地方の歴史を調べるのが趣味の人が多いようです。特に老境になると自分が住んでいる土地の歴史が知りたくなります。
以前、私がある地方の歴史を知りたくなったら、その土地の本屋さんを訪ねて本を探すことにしていました。地元の本屋さんには必ずのようにその土地の地方史の本を集めたコーナーがあったのです。
しかし最近はインターネット上に全国の地方、地方の歴史が非常に詳しく掲載されるようになりました。
ですから、ある地方の歴史を知るためには数多くの資料の中から精確で信頼出来る資料を選ぶのが非常に重要な仕事になります。
まず信頼できるのは各地の自治体の教育委員会が掲載している地方史の資料です。
しかしその一方で民間の歴史家が深く調べた上で、素人にも分かり易く明快に書いた地方史を探し当てることもあります。
先週、諏訪湖に旅をした折に高島城の写真を撮ってきました。
諏訪地方には、古事記より遥か昔に創建された出雲大社と同じ頃に作られた諏訪大社があります。
従って、私は諏訪大社と高島城の関係史に非常に興味が湧いたのです。
数日、インターネットでこの関係史を調べていたら実に明快で正確な資料を見つけたのです。それは「高島城をめぐる歴史と武将」と題する資料です。URLは、http://www.suwakanko.jp/point/takashimajo/shiru/index.html です。
今日はこの優れた資料にもとづいて「諏訪大社と高島城の関係史」を簡単にご説明したいと思います。
まず先週撮ってきた高島城の写真を5枚示します。家内が小雨の中走り回って撮った写真です。
この城は昔は諏訪湖の岸辺にあり、城の前は広大な諏訪湖だったのです。そんな風景を想像しながら写真をご覧下さい。
さて、この城と諏訪大社の関係の歴史を、「高島城をめぐる歴史と武将」という資料を抜粋しご紹介いたします。
(1)諏訪社と諏訪氏
『日本書紀』に持統天皇が勅使を派遣したという記事が残る諏訪社(現諏訪大社)は上社と下社があり、日本有数の古さを誇る神社です。その諏訪の神を祀る神官が平安時代に武士化して「諏訪氏」を名乗ったとされています。諏訪社の最高位である「大祝」は諏訪明神の依り代としてあがめられ、祭政一致の支配者として君臨しましたが、上社の大祝を務めたのが諏訪氏でした。鎌倉時代には執権北条氏の得宗被官として重用されたり、室町時代には信濃国の有力な国人領主として勢力を伸ばしました。また一族には京都で室町幕府の重要な役職を務めた人物もいます。
(2)諏訪氏の滅亡と武田氏
戦国時代、諏訪氏と武田氏は武田晴信(信玄)の妹を諏訪頼重の正室に迎えて関係を強化していましたが、父信虎を追放した晴信(信玄)が天文11年に突如諏訪に侵攻しました。諏訪頼重は抵抗するものの降伏し、甲府に送られて自害し諏訪氏は滅亡、諏訪は武田領となりました。天正10年、信玄の子勝頼が織田信長に敗れて武田氏が滅ぶと、今度は織田氏の領有となりますが、信長も本能寺の変で斃れます。
このとき頼重の叔父の子で、上社大祝だった諏訪頼忠が本能寺の変を聞いて蜂起した諏訪の旧臣に迎えられて諏訪氏を復活、織田氏の勢力を諏訪から追い払って諏訪を取り戻しました。
(3)日根野氏の高島城築城
諏訪支配を復活させた諏訪頼忠は武田氏滅亡後の信濃支配を狙う徳川、北条両氏に挟まれますが、最終的に徳川家康に帰順し、諏訪領有を安堵されました。しかし家康の関東国替えに伴って武蔵国奈良梨・羽生・蛭川(現埼玉県)へ、のちに上野国惣社(現群馬県)に移されました。
かわって諏訪の領主となったのが、豊臣秀吉の家臣・日根野高吉です。高吉は諏訪湖畔の高島を城地と定めて天正20年(文禄元年)頃から築城にとりかかり、慶長3年にはおおよそ完成したものと考えられています。
日根野高吉(ひねの たかよし)(?〜1600)は美濃国の生まれ。はじめ美濃斎藤家に仕えましたが、父弘就の代から織田家に仕えたのち、豊臣秀吉の部将となりました。小田原攻めの戦功により諏訪を与えられ、高島城を築城しました。関ヶ原の合戦の直前に死去し、慈雲寺(下諏訪町)に葬られました。
(4)諏訪氏の旧領復帰
日根野高吉は高島城を築城し、領内統治の仕組みを作るなど領主としての足固めを進めましたが、慶長5年関ヶ原の合戦直前に死去します。跡を継いだのは子の吉明ですが、翌年に下野国壬生に移されました。そのあと諏訪を与えられたのが諏訪頼忠の子でそのとき惣社の領主となっていた諏訪頼水です。頼水は高吉の築城した高島城に入り、ここに諏訪氏による諏訪統治が約60年ぶりに復活しました。以来10代忠礼のときに明治維新を迎えるまで変わることなく諏訪氏が諏訪の領主として続きました。
(5)明治の廃城と高島城復興
明治維新を迎え、旧支配体制の象徴である高島城は破却されることになりました。明治3年頃から城内の建物が順次払い下げられ、天守も明治8年に取り壊されました。破却後、本丸跡が「高島公園」として開放されましたが、それ以外は市街地化していきました。昭和45年、市民の熱意によって天守が外観復元され、門や櫓などもあわせて復興されました。
以上を要約すると高島城は諏訪地方を治めていた諏訪大社の神官だった諏訪氏が明治維新まで城主として君臨していたという歴史が分かります。諏訪大社の神を祀る神官が平安時代に武士化して「諏訪氏」を名乗ったのです。
今回示したような高島城は豊臣秀吉の家臣・日根野高吉が慶長3年、1598年に建てたものです。
この前に武田信玄が諏訪を攻め自分の領地にしましたが、間もなく信玄一族は滅亡したのです。
なお写真に示した高島城は明治維新で破壊される前の写真にもとづいて昭和45年に復元されたものです。破却前の天守の写真は明治4年 に竹田凍湖によって撮影され今でも残っています。
勇壮な御柱祭りで運び込み諏訪大社の境内に立っている巨大な御柱は縄文時代の宗教の崇拝の対象だったと言われ、大変興味深いものです。
今日は諏訪地方の歴史を簡略にご紹介いたしました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
以前、私がある地方の歴史を知りたくなったら、その土地の本屋さんを訪ねて本を探すことにしていました。地元の本屋さんには必ずのようにその土地の地方史の本を集めたコーナーがあったのです。
しかし最近はインターネット上に全国の地方、地方の歴史が非常に詳しく掲載されるようになりました。
ですから、ある地方の歴史を知るためには数多くの資料の中から精確で信頼出来る資料を選ぶのが非常に重要な仕事になります。
まず信頼できるのは各地の自治体の教育委員会が掲載している地方史の資料です。
しかしその一方で民間の歴史家が深く調べた上で、素人にも分かり易く明快に書いた地方史を探し当てることもあります。
先週、諏訪湖に旅をした折に高島城の写真を撮ってきました。
諏訪地方には、古事記より遥か昔に創建された出雲大社と同じ頃に作られた諏訪大社があります。
従って、私は諏訪大社と高島城の関係史に非常に興味が湧いたのです。
数日、インターネットでこの関係史を調べていたら実に明快で正確な資料を見つけたのです。それは「高島城をめぐる歴史と武将」と題する資料です。URLは、http://www.suwakanko.jp/point/takashimajo/shiru/index.html です。
今日はこの優れた資料にもとづいて「諏訪大社と高島城の関係史」を簡単にご説明したいと思います。
まず先週撮ってきた高島城の写真を5枚示します。家内が小雨の中走り回って撮った写真です。
この城は昔は諏訪湖の岸辺にあり、城の前は広大な諏訪湖だったのです。そんな風景を想像しながら写真をご覧下さい。
さて、この城と諏訪大社の関係の歴史を、「高島城をめぐる歴史と武将」という資料を抜粋しご紹介いたします。
(1)諏訪社と諏訪氏
『日本書紀』に持統天皇が勅使を派遣したという記事が残る諏訪社(現諏訪大社)は上社と下社があり、日本有数の古さを誇る神社です。その諏訪の神を祀る神官が平安時代に武士化して「諏訪氏」を名乗ったとされています。諏訪社の最高位である「大祝」は諏訪明神の依り代としてあがめられ、祭政一致の支配者として君臨しましたが、上社の大祝を務めたのが諏訪氏でした。鎌倉時代には執権北条氏の得宗被官として重用されたり、室町時代には信濃国の有力な国人領主として勢力を伸ばしました。また一族には京都で室町幕府の重要な役職を務めた人物もいます。
(2)諏訪氏の滅亡と武田氏
戦国時代、諏訪氏と武田氏は武田晴信(信玄)の妹を諏訪頼重の正室に迎えて関係を強化していましたが、父信虎を追放した晴信(信玄)が天文11年に突如諏訪に侵攻しました。諏訪頼重は抵抗するものの降伏し、甲府に送られて自害し諏訪氏は滅亡、諏訪は武田領となりました。天正10年、信玄の子勝頼が織田信長に敗れて武田氏が滅ぶと、今度は織田氏の領有となりますが、信長も本能寺の変で斃れます。
このとき頼重の叔父の子で、上社大祝だった諏訪頼忠が本能寺の変を聞いて蜂起した諏訪の旧臣に迎えられて諏訪氏を復活、織田氏の勢力を諏訪から追い払って諏訪を取り戻しました。
(3)日根野氏の高島城築城
諏訪支配を復活させた諏訪頼忠は武田氏滅亡後の信濃支配を狙う徳川、北条両氏に挟まれますが、最終的に徳川家康に帰順し、諏訪領有を安堵されました。しかし家康の関東国替えに伴って武蔵国奈良梨・羽生・蛭川(現埼玉県)へ、のちに上野国惣社(現群馬県)に移されました。
かわって諏訪の領主となったのが、豊臣秀吉の家臣・日根野高吉です。高吉は諏訪湖畔の高島を城地と定めて天正20年(文禄元年)頃から築城にとりかかり、慶長3年にはおおよそ完成したものと考えられています。
日根野高吉(ひねの たかよし)(?〜1600)は美濃国の生まれ。はじめ美濃斎藤家に仕えましたが、父弘就の代から織田家に仕えたのち、豊臣秀吉の部将となりました。小田原攻めの戦功により諏訪を与えられ、高島城を築城しました。関ヶ原の合戦の直前に死去し、慈雲寺(下諏訪町)に葬られました。
(4)諏訪氏の旧領復帰
日根野高吉は高島城を築城し、領内統治の仕組みを作るなど領主としての足固めを進めましたが、慶長5年関ヶ原の合戦直前に死去します。跡を継いだのは子の吉明ですが、翌年に下野国壬生に移されました。そのあと諏訪を与えられたのが諏訪頼忠の子でそのとき惣社の領主となっていた諏訪頼水です。頼水は高吉の築城した高島城に入り、ここに諏訪氏による諏訪統治が約60年ぶりに復活しました。以来10代忠礼のときに明治維新を迎えるまで変わることなく諏訪氏が諏訪の領主として続きました。
(5)明治の廃城と高島城復興
明治維新を迎え、旧支配体制の象徴である高島城は破却されることになりました。明治3年頃から城内の建物が順次払い下げられ、天守も明治8年に取り壊されました。破却後、本丸跡が「高島公園」として開放されましたが、それ以外は市街地化していきました。昭和45年、市民の熱意によって天守が外観復元され、門や櫓などもあわせて復興されました。
以上を要約すると高島城は諏訪地方を治めていた諏訪大社の神官だった諏訪氏が明治維新まで城主として君臨していたという歴史が分かります。諏訪大社の神を祀る神官が平安時代に武士化して「諏訪氏」を名乗ったのです。
今回示したような高島城は豊臣秀吉の家臣・日根野高吉が慶長3年、1598年に建てたものです。
この前に武田信玄が諏訪を攻め自分の領地にしましたが、間もなく信玄一族は滅亡したのです。
なお写真に示した高島城は明治維新で破壊される前の写真にもとづいて昭和45年に復元されたものです。破却前の天守の写真は明治4年 に竹田凍湖によって撮影され今でも残っています。
勇壮な御柱祭りで運び込み諏訪大社の境内に立っている巨大な御柱は縄文時代の宗教の崇拝の対象だったと言われ、大変興味深いものです。
今日は諏訪地方の歴史を簡略にご紹介いたしました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)