後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「長崎の平戸島の教会の写真」

2024年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム

長崎県の北西の海上に平戸島があります。幅の狭い平戸瀬戸の上に橋がかかっていて九州本土の平戸口と繋がっています。

この平戸瀬戸へ面した平戸島の港は船の往来で繁栄した港町でした。この海峡は九州の南の海と玄界灘をつなぐ最短距離なのです。

奈良時代や平安時代には遣隋使や遣唐使の船の出発港としても重要でした。

現在は九州本土から観光バスで行ける上に、平戸市には昔の領事館、商館の跡やキリシタン関連の史跡が多いので、一つの観光スポットになっています。

私共も3回ほど訪問し、古い平戸の町並みを歩き、キリシタン時代の教会を訪ねたことがあります。そんな観光案内を以下に示します。Bba4142f87ef6ad3362f23356d1e39ae1

1番目の写真は手前が九州側で橋の向うが平戸島です。上と下の全ての写真は平戸写真画像集からお借りしました。

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2番目の写真は現在の平戸港です。木造の遊歩道が付いています。左の奥の方に領事館跡や商館跡があります。

この港を見下ろすように平戸城があります。

平戸城の見える反対側の高台に博物館があり、その隣には、風情ある茶室(閑雲亭)があります。

感じの良い女性が綺麗なお点前でお茶をたててくれました。銘菓カスドースの甘さと共に家内と懐かしく思い出します。

3番目の写真は平戸の風景です。

このような小道を登って行くとキリシタン時代の教会の跡地に出ます。現在はカトリック教会とお寺とが並んで建っています。

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4番目の写真はキリシタン時代の教会の跡に建っている教会です。現在はカトリックの教会になっています。

ザビエルの来訪を喜んだ平戸領主、松浦隆信は平戸での布教活動を支援したのです。平戸滞在一カ月足らずの間に100人の日本人がキリシタンになったのです。

しかしそれも禁教令の歴史で暗転するのです。

その後400年経って1949年(昭和24年)に平戸市にザビエル記念碑が出来ます。当時のローマ法王ピオ12世は特使の枢機卿を派遣し、除幕式を行ったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「異国の香りあふれる長崎」

2024年09月10日 | 写真
江戸時代の鎖国中も唯一貿易が許されていた街、長崎。今では国際交流が当たり前になった日本でも、長崎ほど国際色あふれる街は数少ないでしょう。そんな長崎には、国内外から観光客が訪れるスポットがたくさんあります。
https://rlx.jp/journal/kyushu/44475

「長崎の五島列島はカトリックの巡礼地」

2024年09月10日 | 旅行記
日本のカトリックにとって五島列島は巡礼地と私は思っています。
日本の全てのカトリック教会はローマ法王へ直属していますので「日本の本山」というものはありません。
しかし私は長崎の大浦天主堂が「日本の本山」だと思っています。日本を訪問したフランシスコ教皇も長崎へ巡礼の旅をなさいました。
五島列島には江戸時代に隠れキリシタン達が沢山住んでいたのです。明治時代になって禁教が解けた以後に隠れキリシタン達が美しい教会をたくさん作ったのです。
数年前、私は家内とともにこれらの美しい教会を巡る旅に行ったのです。それは隠れキリシタン達を偲ぶ巡礼の旅でした。
そこで今日は美しい五島列島の風景写真をお送りしようと思います。風景写真は「 五島アルバム 」からお借りしてここにお送りいたします。
 https://gotoproject.jp/photographer/photo-minewaki/ 

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「日本の悲劇(7)広島と長崎への原子爆弾投下」

2024年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
原爆投下に最初に選ばれた標的は広島市だった。それまで空襲を受けていなかった広島は、原爆の影響を観察するのに適していた。加えて、広島は軍都でもあった。 
1945年8月6日午前8時15分原爆が爆発した。爆発によって、4.5平方キロ圏内の温度は摂氏4000度を超えた。 原爆投下のその日の内に、5万人から10万人が亡くなったと考えられている。爆心地から10平方キロの圏内は壊滅した。爆発は60キロ以上離れた場所でも、体感された。市内の建物の3分の2に当たる、約6万棟が瓦礫と化した。猛烈な熱線のためあちこちで火災が発生し、爆心地から7キロの距離の場所が3日にわたり燃え続けた。
1番目の写真は原爆投下後の広島の全景です。
2番目の写真は原爆投下後の広島の拡大写真です。
一方、長崎には1945年8月9日に原爆が落とされました。
3番目の写真は爆心から9.6キロメートル離れた香焼町の写真です。アメリカの大型戦略爆撃機B29が原爆を落としたのです。午前11時をちょうど回ったときでした。
原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊した。
4番目の写真は原爆の投下後の長崎の惨状です。
長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減された。周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島に落とされた「リトルボーイ」の威力を超えたとも言われている。 
現地では、薬品や器材が不足する中、生き残った永井隆を初めとする医師や看護婦たちによって救護活動が開始されたが、原爆は医療救護体制にも大きな打撃を与えたため、負傷者に対して応急処置などを十分に施せるような状態ではなかった。・・・・

さて広島と長崎への原爆投下から79年たちました。広島と長崎は美しく復興したのです。現在の写真を示します。

5番目の写真は現在の広島です。

6番目の写真は現在の長崎です。

7番目の写真は長崎の天主堂です。長崎市伊王島町にある大天使聖ミカエル天主堂です。

今日は「日本の悲劇」の(7)として広島と長崎への原爆投下について書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)