歴史的な戦いのガダルカナル島の戦を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)