後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「我が故郷、仙台の戦前の風景を懐かしむ」

2024年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
誰でも自分が生まれた頃の故郷の風景が懐かしいと思います。幼いながら心に焼き付いている光景も沢山あるのが普通です。
幸い最近はインターネットが発達して昔の日本各地の風景が数多く記録されています。ですから根気よく検索して行くと自分が幼少だった昔の風景が見つかるのです。
私は昭和11年、1936年に仙台で生まれました。その仙台を例にして昔の故郷の風景を幾つか見つけましたのご紹介したいと存じます。
仙台には昭和11年から昭和35年にアメリカへ留学するまで24年間住んでいました。
私の追憶にある仙台の風景写真をいろいろ探して、皆様へご紹介したいと思います。

1番目の写真は戦前の仙台駅で、ここから父の実家のあった兵庫へ何回も里帰りしました。人力車に乗って駅まで行ったのです。
昭和30年ころの市電です。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。

2番目の写真は昭和30年ころの市電です。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。

3番目の写真は真は戦災で焼ける前の伊達正宗の霊廟の瑞鳳殿です。

4番目の写真は戦災で焼けてしまった青葉城の大手門と隅櫓です。

5番目の写真は国分町と大町通りの交差点にあった高札場跡の芭蕉の辻です。

6番目の写真は繁華街の国分町の風景です。軍人が歩いていますが、仙台には第二師団という大きな師団がおかれていて町には何時も軍人が歩いていました。第二師団長の多門大将の名前をつけた「多門通り」という通りもあったものです。

7番目の写真は繁華街の東一番丁通りと大町通りの交差点です。大町通りの東方向に見た時の写真です。右側にある大きなビルは藤崎百貨店です。仙台の地元の百貨店ですが、この他に三越の仙台店が東一番丁通りの北の端にありました。
藤崎も三越も戦災で内部が少し焼けましたが、戦後すぐに復興して仙台市民を明るくしてくれました。

茫々70年、時代の変化に隔世の感を深くします。
昔の日本の風景を見ると現在の豊かさに吃驚します。そしてこの豊かな日本に生きていることに感謝します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りもうしあげます。後藤和弘(藤山杜人)

「仙台の向山小学校と往年のプロ野球で活躍した若林忠志選手の思い出」

2024年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台の向山小学校へ私は昭和18年に入学しました。その向山小学校は昭和9年仙台市立向山尋常小学校として開校しましたが,昭和16年4月1日には仙台市立向山国民学校と改称され,現在の名前になったのは昭和22年4月1日のことです。 以来卒業生は約9,000名を越えています。
その学校でよく野球をして遊んでいました。当時は戦後の貧乏な時代でグローブは布でした。

1番目の写真は仙台市立向山国民学校の当時の玄関です。

2番目の写真は向山国民学校の当時の校庭です。この校庭では運動会をしたり野球をして遊んでいました。
その校庭に、当時の阪神の若林忠志選手が現れたのです。
若林選手は「七色の変化球」(ストレート、カーブ、シュート、スライダー、シンカー、ドロップ、ナックル) で有名でした。1936年に阪神に入団したハワイ生まれの日系二世でした。
私が小学3年生の時の終戦後、向山小学校の校庭で野球の指導を受けたのです。
小学生が受けやすい軽いノックをしてくれました。そしてプロ野球で使う大きな革のグローブとバットを見せてくれました。革のグローブは大きく重く汗の臭いがしていました。当時は皮製のグローブは高嶺の花だったのです。嗚呼、これがプロ野球なのだと感動したのを憶えています。
終戦後、若林選手は仙台の霊屋下の私の友人の家に寄寓していました。その友人の本間君が向山小学校の校庭に連れて来たのです。

3番目の写真は阪神時代の若林忠志選手です。
若林選手の指導は一回だけでした。その後、彼は石巻の奥さんの実家へ引っ越して仙台から去ってしまったのです。若林選手の指導を受けたのに私はその後野球は上手になりませんでした。生まれつきの運痴なのです。

4番目の写真はベーブルースが日本に来た時のポスターです。
昭和9年11月、ベーブ・ルースを総帥とする全米選抜チームが来日しました。 全米チームの来日は昭和6年に引き続いて2回目のことでした。 日米両チームは4日の神宮球場での第一戦を皮切りに、全国12都市で16試合を戦いました。 一行はどの都市へ行っても大歓迎をうけました。

今日は仙台の向山小学校と往年のプロ野球で活躍した若林忠志選手の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)