後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「幻のように消えてしまった懐かしい昔の風景」

2024年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前から戦後にかけての日本の風景は幾つか幻のように消えてしまいました。1964年の東京オリンピック以後の経済の高度成長が日本の風景をすっかり変えてしまったのです。特に都会とその郊外の風景は大きく変わったのです。
戦前生まれの高齢者にとっては昔のままの日本の風景が懐かしいはずです。幻のように消えてしまった昔の風景です。

そこで今日は懐かしい昔の風景の写真を示したいと思います。私と家内の生まれ育った仙台と鎌倉の昔の風景です。
インターネットで昔の風景写真を根気良く探し、見つけた8枚の写真をお送りいたします。

1,私が1948年に卒業した仙台市向山小学校の昔の写真
仙台の向山小学校の学区は青葉城址から続く八木山の丘陵地にある住宅地域です。東は愛宕橋、西はお霊屋下橋までです。
学校周辺には、赤松等の自然林が残っており緑が多く自然環境に恵まれています。学校からは仙台市の中心街が一望できます。天気の良い日は遠く太平洋まで望むことができます。
近くには発達障害児の収容施設があり昭和天皇も行幸なさいました。
1番目の写真は私が通っていた当時の向山小学校の表玄関です。写真の出典は、
https://www.sendai-c.ed.jp/~mkaiyama/school.html です。
この校舎は1979年に鉄筋コンクリートの立派な校舎に改築されました。写真の校舎は現在は存在しますん。
2番目の写真は当時の向山小学校の運動場側から見た昇降口です。運動場には松の大木と奉安殿がありました。

2,八木山吊り橋の写真
青葉山と八木山の間に広瀬川支流が形成した仙台市の名所「竜ノ口渓谷」があります。その標高差70mの断崖絶壁に八木山吊り橋が架かっています。
1931年(昭和6年)に第二師団の軍用道路の吊り橋として開通したものです。
3番目の写真は八木山吊り橋です。私の子供の頃何度も渡り青葉城跡に遊びに行った懐かしい吊り橋です。
(写真の出典:http://plaza.rakuten.co.jp/jxsdes4/diary/201011240000/)

3、鹿落坂(ししおちざか)
仙台の伊達政宗の時代よりはるかに古い坂が鹿落坂です。(https://www.hirosegawa-net.com/?p=625 )
そもそも鹿落坂を経て川を渡る道筋は城下町仙台の誕生以前から昔の東街道としてありました。 元禄年間に書かれた地誌『仙台鹿の子』には、「鹿落坂は越路観音下の坂なり 古よりの細街道にてある故此坂口より鹿とも里へ下り出る故鹿下り坂といへるを今世俗はししおち坂といふなり 此処は昔の東街道にて此道の外仙台西南の山より出入りの路なし」とあります。
私の家は向山にあったので朝夕この坂を通って片平町の東北大学に通ったものです。
4番目の写真は昭和9年に拡幅工事後の鹿落ち坂です。やっと自動車が通れるようになりました。
5番目の写真はお霊屋下橋と鹿落ち坂の遠景です。右の山は経ヶ峰で伊達政宗の霊廟がある山です。

 (4)家内が生まれ育った鎌倉の昔の写真
家内は昭和12年に鎌倉で生まれ昭和20年夏まで住んでいました。鎌倉のカトリック系の幼稚園と御成小学校に行きました。
自宅は長谷寺、鎌倉大仏、加賀藩主の別荘に囲まれた地区にありました。住宅地を少し歩くとすぐに由比ヶ浜に出ます。よく水着にケープを羽織ったまま通って海水浴をしたそうです。
6番目の写真は由比ヶ浜沿いの道路を江の島方向に行った海岸の風景です。終戦後数年後の海岸道路の写真です。海岸道路は現在、舗装道路になり家が建ち並んでいます。
7番目の写真は昔の由比ヶ浜の海水浴の様子です。
8番目の写真は終戦後数年後の鎌倉駅です。鎌倉は空襲に遭わなかったので駅舎は戦前のものです。

今日は昔の仙台と鎌倉の風景写真を示しました。それぞれ私と家内の生まれ育った場所です。写真を眺めているといろいろなことを思い出します。人間の一生は長いものです。しかしすべては邯鄲の夢でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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