インターネットに記事を書く時は、まず面白い写真を出します。それを見た方が写真についてもっと知りたいと思ったら私は幸せになります。その写真を撮ったときの楽しい思い出を書くことが出来るからです。
そんな訳で今日はまず横浜に係留されている帆船日本丸の写真を示します。

1番目の写真は29枚の帆の全てを上げた日本丸を後ろから見た写真です。丁度10年前の2008年の4月27日に撮りました。

2番目の写真は数多くの帆の形が分るように撮った写真です。右側の三角形の帆は船が風上に上るための帆です。

3番目の写真は総帆展帆した日本丸を前から撮った写真です。
さて皆様と一緒にこの帆船で太平洋を横断する航海に出てみましょう。
案内してくれるのは船長の大西典一船長ともと大型船の船長をしていた大河原明徳さんです。

4番目の写真は2008年当時、帆船日本丸の船長をしていた大西典一船長です。以下に書くことは全て彼から直接聞いたことです。

5番目の写真は昔このような帆船で訓練を受け、日本郵船KKの大型船の船長や水先案内人をしていた大河原明徳さんです。
さて、これから皆様は訓練生になったつもりで太平洋の航海に出てみましょう。紙上のバーチャル航海ですから危険はありません。
横浜港をある年の5月1日に出港します。はじめはエンジンで航海します。東京湾を池貝鉄工所製、600馬力2基4サイクルジーゼルエンジンで機走します。
三浦半島を右手に見て、東京湾を出ます。その先には帆走にとって邪魔な伊豆諸島があります。これをかわして、広い外洋に出てから帆走を始めるのです。

6番目の写真は日本丸の左舷の甲板の様子です。

7番目の写真は大西船長が握る舵輪です。舵輪の後ろ側に立って帆を見上げながら操船します。舵輪の前には大きな羅針盤があり、それを見ながら船の方向を決めます。
4本のマストにはそれぞれ航海士を1人ずつ配置し、訓練生を20人ずつ配置します。
航海中はジガーマスト天辺の風向・風速計を見上げ風向きと風速を確かめるのです。
外洋なので大波がうねっていますが、5月の風はしっかりと安定した西南の風が普通です。
「全員、マストへ登り、セイルを解け!」、号令が士官から士官、そして訓練生へと伝達されると、訓練生が揺れる帆柱へましらのようにのぼりヤードに縛り付けてあった全ての帆を解きます。
「全員、マストから降りろ!」、船長の号令で全員甲板へ戻る。船長はヤレヤレ一番危険な仕事が無事終わったと思います。
「アウター・ジブとスパンカーを上げろ!」、号令が気持ち良く訓練生へ届き、日ごろの訓練通り帆が上がる。あとは船の姿勢を調整しながら太平洋を航海するのです。
航路の北太平洋は荒天が続くので、3本のマストの先端のセールのロイヤル・セールは上げないでシアトルまで帆走するのが普通だそうです。
ヤードの向きを調整し、追い風一杯で、快調に帆走を始まる頃は銚子沖東100km位に来ています。
うるさいジーゼルエンジンを止め、帆走に入ります。大波で船が心地よく上下します。
東北へのぼり、荒天域に入ります。これでシアトルまで40日間の帆走が始まるのです。
何日かすると訓練生が、「船長殿、質問があります。何故、こう毎日雨なのですか? 晴天域は走らないのですか?」と不満そうに聞くそうです。
船長が答える、「低気圧のそばへ船をもって行って、何時も強い追い風を捉えて走るのが大型帆船の正しい走り方なのだ。帰りは南太平洋を渡りハワイへ寄るからそれまで辛抱しなけらばいけない!」
「成程分かりました!船長殿」
大型帆船の旅とはこういうものなのです。
帆船日本丸は、姉妹船海王丸とともに昭和3年の第55帝国議会で予算案が可決し、英国のリース市のラメージ&ファーガソン社へ発注された。
ラメージ&ファーガソン社は設計と鋼材の切り出しと部品の調達を行い、全て日本へ輸送し、組み立ては 神戸川崎造船所で行った。昭和5年3月31日に竣工・引渡しが完了した。
すべての部品は鋼材に至るまで英国製であり、初めの帆走や操舵技術は英国人教官の直接指導によったと言われています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
そんな訳で今日はまず横浜に係留されている帆船日本丸の写真を示します。

1番目の写真は29枚の帆の全てを上げた日本丸を後ろから見た写真です。丁度10年前の2008年の4月27日に撮りました。

2番目の写真は数多くの帆の形が分るように撮った写真です。右側の三角形の帆は船が風上に上るための帆です。

3番目の写真は総帆展帆した日本丸を前から撮った写真です。
さて皆様と一緒にこの帆船で太平洋を横断する航海に出てみましょう。
案内してくれるのは船長の大西典一船長ともと大型船の船長をしていた大河原明徳さんです。

4番目の写真は2008年当時、帆船日本丸の船長をしていた大西典一船長です。以下に書くことは全て彼から直接聞いたことです。

5番目の写真は昔このような帆船で訓練を受け、日本郵船KKの大型船の船長や水先案内人をしていた大河原明徳さんです。
さて、これから皆様は訓練生になったつもりで太平洋の航海に出てみましょう。紙上のバーチャル航海ですから危険はありません。
横浜港をある年の5月1日に出港します。はじめはエンジンで航海します。東京湾を池貝鉄工所製、600馬力2基4サイクルジーゼルエンジンで機走します。
三浦半島を右手に見て、東京湾を出ます。その先には帆走にとって邪魔な伊豆諸島があります。これをかわして、広い外洋に出てから帆走を始めるのです。

6番目の写真は日本丸の左舷の甲板の様子です。

7番目の写真は大西船長が握る舵輪です。舵輪の後ろ側に立って帆を見上げながら操船します。舵輪の前には大きな羅針盤があり、それを見ながら船の方向を決めます。
4本のマストにはそれぞれ航海士を1人ずつ配置し、訓練生を20人ずつ配置します。
航海中はジガーマスト天辺の風向・風速計を見上げ風向きと風速を確かめるのです。
外洋なので大波がうねっていますが、5月の風はしっかりと安定した西南の風が普通です。
「全員、マストへ登り、セイルを解け!」、号令が士官から士官、そして訓練生へと伝達されると、訓練生が揺れる帆柱へましらのようにのぼりヤードに縛り付けてあった全ての帆を解きます。
「全員、マストから降りろ!」、船長の号令で全員甲板へ戻る。船長はヤレヤレ一番危険な仕事が無事終わったと思います。
「アウター・ジブとスパンカーを上げろ!」、号令が気持ち良く訓練生へ届き、日ごろの訓練通り帆が上がる。あとは船の姿勢を調整しながら太平洋を航海するのです。
航路の北太平洋は荒天が続くので、3本のマストの先端のセールのロイヤル・セールは上げないでシアトルまで帆走するのが普通だそうです。
ヤードの向きを調整し、追い風一杯で、快調に帆走を始まる頃は銚子沖東100km位に来ています。
うるさいジーゼルエンジンを止め、帆走に入ります。大波で船が心地よく上下します。
東北へのぼり、荒天域に入ります。これでシアトルまで40日間の帆走が始まるのです。
何日かすると訓練生が、「船長殿、質問があります。何故、こう毎日雨なのですか? 晴天域は走らないのですか?」と不満そうに聞くそうです。
船長が答える、「低気圧のそばへ船をもって行って、何時も強い追い風を捉えて走るのが大型帆船の正しい走り方なのだ。帰りは南太平洋を渡りハワイへ寄るからそれまで辛抱しなけらばいけない!」
「成程分かりました!船長殿」
大型帆船の旅とはこういうものなのです。
帆船日本丸は、姉妹船海王丸とともに昭和3年の第55帝国議会で予算案が可決し、英国のリース市のラメージ&ファーガソン社へ発注された。
ラメージ&ファーガソン社は設計と鋼材の切り出しと部品の調達を行い、全て日本へ輸送し、組み立ては 神戸川崎造船所で行った。昭和5年3月31日に竣工・引渡しが完了した。
すべての部品は鋼材に至るまで英国製であり、初めの帆走や操舵技術は英国人教官の直接指導によったと言われています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)