後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「はじめて留学したオハイオ州の風景写真」

2025年02月15日 | 写真
はじめて留親しい学オハイオ州オハイオ州には3つの都市があります。エリー湖のそばのクリーブランドと首都のコロンバスと南のシンシナティです。
オハイオ州は、エリー湖に面していて、接している各州とは主要高速道路によって接続されています。オハイオ州の南部境界はオハイオ川によって区切られ、北部境界の大部分はエリー湖によって区切られています。東にはペンシルベニア州、北部はエリー湖です。西部はインディアナ州で南部はケンタッキー州です。留学したオハイオ州の風景写真をお送り致します。
1番目の写真はコロンバス市にある州政府です。
2番目の写真はオハイオ河です。
3番目の写真はエリー湖のそばのクリーブランドです。
 
4場目の写真は南のシンシナティです。
オハイオとは、インディアンのイロコイ族の言葉で、「美しい川」ないし「偉大な川」という意味です。
 通常の夏は暑く湿度が高く、冬は概して寒冷です。降水量は年間を通じてほどほどであります。悪天候は希ではないですが他州に比べれば竜巻発生個数は少ないのです。
 宗教はオハイオ州民の多くはプロテスタントです。バプテスト、メソジスト、ルーテル教会、長老派教会、及びペンテコステ運動が大多数を占めています。他には合衆国内最大のアーミッシュの共同体があります。
 
分かりやすく要約すればオハイオ州は典型的なアメリカです。アメリカ文化の特徴を全て持っています。アメリカの保守文化です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 

「アメリカ留学で終生変わらぬ愛国心を持ってしまった」

2025年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
私はフルブライト留学生として1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。
その時アメリカ人は日本人の私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。
私はアメリカに留学した影響で強い愛国心を持つようになったのです。
日本に生まれた幸運に感謝しました。祖国日本を懐かしみ大切に思うようになりました。どこの国より愛しています。
そのような愛国心を終生持つようになった原因は多数の民族が混じって国を作っているアメリカ合衆国に住んでみて、その中で体験した強烈な人種差別の影響を受けたことにあります。
1960年に留学したアメリカでは強烈な黒人差別をしていました。
オハイオ州の州都、コロンバスに留学した大学がありました。その町でも白人と黒人の住む地域がはっきり別れています。バスに乗ると前半分が白人席で後半分が黒人席と決まっていました。間に仕切りがあります。はじめてバスに乗った時、何の気なしに後半分の席に座りました。とたんに近くの白人男性が寄って来て、私の腕をつかみ、前半分の一番後ろの席に座らせました。黒人差別のルールを破ってはいけないのです。
コロンバスでは映画館もレストランも黒人用は別でした。
留学した大学は白人しかいません。親しくなった白人の同級生が黒人との付き合い方を真剣に教えてくれました。黒人と個人的に親しくなってはいけない。一緒に並んで道路を歩いてはいけない。毎日家々にゴミ集めに来る黒人には絶対にサンキューと言ったり話しかけてはいけない。黒人地域はアパートが安いからと住み込んではいけない。こんな調子でした。
この状態は公民権運動をしていたキング牧師の成果が出る前のアメリカの黒人差別の実態でした。キング牧師は「いつか必ずこんな日が来る。白人と黒人が仲良く一つの食卓で楽しく食事を共にする日が必ずやって来る!」と悲しげに叫んでいたのす。私はその声を忘れません。
しかし私が留学した1960年から1962年のアメリカは人種差別の強い時代でした。
アメリカでの階級を大雑把にいうと上から順に(1)ヨーロッパ系白人、(2)中南米から来た白人、(3)アジア人、そして(4)アフリカ系の黒人と厳然と別れていたのです。そして(1)、(2)、(3)はまとめて白人と同じような扱いを受けていたのです。
日本人の私ははからずも白人並みの生活が出来たのです。黒人のように差別され蔑視されなかったのです。
ですから当然、私は日本人に生まれた幸運を感謝しました。アジア人に生まれた運命に感謝しました。従って日本を大切に思うようになりました。日本人を誇りに思うようになりました。そしてアジア人に親しみおぼえるをようになりました。
最後に、冒頭に書いた「それは私が日本人だったから受けた好意と支援だったのです」という理由を書きます。
その理由は当時のアメリカ人は日本人を蔑んでいないのです。いや尊敬すらしていまいた。
理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったのです。油断していたら真珠湾まで攻め込んで来たのです。アメリカが本気で戦って3年8ケ月の後やっと勝つことの出来た強敵だったのです。憎らしくはありますが日本人の力を尊敬せざるを得なかったのです。
同級生は特攻機のことにを敬意を感じているようでした。
太平洋戦争の功罪は議論すればキリがありません。
しかしその戦争のお蔭でアメリカ人は私の留学を支援してくれたのかも知れません。

今日の写真はアメリカの風景写真です。ネットで「アメリカの風景写真」を検索してお借りした写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「懐かしいある友人とオハイオの思い出」

2025年02月15日 | ブログ
1960年に留学した時非常にお世話になったのが黒田さんでした。
オハイオ州のコロンバスにある州立大学に私が留学した時です。
大学の留学生受け入れ事務所に黒田さんは車で私を迎えに来てくれたのです。黒田さんはそのまま彼が住んでいた家に私を連れて行き2階の一室を私に与えてくれました。
その家にはアメリカ人の学生3人と日本人の留学生3人が住むことになったのです。部屋は別々でしたが料理場と食堂は6人一緒です。
黒田さんは男っ気の九州男児でした。6人の同居人の親分のような人でした。弱気なアメリカ人の学生を勇気づけていました。隣の家のアメリカ人一家と仲良くしていました。
私は大らかな九州男児の黒田さんと同じ家に1年間住んでいたのです。
日本から呼び寄せた婚約者とオハイオで結婚した時も披露宴などの写真を沢山撮ってくれました。
オハイオでは黒田さんたちと一緒に大学のゴルフ場に行ったりして遊びました。ダンタウンの酒場にも行きました。黒田さんは我が青春を実に楽しくしてくれたのです。
黒田さんは難しいMBAを取りました。MBAは経営学修士です。帰国後はアメリカの経営学で日本の会社の経営の世話をしていました。
帰国後に結婚し、私共も式に招かれました。そして私どもの家の近所に偶然、住むことになったのです。その家に私どもを招待してくれました。
その後いろいろな交流が生涯続いたのです。

私にとっては黒田さんは何時までも青年です。オハイオ州の州立大学に留学した時会ったままの青年です。

添付の写真はオハイオ州の州立大学の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




「初めて留学したオハイオ州立大学の写真」

2025年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
老境になると懐かしいのは最初のアメリカ留学です。1960年に初めてアメリカへ留学しました。オハイオ州立大学に留学したのです。
オハイオ州立大学の風景を写真に従ってご紹介します。
1番目の写真は校地の中央にある芝生の広場とそれを囲む建物群の写真です。このような広い芝生の広場がもう一つありました。
2番目の写真は数万人を収容する巨大なスタジアムです。写真の下方に写っている自動車と比較してみるとスタジアムの巨大さが分かります。この大学はアメリカン・フットボールが強いので有名なので、スタジアムも立派なのです。
3番目の写真は私達が使っていた3階建てのロードホールという建物です。この写真では右のほうに玄関がありますが、その右の1階には、私が作った実験装置が置いてあった部屋があり、2階には講義室がありました。
4番目の写真はこの大学の金属工学科の入っている主な建物です。玄関を入ってすぐ右に学科主任のフォンタナ教授の部屋がありました。イタリア系の人でいシシリー島のギャングの親玉の風貌でしたがとても優しい性格の教授でした。

今日は1960年に初めて留学したオハイオ州立大学の写真を示しました。

茫々、あれから65年です。親切に接してくれた全ての人に感謝の気持ちがいっぱいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「アメリカでの質素な結婚式とレセプションの思い出」

2025年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム
結婚は人生の重大なことです。私は67間幸福な結婚生活を続けています。
今日は私どもの結婚式とレセプションの思い出を書きたいと思います。
64年前の1961年、私共はオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。
とても簡素な結婚式と質素なレセプションでした。しかしオハイオ州立大学の先生方や同級生が一生懸命世話をしてくれました。感謝の気持ちは今でも忘れません。
もう64年にもなるので写真に写っている自分は容姿も完全に変わり、全くの他人のようになりました。結婚式とレセプションの写真を掲載します。
1番目の写真は我々の結婚を報ずるオハイオの新聞記事です。
 
2番目の写真はオハイオ州立大学の中にある結婚式場へ牧師さんが来て式をあげている場面です。私の左後ろはケン・ローリイという同級生で私の付添人をしてくれました。右端の半身だけ映っているのがケン・ローリイの奥さんのゲイルです。

3番目の写真は結婚式に出席してくれたはオハイオ州立大学の金属工学科の先生方と同級生です。

4番目の写真は結婚式の後のレセプションの写真です。
レセプションはダウンタウンのディッシュラ―ヒルトンホテルで行いました。左の人が私の指導教官のセント・ピエール教授です。セント・ピエール教授の右に私の父は立っていましたがこの写真では人陰になって写っていません。
結婚式とレセプションには内木先生夫妻や秦先生夫妻も出てくれました。内木先生と秦先生の奥さんは色鮮やか和服姿でした。
同級生の2人はレセプションの後で残った大きなウエディングケーキを私どもの家に届けてくれたのです。おかげで私どもは数日間ケーキを美味しく食べました。
5番目の写真は無事に結婚した直後の私どもと私の父の写真です。私どものアパートの駐車場でした。

今日は私どものオハイオ州のコロンバス市での結婚に関する写真を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)