後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日の玉川上水沿いの紅葉です。

2013年12月02日 | 写真

今日は小平運動公園から立川の小川橋まで玉川上水沿いの遊歩道を歩いて来ました。往復7.2Kmを2時間かけて歩きました。

紅葉に斜めに陽が射し込んで美しく輝いていました。独りで歩いたのでしみじみと晩秋の雑木林の風情を楽しみました。

写真を3枚お送りいたします。

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伊澤孝平著、「そういう時代の旅と人」(3)パリの輝きと影

2013年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

伊澤孝平氏は、「私はパリに着くや総ての人が感ずるであろうように、その美しさ優雅さに打たれて、現実の世界に、よくもまあこんなに美しい場所があったものだと思った。」 とパリを絶賛しています。そしてパリの街の気品ある美ししさを細かに描写しています。

しかし暗い面も客観的に書いているのです。この本の48ページ目です。

・・・パリ便りが、美しい面だけを伝えがちなので、私は、更に暗い面を探って見よう。

フランスの一般労働者は一ケ月の収入が、到底三万フランには達しない。(昭和27年当時のことです)。物価は、日本より遥かに高い。メトロの回数券一回分二十フラン、バスは一区十フラン、卵一個は二十五フランから三十フラン。シャンゼリゼーで映画を見れば、三百五十フランという次第。

夕食は安い所で五百フランである。尤も労働者は、も少し安いところを利用するだろうが、レストランで食事をしていると、歌を唄って喜捨を乞う老人があり、南京豆を売りに来る少年あり、手風琴を弾ずる盲人がる。パンテオンのすぐ後には、三、四百年たったような、ひびの入った石造りの、六階建の狭い建物の中に、うじゃうじゃと暗くうごめいている労働者がいる。人の世は、常に明暗表裏している。・・・・

この描写は昭和27年の秋の頃のものです。しかしこの様子は現在でもあまり変わっていないようです。一般にヨーロッパの大都会には必ずこのような裏町があり、労働者や貧しい老人が住んでいるものです。その裏町もドイツは小奇麗で、フランスは汚いという傾向があります。これもヨーロッパ文化の一部なのです。

下にパリの裏町の風景画をお送りします。

児玉幸雄画伯の油絵です。出典は、http://www.ddart.co.jp/kodamaparis.htmlです。

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伊澤孝平著、「そういう時代の旅と人」(2)アムステルダムにゴッホの絵画を見に行く

2013年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

昭和27年の夏まで7ケ月アメリカのハーバード大学に研究室を置き、各地の大学を視察、訪問した伊澤教授は秋に大西洋を渡りパリに行きます。

「そういう時代の旅と人」の45ページに・・・私はパリに着くや総ての人が感ずるであろうように、その美しさ優雅さに打たれて、現実の世界に、よくもまあこんなに美しい場所があったものだと思った。この気品さには、アメリカ等は遠く遠く及ばないと考えた。・・・・と書いてあります。

そしてパリを中心にしてヨーロッパ各地を精力的に訪問し、貴重な体験をします。

その体験談は第二次大戦直後のヨーロッパ各国の実情を描いていて歴史的にも貴重な文書になっています。

今日はその中からオランダのアムステルダムへゴッホの絵画を見に行った時のことをご紹介します。

同行者は一年前に渡仏していた西村計雄画伯でした。

2人で市電に乗ってアムステルダムのステデリク美術館に辿り着きます。

この本の65ページです。・・・・ステデリク美術館で、ゴッホの初期の作品を含めて、百数十点を一時に見ることができたときは、感嘆の声を放ち、満足の歓声をあげた。三十余年の短い生涯に、よくもこんなに立派な作品が、沢山出来たものだと思う。その色の美しさ、タッチの強さ、見れば見る程味が出て、迫って来るものがある。パリのルーブルの印象派の展覧会場でも、数多くある名作の中で、特に光って見えるのはゴッホの絵であるが、この傑出した絵が、ゴッホの生前には世の中から少しも顧みられず、彼は不遇の中に自殺したのである。

時世から一歩先んじた天才は、常に世に容れられないものである。悲しい現実であると考える。・・・・以下省略。

この伊澤教授の文章に強く同感する人は多いと信じています。

そこで以下にゴッホの絵を3点お送りいたします。

(ゴッホの絵の写真の出典は「ヴァーチャル絵画館」:http://art.pro.tok2.com/G/Gogh/Gogh.htm です。)

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・オランダの農村風景です。中世の昔から使われていた風車が丁寧に描いてあります。

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・上の跳ね上げ橋の絵は、構図が少し違うものが数枚あります。 陽の明るさが見る人の心をはずませます。

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・カフェテラスの真ん中の道の奥から一台の馬車がやって来る部分をご覧下さい。絵の奥深さが分かります。

伊澤孝平著、「そういう時代の旅と人」の中には数々の美術館の訪問記がありますが、ゴッホの絵画に一番感動した様子なのでここでご紹介いたしました。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

====参考資料:西村計雄画伯に関する情報===========

1909年6月29日、北海道小澤村(現・共和町小沢)に生まれる。父の久太郎は和菓子職人で、小沢駅前で弁当や「トンネル餅」を作って売っていた。幼少の頃より画家を志し、1929東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学、藤島武二教室にて学ぶ。同期には、岡本太郎や東山魁夷らがいる。

1938年、当時東京女子美術大学の学生だった文子(ふみこ)と結婚。三人の子宝に恵まれ、家族をテーマに多数の絵を描いた。戦後1949年から渡仏するまで早稲田中学校・高等学校の教師を勤める。その時の教え子に永六輔がいる。

1951年、42歳で単身渡仏。坂口謹一郎の計らいでピカソの画商カーンワイラーと出会い、それを契機に1953年よりパリを中心にヨーロッパ各地で個展を開催。作品は、フランス政府やパリ市が買い上げた。

1955年、長女・育代がパリへ行き、1961年には家族全員がパリに揃い生活を始める。1973年、作品「ヒロシマ」(300号)を広島市の平和記念館(現・広島平和記念資料館)に寄贈。1978年から沖縄平和祈念堂の連作「戦争と平和」に取りかかり、1979年2月9日に第1作「沖縄に熱き想いを」を献納。以後、8年の歳月を費やし300号の大作20点を作成した。その作品は平和祈念堂内全壁面に展示されている。1989年、当時の共和町長が故郷へのメッセージとしての絵画作品を正式依頼し、「ふるさと」(20号)を寄贈。

1999年11月1日、北海道共和町に「西村計雄記念美術館」が設置。のちに遺族から油彩画5,208点ほか、スケッチや愛用品などの遺品が共和町(美術館)に寄贈されている。

2000年12月4日、老衰のため東京のアトリエにて逝去。同月、共和町名誉町民として町葬が執行された。

===西村計雄記念美術館:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%91%E8%A8%88%E9%9B%84 ====