中村彝(なかむらつね)は結核に苦しみながら感動的な油彩画を沢山描いて37歳で亡くなった夭折の画家でした。私は何年も前に水戸の近代美術館で彼の特別展を見た時の強い衝撃を忘れません。そして新宿の中村屋には何度も行って壁に掛かっている中村彝の絵画を見ています。
油彩画はどれも暗い色で人間の苦悩と美しさを描いたものです。風景を描いても静物画を描いても何か 中村彝の苦悩が滲んでいるのです。深い精神性を感じさせるのです。特に日本の重要文化財に指定されている「エロシェンコ氏の肖像画」はロシアの詩人エロシェンコの盲目の苦しみと強い情熱が描いてある彼の傑作です。
そんな絵画を写真でお送りします。
1番目の写真は大きさ45.5×42cmの「エロシェンコ氏の肖像画」です。1920年(大正9年)に描かれた油彩画で現在は東京国立近代美術館に展示してあります。国の重要文化財です。
エロシェンコの像は盲目の詩人の内に秘めた精神性と内面的なものを感じさせる肖像画の傑作です。中村彝の“心の内”が投影された、いわば彼の自画像とも言はれてる作品です。
2番目の写真は下落合の「中村彝アトリエ記念館」に展示してある1914年の描かれた「少女像」です。
中村は1911年新宿中村屋の相馬夫妻の厚意で新宿中村屋裏のアトリエに引っ越します。絵のモデルは相馬家の長女「俊子」です。彼女との恋愛を反対され中村彝は失意のうちに新宿中村屋を去ります。
新宿中村屋の創業者の相馬愛蔵氏と奥さんの黒光さんは明治、大正、昭和の始めにかけて深い人類愛と芸術へ対する尊敬を持ち、数多くの芸術家を情熱的に支援してきたのです。その正確な歴史的記述は「中村屋サロン」と題する、HP: http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p01.html にあります。
3番目の写真は彝のアトリエ裏手の風景『目白の冬』です。中央に描かれてあるのがメーヤー館(宣教師の住居)で右端に描かれてあるのが英語学校です。
4番目の写真は福島の海岸の風景です。彝が21歳の頃転地療養中に福島県いわき市に滞在した時の作品です。板に描かれているので絵具が薄い部分は下地の木目が見えています。それが海の透明感や海中の岩を感じさせています。暗い色彩ですが美しい絵です。
5番目の写真は1919年、大正8年に描かれた「静物」です。現在は茨城県近代美術館が所蔵しています。
さて中村 彝(1887年 - 1924年)は大正期にかけての洋画家でした。(https://ja.wikipedia.org/wiki/中村彝 )
1887年(明治20年)、茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれました。父は彝が生まれた翌年に没し母も彝が11歳の時に没し、淋しい少年期を過ごします。
1904年(明治37年)祖母が死に、唯一生き残った姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり一人暮らしの境遇になったのです。
その上、彝自身も結核を病み療養のため折角入学した陸軍中央幼年学校を中退します。
1905年(明治38年)、18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に行き、彝はこの地で水彩スケッチを始めたのです。翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をするが、その間にも千葉県などへ転地療養を繰り返しています。
1909年(明治42年)22歳の時に第3回文展に初入選します。
1910年(明治43年)には第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり作品は実業家の今村繁三が購入します。
1911年(明治44年)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになります。
1913年(大正2年)~1914年(大正3年)にかけての彝の作品には相馬家の長女の俊子をモデルにした裸婦像が数点あり2人は親密な関係だったのです。彝は俊子に求婚するが結核を理由に反対されます
その後の1916年に新宿区下落合にアトリエを構え、以後、彝は亡くなるまでこのアトリエでで油彩画を描き続けたのです。
1920年(大正9年)にはルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を受けました。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影響が感じられると言う人もいます。
1921年(大正10年)には病状が悪化し翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していません。
1924年(大正13年)に37歳で夭折します。
2013年(平成25年)に新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンします。
この様に中村 彝は生前からその油彩画は高く評価されたのです。しかし37歳での旅立はあまりにも早過ぎました。これから円熟した絵を沢山描こうとしていた時に亡くなったのです。中村 彝の才能が惜しまれます。嗚呼。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
油彩画はどれも暗い色で人間の苦悩と美しさを描いたものです。風景を描いても静物画を描いても何か 中村彝の苦悩が滲んでいるのです。深い精神性を感じさせるのです。特に日本の重要文化財に指定されている「エロシェンコ氏の肖像画」はロシアの詩人エロシェンコの盲目の苦しみと強い情熱が描いてある彼の傑作です。
そんな絵画を写真でお送りします。
1番目の写真は大きさ45.5×42cmの「エロシェンコ氏の肖像画」です。1920年(大正9年)に描かれた油彩画で現在は東京国立近代美術館に展示してあります。国の重要文化財です。
エロシェンコの像は盲目の詩人の内に秘めた精神性と内面的なものを感じさせる肖像画の傑作です。中村彝の“心の内”が投影された、いわば彼の自画像とも言はれてる作品です。
2番目の写真は下落合の「中村彝アトリエ記念館」に展示してある1914年の描かれた「少女像」です。
中村は1911年新宿中村屋の相馬夫妻の厚意で新宿中村屋裏のアトリエに引っ越します。絵のモデルは相馬家の長女「俊子」です。彼女との恋愛を反対され中村彝は失意のうちに新宿中村屋を去ります。
新宿中村屋の創業者の相馬愛蔵氏と奥さんの黒光さんは明治、大正、昭和の始めにかけて深い人類愛と芸術へ対する尊敬を持ち、数多くの芸術家を情熱的に支援してきたのです。その正確な歴史的記述は「中村屋サロン」と題する、HP: http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p01.html にあります。
3番目の写真は彝のアトリエ裏手の風景『目白の冬』です。中央に描かれてあるのがメーヤー館(宣教師の住居)で右端に描かれてあるのが英語学校です。
4番目の写真は福島の海岸の風景です。彝が21歳の頃転地療養中に福島県いわき市に滞在した時の作品です。板に描かれているので絵具が薄い部分は下地の木目が見えています。それが海の透明感や海中の岩を感じさせています。暗い色彩ですが美しい絵です。
5番目の写真は1919年、大正8年に描かれた「静物」です。現在は茨城県近代美術館が所蔵しています。
さて中村 彝(1887年 - 1924年)は大正期にかけての洋画家でした。(https://ja.wikipedia.org/wiki/中村彝 )
1887年(明治20年)、茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれました。父は彝が生まれた翌年に没し母も彝が11歳の時に没し、淋しい少年期を過ごします。
1904年(明治37年)祖母が死に、唯一生き残った姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり一人暮らしの境遇になったのです。
その上、彝自身も結核を病み療養のため折角入学した陸軍中央幼年学校を中退します。
1905年(明治38年)、18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に行き、彝はこの地で水彩スケッチを始めたのです。翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をするが、その間にも千葉県などへ転地療養を繰り返しています。
1909年(明治42年)22歳の時に第3回文展に初入選します。
1910年(明治43年)には第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり作品は実業家の今村繁三が購入します。
1911年(明治44年)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになります。
1913年(大正2年)~1914年(大正3年)にかけての彝の作品には相馬家の長女の俊子をモデルにした裸婦像が数点あり2人は親密な関係だったのです。彝は俊子に求婚するが結核を理由に反対されます
その後の1916年に新宿区下落合にアトリエを構え、以後、彝は亡くなるまでこのアトリエでで油彩画を描き続けたのです。
1920年(大正9年)にはルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を受けました。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影響が感じられると言う人もいます。
1921年(大正10年)には病状が悪化し翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していません。
1924年(大正13年)に37歳で夭折します。
2013年(平成25年)に新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンします。
この様に中村 彝は生前からその油彩画は高く評価されたのです。しかし37歳での旅立はあまりにも早過ぎました。これから円熟した絵を沢山描こうとしていた時に亡くなったのです。中村 彝の才能が惜しまれます。嗚呼。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)