キリスト教の家々では今日から4週間のアドベント(待降節)に入ります。イエス様の誕生を待ちながら楽しい季節に入ります。
家々には針葉樹の枝で作った輪の上に4本のローソクを飾ります。
今日、その一本に火を灯し、毎週、1本ずつ火を灯します。クリスマスの前の日曜日に4本目のローソクに火を灯し、全てのローソクが点火されます。
それから12月1日から子供のいる家ではアドベントカレンダーという特別の暦を使います。
毎日、カレンダーの一部をめくると紙の裏が箱になっていてチョコレートやキャンディーが入っています。子供の為のアドベントカレンダーですね。下にドイツから輸入されたアドベントカレンダーを示します。
上のカレンダーでは毎日、めくる部分が薄い切れ込みが入っていて一個ずつチョコレートが出て来ます。合計24個のチョコレートが入っているカレンダーです。
子供を甘やかす家では、24日の間、大きなプレゼントを24個用意して豪華なアドベントカレンダーを手製して使います。その写真を下に示します。
このように子供のいる家庭では今日から毎日楽しい雰囲気がクリスマスまで続きます。
子供が育ってしまった老夫婦も自分達が子供の頃楽しかったアドベントを思い出して楽しいことをします。一緒に買い物に行ったり、外で食事をします。
今日からクリスマスまでは家庭的なほのぼのとした季節です。そして商店街が楽しげに飾ってあるのも良いものです。
どちらにしてもアドベントは季節の風物詩のようなものです。皆で楽しく過ごしましょう。
東日本大震災の復興も祈りながら明るい希望の灯に火をつけていきましょう!(終り)
伊澤孝平著、「そういう時代の旅と人」という本には現在の日本人が知らない驚くべき歴史的事実が書いてあるのです。
例えば戦後の朝鮮戦争の頃にアメリカ全土にソ連の原爆攻撃にそなえた防空壕を作ってあったという事実です。
朝鮮動乱で満州の国境まで攻め上げていったマッカーサー総司令官が原爆を満州へ投下し、中国領へ進撃すべしと盛んに主張していたのです。
そうすればソ連の参戦とアメリカ本土への原爆攻撃は当然な報復です。
そこでアメリカ全土に原爆攻撃にそなえた防空壕が作られていたのです。
挑戦動乱特需に浮かれていた日本人はこの冷厳な事実を知りませんでした。
伊澤孝平著、「そういう時代の旅と人」の32ページの文章を以下に抜粋します。
・・・・前文省略・・・なお別な意味で出あった驚きがある。それはサンフランシスコの交通量の多い駅の近辺に、防空壕が設けられていることであった。
又空爆かとぎょっとした。カリフォルニア大学の政治学の教授は、米ソ戦の必至を説いている由である。ひたすら平和を念願している私の目には、その防空壕の入口は、悪魔の口のように思われた。約一週間の後に、ハーバード大学本部の玄関に立った時、図解入りの原爆避難方法のポスターを見て、これではアメリカもいよいよ軍神にとりつかれたかなと思った。
ニューヨークのYMCAの地下室にも、避難所が設けられている。その他、枚挙にいとまがない程、この避難所が設けられていることを知った。ボストンの公園では、一ヶ月にわたり、B29その他の兵器を展覧して、民衆へ軍事思想を普及することに努めている。軍隊は街を練り歩いて示威している。軍国日本の拡大された姿のような気がする。・・・・以下省略します。
著者の伊澤孝平氏はアメリカの豊さに吃驚している一方では、冷徹にソ連と雌雄を決しようとしているアメリカ社会の世相を客観的に観察していたのです。これほど正確な報道は当時の日本のマスコミには皆無でした。学者としての公平な伊澤氏の観察に感服します。
この伊澤氏がアメリカに行く前にアメリカ軍はビキニ環礁で数々の原爆実験を成功させており、原爆の保有数も充分あったのです。下にそれに関する参考資料と原爆実験の写真を示します。
余談ながら私が1981年に中国の北京科学技術大学と瀋陽の東北工科大学を訪問したとき、それぞれの地下深くに広く立派な防空壕があったのです。
聞くと朝鮮動乱の時、アメリカが原爆攻撃をするというので、北京の中央政府の命令で地下深く作ったそうです。
こういう時、中国人は立派な料理場を作るので、その後は大学に来る客人へ自慢の中華料理を出して、接待場所に使っていました。
それにしても昭和25年からの数年間は原爆を用いた第三次世界大戦の危機をはらんだ緊張した時代だったのです。
日本人は生活に追われて、なりふり構わずに働いていたので外国のこんな事情を考えるゆとりも無かったのです。
この本の書かれた時期はそんな時代だったのです。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
写真の出典は、http://www.inspiration-gallery.net/2011/05/13/tested-nuclear-bombs-34/です。
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====参考資料:ビキニ環礁原爆実験================
ビキニ環礁で行なわれた最初の核実験は、1946年7月1日と7月25日のクロスロード作戦である。これは1945年のニューメキシコ、ヒロシマ、ナガサキに続く史上4番目と5番目の核爆発であった。 大小71隻の艦艇を標的とする原子爆弾の実験であり、連合国の艦艇のみならず、アメリカ軍が接収した日本海軍の戦艦長門、軽巡洋艦酒匂やドイツ海軍の重巡洋艦プリンツ・オイゲンなども標的となった。アメリカ海軍籍で標的となった主な艦艇は、戦艦ネバダ、アーカンソー、ニューヨーク、ペンシルベニア、空母サラトガなどである。
1946年7月1日の第一実験(ABLE、空中爆発/予定爆心地を大きくはずしてしまう)では、酒匂等5隻の小艦艇が沈没した。7月24日の第二実験(BAKER、水中爆発)では1600mの水柱が上がり、爆心地から200mの距離にあったアーカンソーが一瞬で爆沈し、サラトガが爆発後7時間で沈み、爆心地から1000mの距離にあった長門は数日間浮かび続けたものの同月29日から30日にかけての深夜に沈没し、合計8隻の艦船が沈没した。
以下、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%AD%E3%83%8B%E7%92%B0%E7%A4%81に続く。