後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「離れ島への憧れ(3)伊豆大島、波浮の港への旅」

2025年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後すぐの少年の頃、「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、波浮の港は夕焼け小焼け、、、」という歌がラジヲから流れていました。歌の意味は、出稼ぎに行く島の娘が波浮からの船の艫綱を泣いて解く、、、船出する人と見送りに来た人が別れを悲しんでいます。鵜の鳥は日暮れに帰るがその人は帰らない、、、。
そんな悲しい歌なので忘れられません。老境になり仕事を一切止めて、彼方此方へ旅をすることにしました。 そうだ!大島の波浮の港へ独り旅をしてみようと思い立ちます。
少年の頃から長い長い間、歌だけで知っていた波浮の港へ行く事にしました。
ある年の、まだ寒い3月5日の朝、竹橋桟橋から船に乗ると、高速船なので昼前に大島に着きます。観光客で騒がしい岡田港の交通案内所で波浮の港へ行って一泊したいと相談します。対応してくれた若い女が。「あそこは観光客は行きませんが。何をしに行くのですか?」と聞きます。
少年の頃の感傷で行きますとも言えず赤面してしまいました。それでも国民宿舎のような宿をとってくれました。
バスで行きました。宿に着くと高台にあり、火口湖のように丸い波浮港が見下ろせます。
1番目の写真は高台から見下ろした波浮の港の風景です。
写真は、http://blog.livedoor.jp/zuifuuino/archives/52120612.html からお借りしました。
宿からの景色が良いのですが、憧れの波浮の港までは遠すぎます。
港へ降りて行って地魚の寿司を食べようと思いましたがタクシーがありません。
思案していましたら、宿の人が電話をすると寿司屋さんが迎えに来てくれるよと言います。
60歳くらいの元気なオバサンが軽自動車を運転して迎えに来ました。
気さくでいろいろ話してくれるのですが乱暴な運転なので怖いのです。曲がりくねった急な坂道を降りて行き、そこ一軒だけの店に着きます。
2番目の写真は波浮の港の町並で、このような場所に寿司屋がありました。
この写真は、http://www.asahi.com/travel/bicycle/TKY201204060190.html からお借りしました。
席について好奇心から地魚の島寿司を頼みました。
ご存知ですか?「島寿司」を?あれはいけません。
活きの良い地魚の握りの上に、どういう訳か甘ったるい醤油が塗ってあるのです。ワサビでなくカラシです。
甘い魚の寿司です。
泣きたくなりましたが、ビールの酔いのお陰で元気になり、店の中を観察することにしました。2組の客が居て日本酒や焼酎を飲んでいます。
客の一組が、寿司を握っている60過ぎの主人や手伝っている息子やその嫁と雑談をしています。寿司屋の一家は明るく、地元の人々に好かれているようです。

見ると店の壁に古い写真が沢山飾ってあります。波浮の港に木造漁船がビッシリと並んでいる写真です。港の通りには漁師が溢れ、居酒屋が軒を連ねています。
主人に聞くと昔は漁船の船足が遅く、この港が太平洋での漁の中継基地として賑わったそうです。今は船が高速化して、取れた魚を冷凍し、積んだまま築地の魚河岸へ直行するのです。
だれも波浮の港へ寄らなくなり、すっかりさびれました。と主人が淋しそうに言います。
そして島では火山灰が土地を覆っていて米が取れなく、昔から貧しい所だったと説明してくれます。気分を引き立てるため地魚の刺身と「亀の爪」という一品を注文しました。
亀の爪のように見える小さな一枚貝が、磯の岩にしがみついているそうです。不味い貝です。普通には食べるものではない代物です。救荒食とはこんなものかも知れないと考え込んでしまいました。
少年の頃聞いた歌で、下田や熱海へ出稼ぎに行く島の娘の悲しい歌が実感として体で感じられるのです。
主人へ不味いとも言えず。「結構なお味ですね」と言います。ニコリとして、主人が、「そうでしょう!昔は毎日のように食べたものです」と答えます。
酔い醒ましに、暗い港通を散歩すると、店も居酒屋も無く真っ暗な通りなのです。淋しげな波音だけが響いていて、通りが尽きた浜辺に「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、、、、」の野口雨情の記念碑が立っています。
まだ3月の始めで、寒い夜風が吹く抜けて行きます。
もとの店へ戻り、もう一杯飲み暖まってから帰ることにしました。帰りは赤ん坊を連れた嫁が、軽乗用車で高台の宿まで送ってくれました。助手席に赤ん坊を乗せているので丁寧な運転です。道々、乳飲子の自慢話を聞かせてくれたのでこちらも明るい気分になりました。
3番目の写真は大島の南端にある波浮の港近辺の地図です。
私の行ったのが3月のせいで観光客が居ませんでした。しかし、夏には釣り客やダイビング客で賑わうそうです。皆様、是非波浮の港へ泊まりに行って下さい。港通りのお寿司屋さんへも行って下さい。島寿司でなく普通の握りにしたほうが無難です。
それから大島ではレンタカーがお薦めです。波浮の港へはバスしかありません。
レンタカーですと大島の海岸沿いを一周出来ます。三原山の火口近くまで車で登れます。

それはそれとして、
 今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人) 

「離れ島への憧れ(2)神津島と美少女の恐怖の秘密」

2025年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
絶海の孤島への独り旅。憧れでした。男のロマンです。ある時、絶海の孤島、神津島へ旅しました。東京都の島です。そこで聞いた美少女の話です。韓国の美少女、おたあジュリアにまつわる恐怖の秘密の話です。
私は2006年に神津島へ独り旅をしました。おたあジュリアは今でも島の人々に大切にされ尊敬されていることを知りました。

1番目の写真は神津島の写真です。写真の出典は、http://runo345.btblog.jp/ です。

2番目の写真は2006年に私が撮った神津島の荒波です。神津島は太平洋の波頭に浮かぶ小さな孤島なのです。

おたあジュリアは秀吉の朝鮮出兵の時、捕まって、韓国から日本へ連行されて来ました。日本に来てからキリスト教の信者になりました。しかし一方、キリシタン弾圧が厳しくなっていたのです。
キリスト教の信者のおたあジュリアはむごい拷問にあいます。しかし絶対に棄教しなかったのです。ジュリアは神津島への遠島の刑を言い渡されます。
流された神津島では、ジュリアは罪人にも拘わらず貧しい人々の世話をして島民に愛されます。島民に尊敬され、親切にかくまわれます。
その時代にはキリシタンへ親切にしたり、尊敬した人々はキリシタンと同罪の罰を受けます。
ですから神津島の島民はジュリアを尊敬している事を絶対に秘密にしていました。それは島の人だけの恐怖の秘密だったのです。
時代は明治維新になり、明治、大正となりましたがジュリアを尊敬しているということは大声で話すことではなかったのです。

2006年に私は神津島へ東京から高速水中翼船で行きました。船にゆられて4時間。遥か外洋に浮かぶ小さな火山島へ旅をしました。山ばかりで平地が少ない小さな島でした。島ではわびしい民宿に投宿しました。燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞いたのです。
彼は低い声で話し出しました。
「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」 と。
しばし沈黙の後、彼は話し出します。
「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。キリシタンだったのでここへ流された女です。当時の島の貧しい人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」 ・・・・
「おたあ、は立派な女です。元気に島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、悲しむ人々を慰めました。おたあは本当に優しく賢い女だったのです」 
「おたあ、に島の人々は感銘を受け、彼女の島での生活を温かく助けたのです。しかしキリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」 
「ですから神津島の人々はこのおたあジュリアのことは絶対に秘密にしたのです」・・・「秘密は明治、大正になっても固く守られたのです」
「島の人々は今でも、おたあのことを尊敬しています。まあ、つまらない話かもしれませんが」・・・

現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものです。神津島とおたあジュリアの歴史は島の民宿に泊ったので知ることが出来たのです。
旅の後すぐにおたあジュリアのことを調べてみました。
おたあは3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の養女となり、洗礼を受けジュリアという名を授かりました。関が原の合戦の後、小西行長は石田三成とともに三条河原で斬首されます。
そしておたあは家康の側室の侍女となります。しかし信仰を持っていたので家康の言いなりになりません。
そんなおたあは桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になったのです。
それは慶長17年、1612年のことでした。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もあります。
現在は、毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」があります。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でおたあジュリアの慰霊祭も同時に行っているのです。

3番目の写真はおたあジュリアの絵です。
ジュリアの姿絵は、https://www.asahi.com/articles/photo/AS20190515000709.html から転載しました。

4番目の写真は神津島にある記念塔で彼女のお墓と想定されています。私が撮りました。

5番目の写真は韓国の切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓です。1972年日韓の友情によって移設されました。

毎年、5月になるとジュリア祭りが現在でも開催れています。おたあジュリアは慶長2年(1597年)に日本へ連行されたとすると、神津島へ来た時はまだ18歳の若さでした。

今日は孤島、神津島とおたあジュリアの話をご紹介いたしました。

それはそれとして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考情報========================= 
神津島は伊豆諸島の島の一つで、活火山の火山島。東京都神津島村。周辺の島も含め数十個の単成火山があり「神津島火山群」を成している。島の形はひょうたん型をしており天上山(標高572m)を中心とした北部と、秩父山のある南部とに大きく分けられる。  南部と北部の間の西側の前浜沿いに主な集落がある。民宿などが4つほどある。温泉もある。
 黒曜石を産出し、後期旧石器時代から矢じりや刃物として大量に本州に送られた。
神津島へは東京、芝浦から水中翼船が出ている。旅客機は東京の調布飛行場から出ています。                                                                                                                                                           

「離れ島への憧れ(1)冬の波荒れる八丈島」

2025年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム
生来軽率な私は若い頃から離れ島への独り旅に憧れていました。はっきりした理由もなく離れ島はロマンティックな別世界のように憧れていたのです。
しかし若い頃は忙しくて旅に出る余裕もありません。しかも離れ島は数多くあるのです。東京都の離れ島を列挙すると次のようになります。
大島(伊豆諸島|大島町)
利島(伊豆諸島|利島村)
新島(伊豆諸島|新島村)
式根島(伊豆諸島|新島村)
神津島(伊豆諸島|神津島村)
三宅島(伊豆諸島|三宅村)
御蔵島(伊豆諸島|御蔵島村)
八丈島(伊豆諸島|八丈町)
青ケ島(伊豆諸島|青ケ島村)
父島(小笠原諸島|小笠原村)
母島(小笠原諸島|小笠原村)
硫黄島(小笠原諸島|小笠原村)
南鳥島(小笠原諸島|小笠原村)
(有人離島一覧、 https://ritokei.com/shima )
上の島のなかで私が訪れた島は、大島、神津島、八丈島だけです。
今日は八丈島への独り旅について書きたいと思います。
さて私は2009年1月に冬の波荒れる八丈島へ独りで旅をしました。
帰りの船が悪天候で欠航したので非常に印象深い旅になりました。
芝浦の桟橋から遥か286Kmも船に揺られて翌朝辿り着いたのです。
着いてみると八丈島は想像以上に大きな島でした。
島の東に10万年前の噴火山の三原山があり、西に1万年前に出来た八丈富士があり、その間が平野で農村が広がっています。
そして西の海上には八丈小富士という急峻な火山が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。島の周囲は60Kmです。
冬の荒波で帰りの船が欠航したので長い逗留になりました。そこでレンタカーを借りて島の隅々まで走り回りました。
江戸幕府の島役所跡や古い集落や秀吉の家老だった宇喜多秀家のお墓にも行きました。そして八丈島の自然の景観も楽しみました。
島の西にある八丈富士の中腹に広大な牧場があり、そこまで車が上がれます。写真を撮るには丁度よいので2回登りました。

1番目の写真は八丈富士のある西半分の写真です。
西山 (八丈富士) の麓は平野になっていて農村が広がっています。左奥の海上には八丈小富士が見えました。
手前の町は大賀郷町です。左の方向に飛行場が見えます。そして町の左右に港があります。風の向きによって客船の発着する港が変わります。

2番目の写真は車でもっと八丈小富士に近づき撮った写真です。昔は人が住んでいて小学校もありましたが現在は無人島です。
私は伊豆七島の大島や神津島へは何度か行きましたが、景観の雄大さという点で八丈島は抜群です。
八丈島で感動的なことは、島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることです。
3番目の写真は島の大賀卿町の中央にある東京都立公園です。
公園の真中にドライブウエイがあって車で楽しみながら通り抜けられるようになっています。
車を停めて歩いていたら、赤ん坊を抱いた母親に会いました。島の観光案内のような話をしてくれました。そして三原山の東の山麓の樫立に團伊玖磨の記念館がありますと教えてくれました。
4番目の写真は島の主産業の観葉植物の栽培地の風景です。三原山の麓にあったアロエの花です。1月の末なのにウグイスが啼いていました。

八丈島で忘れられない人に歴史民俗資料館でお会いした細谷昇司氏という方がいます。
地域歴史の専門家で、その後、数か月にわたってメールの交換もしました。島独特の風習や歴史を教えて頂いたのです。
例えば、八丈島から約6000年前の縄文時代の人々の遺骨や石器・土器が出土していることを教えて頂きました。
そして石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来た島には無い粘土です。従って縄文人は土器を持って太平洋を渡って本州から来たのです。それを証明するために海用のカヌーで伊豆半島、大島、神津島と島づたいに漕ぎ渡った青年の写真も送ってくれたのです。
さて八丈島で忘れられない人に團伊玖磨がいます。
5番目の写真は團伊玖磨の記念館の中にある作曲室です。写真は地方新聞、「南海タイムス」の2002年5月31日の掲載写真です。
随筆と言えばこれまでに、いろいろ読みました。寺田寅彦、中谷宇吉郎、團伊玖磨などのものは長年愛読してきました。團伊玖磨の「パイプのけむり」は、アサヒグラフに連載されていました。1963年に八丈島の樫立に別荘を作った翌年から2001年に亡くなる直前まで40年近く続いた随筆です。朝日新聞社から27巻の本として出版されていますので、お読みになった方々も多いと思います。
外国で仕事をしながら忙しく書いたものや、葉山の自宅や、八丈島でゆっくり書いたものなど変化があって飽きさせません。
世界の珍しい風物や人情、そして八丈島の自然、人々や植物のことなどが軽妙洒脱な筆致で活き活きと描いてあります。話題は多岐ですが、いずれも上品な書き方で、文章の裏に人間愛が流れています。読後の爽快感が忘れられません。
八丈島では團伊玖磨氏を誇りにしています。2002年の没後一周忌に團さんの別荘を公開し、遺品や著作を展示しました。

八丈 島では島唯一のホテルに投宿していました。そこから島の寿司屋に通いご主人から島の周辺で取れる魚のことをいろいろ教わりました。地魚の姿を見たいと言ったら、スーパーに沢山並んでいますと教えてくれます。翌日行ってみたら、成程スーパーの魚売り場に活き活きした地魚が5種類ほど並んでいます。

独り旅は淋しいものです。家族旅行のように楽しくはありません。
しかし旅先で会う人がみんな優しく話しかけてくれるのです。そしてその地方独特の暮らし方や地域の歴史を教えてくれるのです。

藤村ではありませんが、「八丈の海辺のほとり 雲白く遊子悲しむ」の境地です。欠航の船よ、明日は波荒れるとも出てくれ・・・と想いながら日が暮れ行きます。

それはそれとして、
 今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)