後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日の実に楽しいニュースと暗いニュース

2018年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は実に楽しいニュースと暗いニュースを一つずつご紹介します。
皆様は小学校5年生(11歳)福地啓介君がセロゲームの世界チャンピオンになったという微笑ましいニュースをご存知と思います。
それまでの最年少チャンピオンは1982年に15歳でチャンピオンになった谷田邦彦君でした。彼はその後、大型旅客機の機長になって働いていました。
この谷田邦彦さんが操縦する旅客機に新しいチャンピオンの福地啓介君が乗ってヨーロッパから帰って来たのです。
その時、谷田邦彦機長がアナンスで新しいチャンピオンの福地啓介君がこの飛行機に乗っていることを告げたのです。そうして機長自身は1982年以来、世界の最年少チャンピオンだったことも報告したのです。
何と微笑ましいニュースではありませんか!  以下にこのニュースを示します。

「オセロ優勝者に前記録保持者の機長がサプライズ」
2018年10月16日、https://www.yomiuri.co.jp/national/20181016-OYT1T50090.html
 チェコで開催された第42回世界オセロ選手権で最年少優勝記録を更新した小学5年福地啓介君(11)に、帰国便の全日本空輸(ANA)がサプライズ祝福し、話題になっている。
 福地君の帰路の経由地のドイツ・デュッセルドルフ空港で、「オセロの世界チャンピオンに、この飛行機をご利用いただいています」との機内アナウンスが流れた。
声の主は機長の谷田邦彦さん(51)。
谷田さんは、こう続けた。「以前の記録は私自身が1982年に打ち立てた15歳という記録。今回、大幅な更新。快挙でございます」
 谷田さんは1982年の第6回世界大会で15歳で優勝。これまでの記録保持者だった。
福地さんは12日までチェコの首都プラハで開かれていた第42回大会で優勝し、この便で帰国の途にあった。
一般社団法人日本オセロ連盟によると、1982年の第6回大会の優勝者は15歳の谷田邦彦さんだった。
ANAの広報担当者は「福地君と日本選手団が乗るのを知り、前のチャンピオンの谷田機長を配置しました。アナウンスは本人の機転」と話した。機内の様子はツイッター上で紹介され、「いい瞬間に立ち会う事ができました」といった乗客らの反響が広がっている。

1番目の写真は小学5年福地啓介君(11歳)と51歳の機長の谷田邦彦さんの写真です。
それにしても何故日本の少年がオセロに強いのでしょうか?日本には昔からハサミ将棋があるからでしょうか?
オセロゲームは日本人が考え出したゲームだからでしょうか。
余談ながらオセロをすると妻が勝ってしまうので私は悔しいのでハサミ将棋もオセロもしないことにしています。

次のニュースは暗く奥深いニュースです。
絶対王政のサウジアラビアの反体制記者がトルコにあるサウジアラビアの大使館内で殺されたというニュースです。これはイスラム教国には人権も報道の自由も無いことを公に示した重大なニュースです。
欧米のマスコミは大騒ぎをしていますが、例によって人権意識の弱い日本では詳しくは報道されていません。

以下の報道で注目すべきことが二つあります。
1、サウジアラビア当局者の一団が館内に入った約1時間後に、トルコの捜査員たちが中に入ったのです。
これはサウジアラビア当局者が証拠物件を持ち去ったことを暗示しています。
2、トランプ大統領はサウジアラビアのサルマン国王をかばい、サウジアラビア人記者は「行きずりの殺し屋」に殺害されたのではないかと述べた というご粗末な発表をしていることです。サウジアラビアの大使館内へ「行きずりの殺し屋」がどうやって入れたのでしょうか?
ご粗末な発表です。日本のマスコミはこの2点を詳しく報道していません。

「サウジ、記者死亡認める準備か=トルコの総領事館捜索」
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018101600829&g=int
 CNNが複数の関係筋の話として報じたところによれば、サウジ当局はカショギ氏をトルコ国外に連れ去ろうとしていた。総領事館内で誤った形での尋問が行われ、死亡させてしまったという趣旨の報告書を準備しているという。
ウォール・ストリート・ジャーナル紙も「サウジは誤って殺害したという声明を出すことを検討している」と報じた。
 トルコ警察は15日から16日にかけ、総領事館の捜索を行った。
ロイター通信によると、エルドアン大統領は16日、捜索では有毒物質などを探したものの「上から塗装され、消されてしまっていた」と述べた。今後、領事公邸でも捜索が行われるという。

2番目の写真は15日、トルコ・イスタンブールのサウジアラビア総領事館に到着したトルコ捜査当局(AFP時事)の一行でし。トルコ捜査当局はサウジアラビアの捜査員が入った1時間の後に入館が許されたのです。

 カショギ氏は、ワシントン・ポスト紙のコラムニストとしてサウジ政府を批判してきた。ポスト紙は、サウジのムハンマド皇太子がカショギ氏の拘束作戦を命じていたと報じていた。
 (2018/10/16)

もう一つ関連の報道を示します。

「サウジ記者「殺害」疑惑、トランプ氏は「行きずりの殺し屋」のせいではないかと」
2018年10月16日、https://www.bbc.com/japanese/45872374

トランプ米大統領は、失踪のサウジアラビア人記者は「行きずりの殺し屋」に殺害されたのではないかと述べた
サウジアラビア政府に批判的だった同国の著名記者が殺害されたのではないかという問題で、トランプ米大統領は15日、「行きずりの殺し屋」のせいではないかと発言した。
サウジアラビアのサルマン国王と電話会談後に記者団を前にしたトランプ大統領は、カショジ記者がなぜ行方不明になったかについて国王はまったく何も知らないと断言したことを明らかにした。
トランプ大統領は記者団の質問に答えるなか、サルマン国王は「非常に強く断固として」何も知らないことを強調したと述べた。
「どうやら行きずりの殺し屋じゃないかという感じが、僕にはした。誰にも分からないよ」と大統領は述べたが、発言の根拠は示さなかった。
サウジ当局の当初の目的はカショジ記者の拉致だったが、尋問中に死なせてしまったのだという。
15日午後にはトルコの鑑識捜査員がサウジアラビア総領事館の中に入った。
カショジ記者が失踪して以来、トルコの捜査員が総領事館内に入るのは初めて。サウジアラビア当局者の一団が館内に入った約1時間後に、トルコの捜査員たちが中に入った。


3番目の写真はサウジアラビアのメッカのカアバ神殿です。
サウジアラビアは国際人権規約(自由権、社会権)に批准しておらず、厳格にシャリーアを執行する姿勢に対して、欧米諸国から批判が何度もなされて来ました。
しかし、批判国に対する石油輸出停止などの経済制裁がたびたび実行されているため、これらの報復を恐れて国交断絶や経済制裁などを発動する先進国は皆無となっているのです。
また中東有数の親米国家であることから、アメリカ合衆国は、アメリカ中央軍の部隊を駐留させて中東の反米諸国を牽制している事情もあって、トランプ大統領はサルマン国王をかばうのです。奥深い困った問題なのです。

兎に角、イスラム教の国々での人権侵害は憂慮に堪えません。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


親の墓が遠くにあり墓参りの出来ない方々のために

2018年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様のご両親のお墓や先祖の墓は遠方でしょうか?
今日は遠方で毎年は墓参りに行けない方々の為に、墓参りに代わる方法をご説明したいと思います。
その方法は簡単です。親や先祖のお墓のあるお寺の宗派と同じ近くのお寺に参るのです。
そしてそのお寺のご本尊さまに親や先祖の冥福をお祈りするのです。本堂の前の賽銭箱へ少し供養料を入れます。後は境内を静かに歩きながら故人の思い出を偲びます。
昨日の午後、私どもも墓参りの代わりに近くの府中市にある曹洞宗の高安寺の寺参りに行って来ました。
そのことを写真に従ってご説明いたします。

私の両親の墓は仙台市にあります。祖父の墓は兵庫県にあります。遠くにあるので墓参りが困難です。
祖父は兵庫県の曹洞宗の正林寺の住職でした。父も大学の定年後、島根県の曹洞宗の宗安寺の住職になりました。弟も大学定年後、宗安寺の住職になりました。そんな関係で両親や祖父の墓参りに行けない時は近くの曹洞宗の高安寺にお参りに行きます。それは年中行事のようになっています。
私どもの寺参りの様子を昨日撮って来た写真に従ってご説明します。

1番目の写真は府中市の高安寺の参道にある釈迦牟尼仏です。両手を合わせて拝みます。

2番目の写真は高安寺の本堂の前にある楼門です。明治5年(1872年)に建てられ、左右に仁王像を配する山門で東京都選定歴史的建造物です。

3番目の写真は楼門と本堂の間に立っている曹洞宗を始めた道元さまの像です。このお寺の住職さんの偉いところは道元さまへ常に花を供えていることです。何時行っても造花でない美しい活きた花を供えています。手を合わせて拝みます。

4番目の写真は本堂の写真です。現在の本堂は215年前の享和3年(1803年)に再建したものです。本堂正面には「等持院」の扁額がありますが、これは開基となった足利尊氏の法名の一部です。本堂も東京都選定歴史的建造物になっています。

5番目の写真は本堂の中の須弥壇の写真です。曹洞宗のお寺のご本尊様は釈迦牟尼仏となっています。
このご本尊に親、祖父母、先祖の冥福を祈って来ました。

6番目の写真は無縁佛の墓を集めた集合墓です。無縁仏の墓とは江戸時代の墓が多く、子孫がもう墓参りに来なくなって縁が切れてしまった墓です。古いお寺には必ず無縁佛の墓を集めた集合墓があります。私は必ず無縁仏の墓を拝みます。住職さんが無縁になった墓も大切にしているのが嬉しいのです。自分の親や先祖の墓もいずれはこの世と縁が切れて無縁の墓になるのです。

7番目の写真は高安寺の墓地の風景です。お寺に参ると必ず墓地を静かに散歩しながら故人を偲びます。昨日は墓参りに来ていた2組の人に会いました。墓参りに来て偉いなあと考えていましたら挨拶をしてくれました。
これで私の墓参りの代わりの寺参りの終わりです。
ご両親のお墓や先祖の墓が遠方過ぎて墓参りになかなか行けない方々のご参考になれば嬉しく存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===高安寺の歴史===========================
この高安寺の特徴は時代、地代の戦の軍事拠点として使われてきた歴史にあります。
以下に、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%89%E5%AF%BA からの抜粋をお送りします。
・・・このお寺は平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山見性寺に改めたのが始まりとされる。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの寺に立ち寄って武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われている。ここは武蔵国府の近くにあり国衙荒廃後にはここが重要拠点と見なされるようになり、南北朝時代には、新田義貞が分倍河原の合戦で本陣を構えている。これら一連の戦乱によって寺が炎上するなどして見性寺は荒廃してしまった。

そこで暦応年間(北朝、1340年前後)に入ると、足利尊氏が建長寺の大徹禅師を開山として招き臨済宗の禅寺に改めて再興した。この際、尊氏が進めていた安国寺の一つとしてこの寺を位置づけ、名称も尊氏の旧名(高氏)から龍門山高安護国禅寺と命名された。これによって高安寺は室町幕府の保護を手厚く受けて、一時は塔頭10・末寺75と称されるほどの大寺院となった。

だが、それは同時に室町幕府足利氏、あるいはその指揮下にあるとされた鎌倉公方の影響力を深く受ける事となり、軍事拠点としての色彩を帯びる事となった。永徳元年/弘和元年(1381年)には小山義政討伐に向かう第2代鎌倉公方足利氏満が、続いて応永6年(1399年)には応永の乱に呼応して将軍足利義満打倒を図ろうとした第3代鎌倉公方足利満兼が、それぞれ高安寺に陣を置いている。

この状況は第4代鎌倉公方足利持氏の代にも変わらず、応永30年(1423年)に常陸国の小栗満重討伐の帰途に高安寺に入りここに仮の政庁を置いた。だが、翌年には失火による焼失を招いてしまい、再建を行う事になった。そして永享11年(1438年)には関東管領上杉憲実討伐のために持氏が再び高安寺に陣を構えた。ところが、持氏の反幕府的姿勢に業を煮やしていた当時の将軍足利義教が持氏討伐を命じた事を知り急遽鎌倉に引き揚げる事になると、時は既に遅く鎌倉は陥落して持氏は滅亡する事になった(永享の乱)。

逆に康正元年(1455年)に行われた再度の分倍河原の合戦(享徳の乱の緒戦)では、第5代鎌倉公方足利成氏が籠もる高安寺に攻め寄せた上杉軍を成氏が打ち破っている。

その後もその地政学的条件から上杉氏・後北条氏などによって軍事的に利用される事も多く、度々の戦乱で衰退・荒廃した。江戸時代初期には海禅寺(現在の青梅市)の末寺に入り、宗派も曹洞宗と改めた。

現在の本堂は寛永元年(1624年)に火災に遭い消失したものを享和3年(1803年)に再建したもの。本堂正面には「等持院」の扁額があり、これは開基となった足利尊氏の法嗣名である。明治5年(1872年)に建てられ左右に仁王像を配する山門、安政3年(1856年)に建てられた鐘楼と共に東京都選定歴史的建造物に選定されている。・・・

それにしても昔は国内で何度も戦があったものですね。お寺は大きい建物だので多くの武士が寝泊まり出来たので何度も利用されたのです。
日本に内戦が無くなり平和な時代が続くようになって本当に幸せです。

日本民族の誇り、聖徳太子と弘法大師の虚構

2018年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム
世界中にはいろいろな民族が住んでいます。そしてぞれぞれの民族文化を誇りに思っています。各民族には誇りにしている偉人や聖人もいます。
さて日本民族が誇りに思う過去の人は誰でしょう?信長や秀吉でしょうか?
沢山いますが、今日は聖徳太子とと弘法大師を取り上げてみます。

2018年10月12日に「聖徳太子はいなかった!教科書の大間違い!」という記事を掲載しました。そうしたら聖徳太子はいなかったという歴史学者の学説は間違っているという趣旨の反論を沢山頂きました。
反論を下さった方々は聖徳太子を尊敬し、民族の誇りと信じているようです。
自分が尊敬している人をそんなに簡単に虚構だったと言われたら誰でも不愉快に思います。怒ります。その感情に寄り添いながら、もう一度、教科書のどの部分が虚偽であったか明快に説明したいと思います。
どうぞ聖徳太子を尊敬し、民族の誇りと信じている方々も心静かに以下をお読みください。

(1)聖徳太子という尊称は「厩戸皇子」という名前で呼ばれていた人の死後50年たってから天武天皇が送った尊称です。
聖徳太子のモデルになった人物が実在していたのですで「聖徳太子は居た」と信じたい人が居ても良いのです。

(2)しかし昔の教科書に書いてあった「聖徳太子の数々の偉業」は殆ど全て事実ではないのです。
厩戸王(574~622)は飛鳥時代の政治家です。用明天皇の皇子として誕生しました。
しかし「憲法十七条」や「冠位十二階」、「遣隋使の派遣」などを成し遂げた偉大な人物ではなかったのです。
例えば小野妹子で有名な607年の遣隋使の派遣はが最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されているのです。その上、遣隋使に関しても、厩戸王の主体的関与の証拠は見つかっていないのです。

(3)昔の教科書の間違っている部分
1、 冠位十二階は「多くの人物」の手による合作でした。厩戸王の部分的な関与があったかも知れません。
2、憲法十七条は厩戸王よりも後の時代に完成しているのです。厩戸王が作ったという記述は間違いです。
3、遣隋使は小野妹子より以前から派遣されていたのです。厩戸王が始めたという記述は間違いです。
4、その他、厩戸王自身の実績とは直接関係ない功績が書きてある昔の教科書は間違いであったのです。
例えば、「一度に民衆十人の訴えをお聞きになって、それぞれに明快な判断をお下しになった」と我々が教わってきた事は常識的に虚偽に決まっています。

結論は、聖徳太子のモデルになった政治家は実在してたが、 冠位十二階や憲法十七条や遣隋使の派遣などを行ってはいないのです。これは明々白々です。
さらに驚くことは従来、紙幣に使われたいた聖徳太子の肖像画は別人と判明したのです。
http://historivia.com/cat3/prince_shotoku/3442/

さて聖徳太子を聖人としている人々も沢山います。太子堂というお堂に聖徳太子を祀り信仰する太子信仰の宗教も古くからありました。それを信じている人々にとっては昔の教科書どうり永遠に信じていれば良いのです。
私はそれを非難する意図は皆無です。
何故なら宗教には奇跡物語が非常に重要だからです。

一つの例だけを上げます。弘法大師信仰の場合です。

弘法大師は、空海とも呼ばれ、高野山の真言宗を開いた方です。民衆の救済を非常に大切にし、現在風に言えば民衆に対する愛が溢れていた方です。
弘法大師さまは諸国を巡って人々の苦悩を解決し、農業用の溜池を作り、文化の恩恵を受けない大衆のために、綜芸種智院という学校を開かれ、民衆の教育につとめたのです。
私は昔から温泉が好きで、数多くの温泉を訪れました。そうすると幾つかの温泉では、弘法大師が杖を突いたら湯が出て来たと言うのです。それは不思議な奇蹟です。嘘に決まっています。
弘法大師の真言宗では護摩を焚いたり加持祈祷をします。源氏物語には出産や病気の時、祈祷専門の僧を呼んで安産や病気平癒を祈祷したと書いてあります。
しかし病気など直る筈がありません。
現在、空海の始めた真言宗の信徒は、高野山真言宗:548万人、真言宗智山派:153万人、真言宗豊山派:120万人、真言宗醍醐派:56万人、合計約900万人もいるのです。現在、全国にはお大師さまを祀ったお寺が沢山あります。
この事実は宗教の信仰には奇蹟が重要な役割をしていることを明確に示しているのです。
ですから聖徳太子を信仰の対象にする場合は昔の教科書を真実として信じて良いのです。
私は聖徳太子を信仰の対象にはしていませんが尊敬していました。その人は実は居なかったということはショックでした。残念です。

今日の挿し絵代わりの写真は秋の野に咲く花々の写真です。近所で撮りました。


それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)











「今日は 成城教会の山本量太郎司祭のミサに行った」

2018年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は小金井教会ではなく、カトリック成城教会のミサに行きました。
成城教会の山本量太郎主任司祭が司式なさるミサに参加するためです。
山本神父さまは個人的にご縁の深い方です。尊敬している素晴らしい神父さまです。
神父さまは私共がカトリック立川教会で塚本金明神父様に洗礼を受けた時、代父をして下さった山本大二郎先生のご子息だったのです。当時はまだ神学生でした。
その後、関口教会で山本神父さまの叙階式に参列したことを鮮明に憶えています。
叙階式の後しばらくご無沙汰していましところ、2000年に突然私どもの小金井教会の主任司祭として来られたのです。
その時は本当に嬉しく、そして不思議なご縁に感動しました。
2000年から2010年迄の10年間、私共の小金井教会の主任司祭をして大変お世話になったのです。
イエスさまが傍にいるような感じになる説教をなさいます。起承転結の明快な感動深い説教です。そして私どもが神に愛されている、イエスさまに愛されていることを感じさせる力強い説教なのです。
2010年に小金井教会を去られたときは非常に淋しく感じたものです。
小金井教会の後、本部の関口教会の主任司祭を6年なさってから2016年の6月から成城教会に着任されました。今日お眼に掛かってとてもお元気そうなので嬉しく感じました。

今日は成城教会の山本神父が司式するミサに出席して、恩人の塚本金明神父様や、代父をして下さった山本大二郎先生の為にも神に祈って来ました。
人生における人間の絆の有難さを想います。
そして神様の愛を今日も強く感じました。
写真は今日のカトリック成城教会のミサの風景です。









これでウクライナがロシアから完全に独立した!

2018年10月14日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の読売新聞にウクライナ正教会がプーチン大統領の支援を受けているロシア正教会の傘下から離れ、独立したというニュースが出ていました。
私は個人的にウクライナと細い糸のようなご縁があるので、そのご縁を書いてみます。

新聞によると東方正教会の筆頭格のコンスタンチノーブル総主教庁がウクライナ正教会の独立を承認したのです。
日本の正教会は日露戦争の後、ロシア正教会の傘下から離れ日本正教会として独立しました。神田のニコライ堂が日本の本部です。
それはさておき今回のウクライナ正教会の独立に対してプーチン大統領は猛反発しているそうです。ウクライナのクレミア半島のロシアによる接収以来、プーチン政権とウクライナは厳しい対立が続いていたのです。
今回のウクライナ正教会の独立はウクライナのロシアからの決別です。ウクライナは名実共に独立国家になったのです。
東方教会の信者は2億人以上です。ロシアもウクライナも人口の7割以上が正教会の信者です。
私はカトリックですが正教会に以前から親近感を持っていました。
それで2009年には何度かニコライ堂を訪れ、そこで伝教師の金田一豊さんに親切にして貰ったことがあります。
初めて礼拝式(聖体礼儀という)に出席した私の面倒をみてくれたのです。
聖体礼儀の儀式は10時に始まり約3時間で、午後1時近くに終りました。荘厳な合唱で進める儀式でその合唱の芸術性には感動します。堅苦しい儀式には厳格な決まりがあって他宗派の私には疎外感と違和感があり、儀式開始後15分位は緊張し、多少後悔もしていました。見上げると聖堂のあちこちにマリア様のイコンが沢山飾ってあります。そうだ気楽に母の居る実家に帰った心算で居ることに決めました。主教の行列や祭壇での祈祷に聖職者として参列していた金田さんが、ニコニコしながら傍に降りてきて説明してくれました。マリア様のお陰で気楽にしている私を見て安心していました。それでも祈祷の合間に、3回も来てくれました。面倒見の良い人だったのです。

1番目の写真は神田のニコライ堂です。2009年11月9日に撮った写真です。

2番目の写真は日本正教会の伝教師だった金田一豊さんです。
その後、何度かメールの交換がありました。しかしそれも途切れご無沙汰してしまいました。
それが2015年11月4日に次のようなメールを下さったのです。

正教会の金田です。
ご無沙汰しています。
お元気ですか。
数年前、ニコライ堂において伝教師(宣教師)をしていた金田です。
覚えていらっしゃいますか?
当時は、私の記事をブログのほうに載せていただいてことがあります。
思い出していただければ幸いです。

今回、久しぶりに連絡させていただきまたのは、私のことがクリスチャントゥデイという新聞に取り上げられたのでお知らせをさせて頂きたくてのことです。
現在は輔祭となり奉職しています。
下のリンクは按手の模様が記事になっています。
よかったら、見てみてください。
http://www.christiantoday.co.jp/articles/17454/20151029/deacon-yvan-kazutoyo-kaneda.htm

このクリスチャントゥデイという新聞の2015年10月29日の記事を見たら、日本正教会の伝教師だった金田一豊さんがウクライナ正教会(キエフ総主教庁)の聖職者に叙聖されたという記事でした。
輔祭は、正教会で主教、司祭に次ぐ神品(聖職者)です。
金田さんはウクライナ正教会の在日教会である「聖ユダミッション」で、初の日本人聖職者です。

3番目の写真はウクライナ正教会の輔祭の正装の金田一豊さんです。
金田一豊さんは日本ハリストス正教会の東京正教神学院で学び、聖ユダミッションでは輔祭に叙聖される前から、奉神礼で誦経したり、毎週の週報を日本語・英語・ウクライナ語の3カ国語で作ったり、日本語でカテキズムを教えるなど、中心的な役割を担ってきたのです。リディア夫人との間に娘が1人います。
このリディア夫人とその母親を私に金田さんは紹介して下さいました。お二方とも非常に美しい方だったと記憶しています。私は金田さんがウクライナ正教会の輔祭になったのはこの二人がウクライナ人だからだろうと勝手に推察しています。
それだけの話です。私のウクライナと細い糸のようなご縁とは金田一豊さんがウクライナ正教会の輔祭として活躍しているということです。

この記事をお読み下さいました
皆様にもイエス様の祝福がありますようにお祈り致します。シルベスター後藤和弘

聖徳太子はいなかった!教科書の大間違い!

2018年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム
私ども高齢者は聖徳太子は「憲法十七条」や「冠位十二階」「遣隋使の派遣」などを成し遂げた偉大な人物だと学校でならいました。
しかし近年の歴史学者の研究により、それは間違いと言われ、現在、多くの教科書では「厩戸王」や「厩戸皇子」という名前で登場しています。「厩戸王」が死んでから50年後に天武天皇が天皇の権威を強化するために「厩戸王」を聖徳太子と称して数々の偉業をしたことにしたのです。
ですから以前の教科書は事実に反する大間違いを記述していたのです。
「聖徳太子」は厩戸皇子の存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されています。
また清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から、歴史研究者によって指摘されるようになってきた聖徳太子虚構説をとりあげて記述しています。
歴史家らから、厩戸皇子の存在はともかくとして、「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることが増え、学問的には疑問視されるようになっているのです。その結果、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっています。
つまり将来は「聖徳太子」の名前すら知らない人が増えていくのです。

それはさておき、「厩戸皇子」と「聖徳太子」の関係はどうなっているでしょうか?
いろいろ調べましたが以下の説明が一番明快なのでご紹介いたします。

歴史上実在した「厩戸皇子」は何をした人物?
https://toyokeizai.net/articles/-/118796

Q1. ズバリお聞きします。聖徳太子はいたのですか?

いました。「厩戸皇子」のことです。でも、「聖徳太子」と私たちが呼んでいるこの名前は、彼の本名ではありません。これは彼の功績を称える人々が後世になり彼に贈った名前で、贈られた人物の名は「厩戸王」です。この「厩戸王」は実在の人物です。よって、答えは「いた」ということになります。

Q2. 「聖徳太子はいなかった」はウソだったのですね。

ところが、そうとも言えない事情があります。「聖徳太子はいなかった?」は、ここからが本題です。
たしかに「厩戸王」はいましたが、厩戸王が今日に伝わる「聖徳太子」そのものの活躍を実際にしたのかとなると、話は変わってきます。聖徳太子が行ったとされる数々の偉業と「厩戸王」との関係をあらためて調べていくと、「意外な結果」へとたどりつくのです。

Q3. まず「厩戸王」について簡単にご説明ください。

「厩戸王(うまやとおう、574~622)」は飛鳥時代の政治家です。本名は「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」。用明天皇の皇子として誕生し、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。19歳で推古天皇の摂政となり、「憲法十七条の制定」など数々の偉業を成し遂げます。この功績により、後世「聖徳太子」として人々に称えられ、その名がいまに定着しています。しかし「聖徳太子がすべてやった」とは考えにくいのです。

Q4. 聖徳太子が否定されるきっかけは何だったのですか?

彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」などです。こうして書き連ねるだけで膨大です。
冷静に考えて、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というわけです。

Q5. 聖徳太子と厩戸王との相違点は何ですか?

聖徳太子は上記の偉業をすべて行った、それゆえの「“聖徳”太子」ですから、人物像も明快です。それに対し、「厩戸王」については、当時の史料をあらためて検証する限り、「憲法十七条」も「冠位十二階」も、彼が主体として確実に関与していたという証拠がないのです。
もちろん、だからといって、彼が政治の中枢にいたことはたしかですから、まったく無関与であったとも言えません。現時点では「グレー」なのです。

Q6. 憲法十七条はあったのですか?

ありました。ただ、『日本書紀』にある604年という成立年に疑問が生じているようです。当時の天皇家の持つ権力(=勢力)は、蘇我氏など大豪族とあまり差がなく拮抗しており、この状態で条文にある「天皇中心の国家」をうたいあげるにはまだ時期が尚早だったとの見方と、条文にある「国司」名が未だ使われていなかったのではという疑問点から、「実際の制定はもっと後の時代だった」という主張もあります。


Q7. 冠位十二階はあったのですか?

ありました。ただ、中国、朝鮮半島でも同じような制度はあったので、それを導入したと考えるのが自然でしょう。また、制定の理由は「新しい人材登用が目的」というより、「当時遣隋使の派遣などで積極的に国際化を目指した日本が、先進国としての対外的イメージをつくるため」という意味合いが強いようです。なお、制定に際し、ここでも「厩戸王」の主体的関与の証拠はありません。
遣隋使派遣、法隆寺建立も証拠はなしです。

Q8. 遣隋使派遣はあったのですか?

ありました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されています。当時の遣隋使は、後の遣唐使ほどの重要性を持ってなかったとも考えられます。
遣隋使に関しても、厩戸王の主体的関与の証拠は見つかっていません。

Q9. 法隆寺は厩戸王が建てたのですか?
わかりません。現在の法隆寺は再建(670年に一度焼失)で、寺院に伝わる仏像も彼より後の時代のようですから無関係。焼失前のオリジナルは、現法隆寺の敷地に重なる形で残る「若草伽藍(わかくさがらん)」と呼ばれる寺院遺構とされていますが、なにぶん、こちらも遺構ですから関与の証拠を見出すのは難しいでしょう。近年の考古学的成果からは、部材類の年代は「再建説」を補強しています。

Q10. では、なぜ「聖徳太子」が作り上げられたのですか?
厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?~686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。
そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。
こうしたことを背景にして戦前につくり上げられた「聖徳太子」像は、いま大きく揺らいでいるのです。

ここまでの話を整理してみましょう。
★ 聖徳太子の称号は「憲法十七条」をはじめ、数々の功績によるもの。
★ ところが、最近の研究から、推古王朝は彼一人でなく天皇、蘇我氏、厩戸王3者の共同体制による運営とされ、
① 冠位十二階などは「多くの人物」の手による合作
② 憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した
③ 遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されていた
など、厩戸王自身の実績とは直接関係ないとする可能性も指摘され、徐々に疑問が生じています。

★ 少なくともこの時代に、厩戸王が天皇の摂政として存在したのは確かですが、「聖徳太子」の称号に値する“すべてをひとりで成し遂げた”人物ではなかった、つまりは「“聖徳太子”はいなかった」とする見方が現実味を帯びてきたのです。「一度に民衆十人の訴えをお聞きになって、それぞれに明快な判断をお下しになった」と我々が教わってきた聖徳太子はいなかったのです。

さらに驚くことは聖徳太子の肖像画は別人と判明したのです。
http://historivia.com/cat3/prince_shotoku/3442/
聖徳太子の肖像の絵は「唐本御影(とうほんみえい)」といい、「聖徳太子及び二王子像(しょうとくたいしおよびにおうじぞう)」とも呼ばれています。
これは聖徳太子を描いた最古のものと伝えられています。30年ほど前までは、一万円札などの紙幣に使われておりました。
この絵が描かれた年代としてはここに描かれている服装や冠などが、厩戸王が生きた飛鳥時代のものではなく、早くとも奈良時代となる8世紀頃のものと考えられており、それに付随して制作年代もその頃と考えられており、平安時代以降の模本とする説もあります。
また、横に描かれている二人の人物は、左が聖徳太子の弟の殖栗皇子(えぐりのみこ/生没年不詳/用明天皇の第5皇子で母は穴穂部間人皇女)、右が聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう/生年不詳~643年12月30日/蘇我入鹿に攻められ自害)と言われています。

1982年に当時の東京大学の史料編纂所長であった今枝愛真がこの絵に描かれた人物は聖徳太子ではないのではないかという説を唱えました。
この肖像画に描かれている人物がかぶっている冠や、着ている服、手に持っているもの等すべてが律令国家が成立してからのものであり、あごひげは後に書き加えられたとされ、以上のことからもこの人物が聖徳太子ではないという説が現在では有力です。
また、中国で描かれたという説もあり、誰を描いたものかということも含めて、どこでいつの時代に描かれたのか決着はついておらず、現在では教科書には掲載されていないか、または掲載される場合、「伝聖徳太子像」(聖徳太子が描かれていると言われていますよという意味)と書かれています。

以上を簡単に言うと「聖徳太子」という虚構の人物は天武天皇が創作したに過ぎない存在なのです。
厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)に勝った天武天皇が「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめるために勝手に作り上げたのです。
天武天皇のライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたと考えられています。

日本の歴史には天皇や幕府政権の権威を強めるため歴史事実に反することを事実と変えてしまうことが多いのが普通です。聖徳太子の虚構もその一例に過ぎないのです。
これは明治維新以来の天皇制強化と富国強兵政策のおかげで聖徳太子の功績を学校で教えたのです。
このような歴史の間違いは他にも沢山あるのかも知れません。困ったものです。

挿し絵代わりの写真は昔の教科書にあった聖徳太子の絵と、聖徳太子の肖像が使われていた昔の紙幣の写真です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)







世界各地に住む中国人と漢詩のことなど

2018年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム
中国人は漢民族とも呼ばれます。昔から東南アジアの各地に移住して住んでいました。近代になると欧米諸国にも住むようになります。この漢民族と共通の文化的基盤を有するのは朝鮮民族と日本民族などがあります。
今日は漢民族に焦点をあてて考えて見ようと思います。
私は北京や瀋陽に招ばれ大変世話になったことがあります。またアメリカ在住中には中国人に助けられたこともあります。
何時も感心することは外国に住んでいても中国人は漢民族文化に誇りを持って生きていることです。外国の国籍になっても中国人はあくまでも漢民族なのです。そんな漢民族の一人一人は義理人情に篤く信用出来るのです。
現在、中国は共産党の独裁国家です。しかし中国人と個人的に付き合うと共産主義など全く関係無く長い間親身のお付き合いが出来るのです。
その上、彼等と日本人の共通のものとして漢字があります。簡単な要件なら筆談で意志が通じるのです。
店の看板が分かります。中国に行っても違和感が無いのです。
そして唐時代の漢詩の話をすると親近感が一層湧いてきます。漢詩こそ漢民族の誇りなのです。
漢詩は日本人の教養ですが共産党の中国の学校でも現在教えています。
例えば、湖南省の邵阳市第一中学校のHP(http://www.sysyz.com.cn/wx/sh.aspx?id=280 )にも「元二の安西に使するを送る」と題した漢詩が挿絵入れで紹介してあるのです。その挿絵をここにお送りいたします。

1番目の写真は共産国家の中国の湖南省の邵阳市第一中学校のHPの挿絵です。日本人のよく知っている漢詩が書いてあります。
その漢詩は以下の通りです。

「元二の安西に使するを送る」
渭城の朝雨 軽塵を潤し
客舎青青柳色新たなり
君に勧む更に盡くせ一杯の酒
西のかた陽關を出づれば故人無からん

「送元二使安西」
渭城朝雨潤輕塵
客舎青青柳色新
勧君更盡一杯酒
西出陽關無故人

邵阳市は日本の漢字で書くと邵陽市になります。
古典文学の教養として日本も中国も同じ漢詩を幾つも習っているのです。
日本でも唐時代の漢詩を学校で教えています。ですから日本人は漢詩の幾つかを憶えていて、折にふれ詠み返しています。
王維が友人の送別のために書いたのがこの漢詩です。唐の都から西の陽関という関所を越えて西域の僻地に旅立つ親友との惜別の詩です。もう二度と会えないかも知れない友へもう一杯の酒を飲んでくれと言いながら別れを惜しんでいるのです。
この詩のポイントは故人にあります。故人とは古くからの友人や親友の意味です。そして 陽関は関所の名で、現在の甘粛省敦煌県の西南の玉門関の陽(みなみ)にあったのです。

皆様も友人の送別会の時、この漢詩を朗誦したのではないでしょうか?
・・・渭城の朝雨 軽塵を潤し~客舎青青柳色新たなり~~
君に勧む更に盡くせ一杯の酒~~~
西のかた陽關を出ずれば故人無からん~無からん無いからん故人無からん  と三回繰り返しました。

外国で親しくなった中国人にこの漢詩の話をします。そして貴方も陽關を出て外国に住むようになったのですねと聞きます。故人(昔からの知り合い)はいなかったでしょうかと言うとニッコリ笑います。
それだけで非常に親近感が湧いてくるから不思議です。
外国に住む多くの中国人は外国生まれなので陽關を出て移住したのは祖父の代です。しかし外国籍の中国人は漢字の素養があり、小さい時から孫悟空の物語を読んでいます。
中国人は漢民族の誇りを持って世界各地に住んでいるのです。
現在、日本人も世界の各地に住んでいます。彼等の心の拠り所は日本民族の文化です。
世界に誇れる日本民族の文化とは何でしょうか?
万葉集でしょうか。源氏物語でしょうか。そして最近の工業製品の品質の良さでしょうか。あるいは現在、日本人が非常に優しいと有名だそうです。日本は何処へ行っても清潔で安全な国です。
これらの全体が日本民族の誇れる文化なのです。私は個人的にそのように信じています。

今日の挿し絵代わりの写真は私が好きな北京の離宮の頤和園の写真です。
写真は「頤和園の写真」を検索してネット上にあるものから選び、お借りしました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)








谷川岳が はやり安保闘争デモの時代、その時代の空気

2018年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム
谷川岳の一ノ倉沢の岩登りが若者の胸を熱くした時代がありました。1960年代1970年代のことです。
一ノ倉沢の岩肌を命がけで登っている人がいる一方、街には安保闘争のデモが渦巻いていました。デモは学生の情熱でした。若者が燃えていた時代でした。
そんな時代の空気が懐かしいです。あの空気は二度と来ません。
先日、あるSNSに山の遭難記事を掲載しましたところその時代の空気をまざまざと思い出させるコメントを2人の方から頂きました。非常に活き活きした文章なのでそのまま転載致します。

(1)すけろくさんから 2018年10月06日 に頂いたコメント
若い頃は毎週のように谷川岳東面の岩場に取り付いていました。
社会人山岳会会員の宿命は休みが少ないため夜行、日帰りで岩登りをせざるを得ませんでした。
上野を前夜22時13分発長岡行きに乗り、未明の午前3時過ぎ土合駅に着きます。長い階段を駆け上がり、国道を早足で歩き、一ノ倉沢に入り、岩壁に取り付きます。
あちこちのルートから健闘中のパーティの声がします。昼近くに国境稜線に出て、西黒尾根、中芝新道を下り、登山は完結します。
このようにすべてうまく行けば良いのですが、転落、滑落をするときもあります。大したこともないパーティもあれば,致命的なミスをしてしまったパーティもいます。
何組か救助をしたことがありましたが、その多くが初心者よりも中堅~猛者のパーティが多かったものです。これはいかに谷川岳の岩壁が困難なものかがわかると思います。
最近は岩場に取り付く若者は50年前と比べると激減しているそうで、その分遭難も減っています。
しかし、昭和のはじめから最近までの遭難、死者の数はおびただしいもので、世界で一番遭難の多い山としてギネスブックに載ってしまいました。ロープウエー下の遭難碑を見るたびに山で亡くなった人々の冥福を祈ります。合掌。

(2)nishiちゃんさんから2018年10月06日に貰ったコメント
すけろくさん、長岡行きドンコ列車は22時45分か?49分だった様な記憶があります。尾瀬沼田、谷川土合駅など懐かしいです。
最初に行った時は地下からの階段は無かったです。2度目に翌年、翌々年に行った時は400~500段近くの地下トンネルから階段を上がって土合駅に出ました。
まだ渋川から蒸気機関車だったのも覚えています。
一ノ倉沢の出合の次のカーブに慰霊碑がはめ込まれています。
この横でテントを張って朝の日の出の写真を撮ったものでした。
衝立岩での宙吊りの遭難者を自衛隊がザイルを射撃して切断し、犠牲者を回収しましたね。その現場のオーバーハングを思い出しますね。6級ルート+スーパー6級ルート、七級ルートでした。
上部草付きルート、脆い岩で花崗岩岩壁では無いのと、沢筋ルートと相まってスーパー6級ルートです。やはりクライマーは憧れる訳ですね。
私もバットレスを少しやった位ですが・・・、やはり岩場で落ちたら死ぬ覚悟・・・、しかし相棒がザイルを握ってくれ確保してくれている・・・有難味。やはり相棒がいてのクライミングと思いました。
急に個人的な話になって済みませんが、加藤保男さんの笑顔、小西さんの笑顔からこぼれる白い歯今でも覚えています。
キャラバンにいた小西政嗣さんにも展示会でお会いすることが出来ましたね。そうだ・・・加藤保男さんのエルキャピタンで冬期エベレスト挑戦への前にこの映画を見て頑張って下さいと握手して励ましたのですが・・・。いろいろな方の想い出があります。
クライミングをやった時は落ちたら死ぬんだ・・・絶対に落ちない様に…と近場のゲレンデに毎週通いました。
しかし、やはりロマンチストには自分との戦いをロッククライミングに向けます。
サラリーマン世界の毎日の後の週末の岩登りに魅かれ多くの岳人が山に登ったのだと思います。
ポニージャックスかに山に煙が昇ると言う悲しくも哀愁を帯びた唄があります。私もやはり死を覚悟して初めて挑戦した山があります。
厳冬期1月20日から2月末迄を山での厳冬期と言います。
まだ誰もが成し遂げられなかった厳冬の北アルプス全山縦走を目標に単独で全てを自分で背負い挑戦したこともありました。
挑戦には素晴らしい意欲を感じます。
植村直己さんのことです。知り合いに植村さんと親しかった方がいましたのでよく植村さんのことを聞きました。マッキンレー登頂後遭難したのが残念です。・・・老境になると谷川岳に夢中になっていた時代が懐かしいです。あの時代の空気は2度と来ません。

上記のように登山に情熱を燃やしていた若者がいる一方、安保反対のデモに参加して興奮していた若者も沢山いた時代でした。
安保闘争とは1959年から1960年と1970年の2度にわたり日本でおこなわれた日米安全保障条約に反対する運動でした。
デモへの参加者は国会議員、労働者や学生、市民および左翼や新左翼の運動家などなどでした。
60年安保闘争では安保条約は国会で強行採決されたものの、岸内閣は混乱の責任をとって、内閣総辞職をしなければならなくなったのです。
しかし70年安保闘争では、闘争に参加していた左翼の分裂や暴力的な闘争、抗争が激化し運動は大衆や知識人の支持を失い、やがて終息しました。

添付の写真は谷川岳一ノ倉沢の写真3枚と国会を取り囲んだデモ隊安保デモの写真1枚です。1960年6月18日に撮ったデモの写真です。







いかがでしょうか、1960年代1970年代の時代の空気を思い出されましたでしょうか?

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


江の島の昔の風景と強烈な西洋文化の風景

2018年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム
日本民族という言葉を私は好きです。その歴史も大好きです。私は日本文を大切にしている愛国者です。
それが心に沁みついているので、写真を撮る時、嗚呼これは伝統文化の風景だ、嗚呼これは日本にある西洋文化の風景だと区別しながら撮る習慣があります。
そうするとその風景の背後にある人々のいとなみの歴史が見えて来て面白いのです。
明治維新の大きな変革がよく理解出来るので興味深いのです。維新で変わったもの、変わらなかったものが見えて来るのです。西洋の文化がどのように入ってきたかが理解できるのです。
昨日も江の島と茅ケ崎の海岸に行って、2種類の写真を撮って来ました。その対比を見ると日本の文化についていろいろ想われて楽しいのです。
それでは早速、日本の伝統的な風景の写真から始めます。

1番目の写真は江の島の西にある茅ヶ崎の海岸の風景です。この広々とした風景は奈良時代、平安時代から寸分変わっていない筈です。

2番目の写真は茅ヶ崎の海岸の烏帽子岩と波打ち際で遊ぶ母と子供の写真です。
烏帽子岩は昔から変わりません。しかし母や子供たちが西洋の服を着ています。昔は質素な着物を着て遊んでいたに違いありません。

3番目の写真は江の島の弁財天の入り口の門の風景です。入り口の門は近年建てられたものですが、その形が日本の伝統的な風景になっています。
この写真は以前にお正月に江の島に遊びに行った時に撮った写真です。このような風景は多分、鎌倉時代からの伝統なのでしょう。江の島は鎌倉に近い島なのです。

4番目の写真は江の島の弁財天の参道にある日本菓子の店の内部の光景です。創業、寛政元年と書かれたノレンが写っています。江戸時代には江の島の弁財天のお参りが流行って江戸からの人々で賑わったと言います。
この弁財天の歴史をかいつまんで書きます。
欽明天皇13年(552年)、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝えられています
『吾妻鏡』によれば、寿永元年(1182年)、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあります。
歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けてたようです。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになって参道の土産物屋や旅館が賑わったのです。
しかし明治維新は江の島に悲劇をもたらしたのです。
明治元年(1868年)の廃仏毀釈により三重塔や多くの仏堂や仏像などが破壊されたのです。
明治6年(1872年)には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称させられたのです。
同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院という宿泊施設は旅館となり「岩本楼」へ改称し現在も存続しています。私も1963年頃に岩本楼に泊まったことがありました。
江の島にはそんな歴史と文化があったのです。
しかし1964年のオリンピックで江の島がヨットレースの会場になってから強烈に西洋文化を代表するヨットのマリーナが島に出来たのです。その西洋文化を象徴するような風景写真を3枚示します。

5番目の写真は江の島ヨットハーバーの風景です。ヨーロッパ文化にとって重要な役割を果たした西洋式の帆船が並んでいます。

6番目の写真はヨットを後ろから撮った写真です。
日本にも昔から帆船がありました。しかし日本の帆船は風に向かってが走れなかったのです。それが決定的な弱点でした。
ヨットと呼ばれる帆船はヨーロッパで設計された図面通り忠実に作られた船です。その部分品一つ一つがヨーロッパ文化を背負っているのです。ヨットを趣味にして25年間乗ってみるとヨットこそヨーロッパ文化が詰まった文化遺産だと深く理解出来たのです。

7番目の写真は江の島のヨットマリーナの全景です。
ヨットにはキャビンの無い小型のものもあります。その小型ヨットのことをデンギィと呼びますが、その置き場のデンギィヤードはこの写真の右側に広がっています。
私がヨットを習ったレッツゴーセイリングというヨットスクールがあった場所です。
この江の島や葉山などの湘南海岸に多数のヨットが入って来たのは戦後です。
石原裕次郎がデインギィに乗っていたことがヨットの流行に拍車をかけたのです。
しかしキャビンを持つ大型のヨットのマリーナが出来たのは1970年代から始まる経済の高度成長の後でした。
なお詳しくは次の記事をご覧下さい。
『白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆』2011年11月30日 掲載記事。

5,6、7番目のような写真の歴史は比較的に新しく日本の経済の高度成長の後に出来た風景なのです。

このように日本の風景写真を日本の伝統的な風景とヨーロッパ文化の影響を受けた風景と分類して撮るのが私の趣味です。しかし風景によっては2つの伝統文化が混然一体になっている場合もあります。面白いものですが、困っています。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

秋深い北海道の風景とアイヌ民族を愛した松浦武四郎

2018年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の自然には太古のままのような雰囲気があります。風景もヨーロッパを思わせる景観で旅心をかき立てます。ロマンチックです。特に秋深い北海道は、やがて来る厳しい冬の予感を与えています。
もう何十回も訪れました。
今日はまず秋の風景写真をお送りいたします。2015年に道東に行った時の写真です。

1番目の写真はウトロから知床五湖へ行く途中の白樺です。10月中旬なのに完全に落葉しています。

2番目の写真は知床五湖の第一湖です。駐車場から幅の広い立派な木道があり一湖までは足が弱い人でも歩いて行けるのです
背景の山並みは知床連山です。天候が変わりやすく冬が近い感じです。

3番目の写真は知床五湖から網走に帰る途中にあった白樺林です。

4番目の写真は知床五湖の近辺にいたエゾシカの親子です。エゾシカは沢山見ました。キタキツネも沢山見ました。

5番目の写真は新得町狩勝高原の釧路湿原に続く畑作地帯にいた鶴の一家です。鶴は一生同じ夫婦で過ごし子供も一緒です。
真ん中の首がまだ黒くなっていないのが子供の鶴です。両脇がその両親です。

6番目の写真は知床五湖の近くにいたヒグマです。この熊は人を恐れずにバスから10m位の所を徐行するバスに従って歩いているのです。数分歩いて写真を撮り終わった頃に林の中に消えて行きました。
知床には何度か来ていましたが、ヒグマをこんなに間近に見るのは初めてでした。

7番目の写真はウトロの漁港です。写真の中央の岩山に一度だけ登ったことがあります。観光客が登れるように道がついているのです。
以上の写真では知床近辺だけを示しましたが北海道は雄大なのです。その自然の風景を一層引き立ているのが数々の湖です。摩周湖。阿寒湖、屈斜路湖、オネントー、サロマ湖、洞爺湖、支笏湖、などなど枚挙にたえません。

この北海道の名前をつけ、アイヌ民族を愛したのが松浦武四郎でした。
それまでは北海道は蝦夷地と呼ばれ、北海道という名前は無かったのです。
アイヌは縄文人が弥生人と混血しないで残った原日本人なのです。
北海道には4万年前の石器時代からアイヌ民族が住んでいました。本州北部と同じ文化圏で縄文時代までは同じような土器を使って煮炊きをしていました。
このアイヌ民族を愛し北海道の各地の名前にアイヌ語を残したのが松浦武四郎でした。
松前武四郎の生涯をご紹介します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%AD%A6%E5%9B%9B%E9%83%8E より抜粋しました。
文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる。
松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。
父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、文化的な素養を身に付けたとされる。13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び、猪飼敬所、梁川星巌らと知己を得る。
山本亡羊に本草学を学び、16歳から諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に、弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。
安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。
明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。
翌明治3年(1870年)に開拓使を批判して職を辞し、従五位の官位も返上した。この間、北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺した。
明治3年(1870年)には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。
明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去。

以上のようにアイヌの伝統文化を尊重し、北海道の各地の地名にアイヌ語の地名をそのまま残したのです。ご存知のようにサッポロも漢字表記にして札幌と書いたのです。
松前武四郎のおかげで北海道にアイヌ語の地名が多数残ったのです。何故か感慨無量です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===北海道のアイヌ語の地名==========~=
赤平(あかびら) 旭川(あさひかわ) 芦別(あしべつ) 足寄(あしょろ) 厚岸(あっけし) 厚沢部(あっさぶ) 厚田(あつた) 厚別(あつべつ) 厚真(あつま) 網走(あばしり) 虻田(あぶた) 硫黄山 伊香牛(いかうし) 幾春別(いくしゅんべつ) 生田原(いくたはら) 石狩(いしかり)などなど多数。以下省略。
http://www1.plala.or.jp/kanakikaku/ainutimei.htm

カトリック小金井教会の今日のミサ

2018年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日の主日のミサが10時から11時までありました。
司式は加藤主任司祭さまがなさって下さいました。
今日のミサの光景の写真をお送りいたします。









今日の新約聖書の朗読は離婚はしてはいけないという教えです。簡単な文章ですからお読みください。

マルコによる福音書 -第 10 章

1 それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。

2 そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。

3 イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。

4 彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。

5 そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。

6 しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。 7 それゆえに、人はその父母を離れ、 8 ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。

9 だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。

10 家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。
11 そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。12 また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。

聖書の教えは上記の通りですが、キリスト教国の欧米諸国、特にアメリカで離婚が非常に多いのは何故でしょうか? アメリカの離婚率は日本より圧倒的に多いのです。

私は幸運にも離婚したいと考えたことがありません。しかし世の中には相性が決定的に悪い夫婦がいるものです。そのような場合は離婚するのが自然だとも思います。
しかしアメリカで離婚が非常に多いのは個人の自由や尊厳を強く主張しすぎる結果のように感じています。
離婚は子供を不幸にします。そこまで考えて慎重にするのが良いと個人的には思っています。
皆様のご意見を頂けたら助かります。有難う御座います。

日本の山岳遭難の悲劇と数多くの墓標

2018年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の記事は1959年のソ連のウラル山脈の近くのオトルテン山に登ろうとしていた9人が全員遭難し帰らぬ人になった山岳遭難の話でした。
遭難現場の巨大な花崗岩には9人の死者を偲ぶ切々とした詩文が刻み込んであります。
このような山岳遭難と慰霊碑は日本にも数多くあるのです。

今日は日本の山岳遭難を振り返って見ようと思います。

1番目と2番目の写真は上高地の帝国ホテルの傍の梓川の岸辺から撮った穂高連峰です。

1番目と2番目の写真は以前、何度も散策したおりに自分で撮った写真です。

3番目の写真は上高地にある山岳遭難者慰霊碑、「山に祈る塔」です。
写真の出典は、https://blog.goo.ne.jp/hz0326/m/201706 です。

4番目の写真は梓川沿いのカラマツ林の中にひっそり眠る数多くの慰霊碑です。
みな遺族や山仲間が遭難者を慰めるためにたてた碑です。亡くなった者への想いが刻み込んであります。

5番目の写真は谷川岳の岩壁ある遭難者のレリーフです。谷川岳では800人近くの若者が命を落しているのです。写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/gyamerongiasu/28744478.html です。

さて山岳遭難の一覧表はこの記事の末尾の参考資料にあります。この表は戦後の昭和時代に限って、3名以上の犠牲者のあった遭難事故だけを示しています。1名あるいは2名の事故は含まれていないのです。
その表を見ると谷川岳の遭難が多いのに気づきます。そこでまず谷川岳に焦点をあてて紹介します。文章の出典は5番目の写真と同じです。

谷川岳の標高は2,000mにも満たないが、急峻な岩壁と複雑な地形に加えて、中央分水嶺のために天候の変化も激しく、遭難者の数は群を抜いて多いのです。
1931年(昭和6年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2005年(平成17年)までに781名の死者が出ています。
この飛び抜けた数は日本のみならず世界のワースト記録としてギネス認定もされているのです。

1960年(昭和35年)には、岩壁での遭難事故で宙吊りになった遺体に救助隊が近づけず、災害派遣された陸上自衛隊の狙撃部隊が一斉射撃してザイルを切断、遺体を収容したこともありました。
谷川岳の宙吊り遺体収容のTVニュースを憶えている人も多いと思います。
また、一ノ倉沢で1943年(昭和18年)9月8日に、2人の登山者が絶壁の岩場で遭難死します。
しかし遭難場所がわからず行方不明として処理され、遺体はそのまま岩場に放置されました。
30年後の1973年(昭和48年)5月13日に、偶然この場所にたどり着いた登山者が白骨化した遺体を発見します。
ポケットに残されていた10銭硬貨や過去の記録から、1943年の遭難者と判明したのです。
山岳クラブと地元警察により、30年ぶりに下山して親族の元に帰ったのです。
急激な気象の変化による遭難が後を絶たないので、谷川岳は「魔の山」とも呼ばれ、遭難の防止のために群馬県谷川岳遭難防止条例が制定されているくらい特別な山なのです。

日本の山岳遭難は谷川岳ではありません。
北海道の大雪山、東北の蔵王、北アルプス、南アルプス、そして四国や九州の山々に山岳遭難者の慰霊碑があるのです。
遺された家族や友人の悲嘆の山並みが続いているのです。下に4つだけの山岳遭難の例を示します。

1、松本深志高校遭難事故
1967年8月1日の気象状態は、本州を挟む形で高気圧が2つ並んでおり、南海上には台風があったため、大気の不安定な状態となっていました。
長野県松本市の長野県松本深志高等学校二年生の登山パーティーは、北アルプスの西穂高岳にて教員の引率による集団登山を行なっていたのです。
この集団登山は個人での登山による危険を避けるため、希望者を集めて毎年学校が主催している行事でした。
参加人数は教員5人を含む計55人で、日程は、31日に松本市を出発、上高地で一泊し、1日の朝から西穂高に登山して、翌日下山、松本市に帰る予定でした。
参加者のうち46人が登頂したが、正午過ぎから天候が悪化し、大粒のひょうまじりの激しい雷雨となったためパーティーは避難を開始します。下山途中の13時半頃、独標付近のガレ場を一列で下っていたところに雷の直撃を受けた。
これにより生徒8名が即死、生徒・教員と会社員一人を含めた13名が重軽傷を負い、生徒3名が行方不明となったのです。
事故発生の連絡を受けた西穂山荘からは従業員と東邦大学医学部による西穂高診療所の医師ら二十余人が現場に向かい、遺体と負傷者を山荘に収容します。
登山の伝統がる深志高等学校の多人数の犠牲者が出た悲しい遭難事故でした。深志高等学校には空しく慰霊碑が建っていて、穂高に山並みを見上げています。

2、富士山大規模落石事故、
1980年8月14日午後1時50分ごろに富士山の山頂付近で落石が発生、吉田ルートの登山道を転がった落石が八合目から六合目にかけて多数の登山者を巻き込んだ事故です。
この事故による死者12人、負傷者は29人を数え、国内の落石事故史上最悪の惨事となったのです。
落石は、頂上の八神峰のひとつ、久須志岳付近の岩場で二度にわたり発生。直径1~2mの巨石5~60個が左右に広がりながら一直線に滑り落ち吉田大沢に向かった。
雪崩のように広がった落石は本八合(標高3300m)付近で吉田砂走りに自然発生的にできた下山道を直撃し、八合目(標高3100m)にかけて多数の登山者を巻き込みながらなぎ倒したのち六合目と七合目の中間付近で再び登山道に合流し、ここでも下山者を襲ったのです。
落石は吉田砂走りの小石を巻き込みながら、最終的に標高差1400mを転げ落ち五合目付近まで達しました。
被害は拡大し、死者12人、重軽傷者29人を数えたのです。
当日の気象は好天で風速は6m程度であり、また地震や火山活動など落石の引き金となる明白な事象はなかった。落石は人為的に引き起こされることもあるが、最初の崩落が発生した場所は登山道から離れていたため自然発生によるものとみられているのです。

3、御嶽山噴火による63名死亡事故
御嶽山噴火は、2014年(平成26年)9月27日11時52分(日本時間)に発生しました。
長野県と岐阜県の県境に位置する御嶽山(標高3,067m)の火山噴火です。噴火警戒レベル1(平常)の段階で突然、噴火したため、火口付近に居合わせた登山者ら58名が死亡し、5名が行方不明になりました。 避難する時間も無く無防備の登山者に巨大な噴石が降り注いだのです。多くは即死でした。

4、山小屋もろとも土石流で流された遭難事故
昭和44年8月5日、神戸市立御影工業高校ワンダーフオーゲル部の教師2名、生徒5名が長野県飯田市松川にて、山小屋もろとも土石流に流されました。捜索の結果、2名発見、5名は行方不明のままです。詳しくはhttp://menosaito.blog100.fc2.com/blog-entry-457.html にあります。その後のことは「長野県飯田市遭難慰霊碑」を検索して下さい。

以上のように山岳には想像もつかない危険に満ちているのです。いくら経験豊かな登山家でも避けられない山岳遭難が起きるのです。
登山は冒険です。危険です。危険だからロマンがあります。
悲しむのは遺された家族や友人たちです。・・・・
最近、私にも富士山の山頂に登り、荒天のなかで下山中に行方不明になった親友がいます。
そのせいでこんな記事を書く気になりました。まだ発見されていません。(2018-09-15、掲載記事に経緯が書いてあります)
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料;岳遭難事故一覧=============
seesaawiki.jp/book-wiki/d/%BC%E7%A4ʻ%B3%B3%D9%C1%F8%C6%F1%BB%F6%B8ΰ%EC%CD%F7%A1%A1%A2%A8%BE%BC%CF%C2
最終更新: 2012年01月16日(月) 03:26:13履歴

【主な山岳遭難事故一覧】 ※昭和(戦後) ※大量遭難=3名以上死亡 のみのリストです。
昭和25(1950)年11月 平標山遭難事故(平標山)5名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/top...
昭和25(1950)年12月 佐野高校山岳部雪崩事故(谷川岳/西黒沢尾根)5名死亡
http://mtgear.blog18.fc2.com/blog-entry-30.html
昭和26(1951)年 5月 法政大学山岳部崩落事故(谷川連峰/一ノ倉沢) 4名死亡
昭和29(1954)年11月 日大/慶応大山岳部・東大スキー山岳部雪崩事故(富士山)15名死亡
http://www.fujiyamanchu.com/fujisanzatugaku.html
http://www.fujisan-net.jp/data/article/1410.html
昭和29(1954)年12月 戸山高校山岳部遭難事故(北アルプス/西穂高岳)3名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history03/top...
昭和32(1957)年 3月 明治大学山岳部雪崩事故(北アルプス/白馬鑓ヶ岳)5名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
昭和33(1958)年12月 慶応大学山岳部雪崩事故(北アルプス/中岳)4名死亡 ※他日大山岳部2名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
昭和33(1958)年12月 早稲田大学山岳部雪崩事故(北アルプス/明神岳)4名死亡
http://www.geocities.jp/oriental_com/ogura/now/myo...
昭和34(1959)年10月 東大山岳部他雪崩・遭難事故(北アルプス/北穂高岳)8名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/top...
昭和34(1959)年12月 立命館大学山岳部雪崩事故(北アルプス/剱岳)6名死亡
http://www.jlogos.com/webtoktai/index.html?word=%C...
昭和34(1959)年12月 専修大学山岳部雪崩事故(北アルプス/槍ヶ岳)6名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/top...
←◎参照 昭和35(1960)年 9月 谷川岳宙吊り遺体ザイル銃撃事件(谷川連峰/谷川岳)2名死亡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5...
昭和35(1960)年11月 早大/東京理科大山岳部他雪崩事故(富士山)11名死亡
http://www.fujiyamanchu.com/fujisanzatugaku.html
http://www.fujisan-net.jp/data/article/1410.html
昭和36(1961)年 1月 富山大学山岳部遭難事故(北アルプス/赤谷山)6名死亡
http://yamamemo.seesaa.net/article/151883513.html
昭和36(1961)年12月 剱岳池ノ谷遭難事故(北アルプス/剱岳)3名死亡
昭和37(1962)年 1月 五竜岳遭難事故(北アルプス/五竜岳)5名死亡  
昭和37(1962)年 1月 甲斐駒ケ岳遭難事故(南アルプス/甲斐駒ケ岳)3名死亡
昭和37(1962)年 1月 久住群星生山遭難事故(久住連山/群星生山)7名死亡
http://www.nan-nan.jp/lib/unpyou02a1.pdf
昭和37(1962)年11月 穂高岳遭難事故(北アルプス/前穂高岳)5名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
昭和37(1962)年11月 成城大WV部遭難事故(南アルプス/間ノ岳)4名死亡
http://www.minamialps-net.jp/data/article/202.html
昭和37(1962)年12月 北海道学芸大学函館分校山岳部遭難事故(大雪山系/旭岳)10名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history04/top...
昭和38(1963)年 1月 愛知大学山岳部遭難事故(北アルプス/薬師岳)13名死亡 ※1パーティーとしては近代登山史上最大
http://dankai.akimasa21.net/index.php?%E6%84%9B%E7... 
昭和39(1964)年 1月 大館鳳鳴高校山岳部遭難事故(岩木山)4名死亡
http://blog.goo.ne.jp/kitsunekonkon/e/1515ca32334a...
昭和40(1965)年 3月 北海道大学山岳部遭難事故(日高山脈/カムイエクウチカウシ山)6名死亡
http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/20.jiken/9.htm...
http://www.geocities.jp/kyyamamoto2/dcyukinoisyo1....
昭和40(1965)年 3月 横尾雪崩事故(北アルプス/横尾)7名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
←◎参照 昭和40(1965)年 5月 東京農大ワンゲル部しごき死事件(奥秩父/雲取山)1名死亡
http://yabusaka.moo.jp/noudai.htm
http://gonta13.at.infoseek.sk/newpage55.htm
←◎参照 昭和41(1966)年 6月 日大三島山岳部しごき死事件(富士山)1名死亡 ※日大山岳部とは別組織
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和41(1966)年11月 富士山連続滑落事故(富士山)6名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和42(1967)年 1月 涸沢雪崩事故(北アルプス/涸沢)8名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和42(1967)年 1月 大日山遭難事故(大日山)6名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和42(1967)年 1月 剱岳遭難事故(北アルプス/剱岳)3名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05.H...
昭和42(1967)年 1月 谷川岳二重雪崩遭難事故(谷川連峰/谷川岳)6名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和42(1967)年 4月 山形市立商業高校山岳部遭難事故(朝日連峰)3名死亡
http://www.asahi-net.or.jp/~dq5h-kmnt/akiba/1989ko...
昭和42(1967)年 8月 松本深志高校遭難事故(北アルプス/西穂高岳)11名死亡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%A9%82%E9...
昭和44(1969)年 1月 剱岳大量遭難事故(北アルプス/剱岳)19名死亡
http://mtgear.blog18.fc2.com/blog-entry-70.html
昭和45(1970)年 7月 福岡大学ワンゲル部羆襲撃事件(日高山脈/カムイエクウチカウシ山)3名死亡
http://seesaawiki.jp/book-wiki/d/%ca%a1%b2%ac%c2%e...
昭和45(1970)年12月 同志社大/中央大他天狗平遭難事故(北アルプス/天狗平)7名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和47(1972)年 3月 富士山大量遭難事故(富士山)24名死亡
http://blog.goo.ne.jp/yukiyuki-tei/e/498c94ac51a8d...
http://www.fujisan-net.jp/data/article/1410.html
昭和49(1974)年 3月 白馬大雪渓雪崩事故(北アルプス/白馬岳)5名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history05/top...
昭和49(1974)年 3月 鹿島槍ヶ岳雪崩二重遭難事故(北アルプス/鹿島槍ヶ岳)9名死亡
http://www.argos-net.co.jp/nadare_bunkakai/nadare_...
昭和52(1974)年 1月 鹿島槍ヶ岳雪崩事故(北アルプス/鹿島槍ヶ岳)9名死亡
昭和52(1977)年 3月 都立航空高専山岳部遭難事故(中央アルプス/将棊頭山)7名死亡
http://www.asahi-net.or.jp/~dq5h-kmnt/akiba/1989ko...
昭和55(1980)年 8月 富士山大規模落石事故(富士山)12名死亡
http://univ.ygu.ac.jp/kasai/fujirakuseki/FUJISTONE...
http://www.fujiyamanchu.com/fujisanzatugaku.html
http://www.fujisan-net.jp/data/article/1410.html
昭和55(1980)年12月 逗子開成高校山岳部遭難事故(北アルプス/八方尾根)6名死亡
http://www.zushi-kaisei.ac.jp/history/100history/1...
昭和57(1982)年 3月 八ヶ岳阿弥陀岳雪崩事故(八ヶ岳/阿弥陀岳)12名死亡
http://www.geocities.jp/showahistory/history06/top...
昭和57(1982)年 8月 黒部渓谷土石流事故(北アルプス/黒部渓谷)7名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05B....
←◎参照 昭和58(1983)年 9月 富士見平小屋OL殺人事件(奥秩父/富士見平小屋)1名死亡※殺人
http://www.chichibu.ne.jp/~elf/3/field/file1.htm
昭和61(1986)年 1月 岩木山雪崩事故(青森/岩木山)4名死亡
http://120.29.191.181/amedaze/dic/dic-his/his-05B....
昭和62(1987)年 1月 常念岳遭難事故(北アルプス/常念岳)3名死亡
http://homepage2.nifty.com/m_hayaka/book/bn1863.ht...
昭和62(1987)年 9月 穂高岳屏風岩落石事故(北アルプス/穂高岳)4名死亡1名不明
======================================

「今日は面白い本をご紹介致します」

2018年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
面白い本とはアメリカ人のドニー・アイカーが書いた、『死に山』という本です。
分厚い350頁の本を手にした私は「これは飛ばし読みして筋だけ楽しもう」と考えました。
内容は1959年のソ連のウラル山脈の近くのオトルテン山に登ろうとしていた9人が全員遭難し帰らぬ人になった山岳遭難の話です。
この遭難事件では寝ていた9人全員が薄着のまま靴も履かずに、安全で温かいテントを飛び出して凍死したのです。真夜中に突然テントを内側から切り裂いて全員が飛び出したのです。
何故、急に飛び出したかが1959年から、この本の出版された2018年8月30日まで深い謎でした。ソ連国内では興味本位の本が数多く出版され、「ディアトロフ峠事件」として有名な遭難事件だったのです。

私はこの本の初めの部分を読み、途中は飛ばして最後の謎解きの部分だけを読みました。
成程、そんなことだったのかと納得して終りです。
しかし何時ものように著者のドニー・アイカーが書いた謝辞の部分だけは丁寧に読みました。
謝辞を読むとその本を書くための取材の深さと範囲が分かります。著者がその本を書いたときの姿勢や執念が判るのです。
嗚呼、これは生半可な本ではない!ドニー・アイカーは命を懸けて書いた本だ!
そこで初めから丁寧に読みはじめました。
訳文も良いのです。美しい日本語が流れています。訳者は安原和見というベテランの翻訳家です。
この本のクライマックスは最後の謎解きの部分です。しかし謎解きはここでは致しません。
そしてこの本が面白いのは次のようないろいろな内容が興味津々なのです。

(1)ドニー・アイカーは2度ロシアの現地を訪問しています。そのアイカーが根気よくロシア人達と友人関係になっていく過程が面白いのです。
「ディアトロフ峠事件」を知るロシア人は皆高齢者でスターリン時代に育っています。かたくなで昔敵だったアメリカ人のドニー・アイカーに心を許しません。これでは「ディアトロフ峠事件」の真相は聞き出せません。それを崩す過程が面白いのです。

(2)2度目の訪問の時、ドニー・アイカーは遂に9人が遭難死した現場まで登ったのです。そして自分独自の謎解きのヒントを得るのです。雪のオトルテン山めがけて登る冒険紀行が面白いのです。

(3)ドニー・アイカーは非常に人間的な男です。全ての人間に興味を持ち大切にします。
遭難死した9人を一人一人詳しく紹介し謎解きの背景を固めていきます。
特に現地の原住民のマンシ族に好意を持ち「ディアトロフ峠事件」のことを聞き出しています。

(4)遭難者の凍死死体が見つかったあとで遺族たちは盛大なお葬式をしようとします。しかしその地区担当の共産党書記が小規模な葬式にしろと命令します。
遭難の原因が解明出来ないのは共産党の失態になると考え、「ディアトロフ峠事件」は無かったものにしようとしたのです。
事件が起きた1959年は冷戦の厳しい時代でした。
1953年のスターリンの死後、フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開されいたのです。
しかしソ連は共産党独裁が1990年頃まで続いたのです。この独裁制のもとで遭難者の捜索や発見された死体の検死の行われ方が興味深いのです。
ソ連時代の人々の関係や暮らし方が活き活きと書いてあるので面白いのです。

(5)最後にもっとも重要なことを書きます。
それはドニー・アイカーは人間愛に強い男だということです。
「ディアトロフ峠事件」で死んだ9人、病気になり途中で引き返したきた1人を等しく愛しています。特に途中で引き返したきた1人の心に寄り添い本音を聞き出しています。
遭難者の遺族にも慎重に会い彼等の心情を聞いているのです。
ドニー・アイカーは共産主義の批判を一切しません。キリスト教にも言及しません。しかし原住民のマンシ族の聖地のことは詳しく調べています。
共産主義もキリスト教も関係無く人間は人間として生まれるのです。その人間に対するドニー・アイカーの人間愛に私は感動したのです。
ちなみにドニー・アイカーは映画監督だそうです。

兎に角、いろいろな観点から実に面白い本です。

今日の挿し絵代わりの写真はウラル山脈の風景写真です。
写真の出典は、「ウラル山脈の厳しい冬の美しい写真」
http://osoroshian.com/archives/42220421.html です。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







「自由に花の摘める花畑で考えた」

2018年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム
先週、花畑に行きました。
そこは三鷹市の予算で作ってる「花と緑の広場」という所です。
ここでは一年に数回、種類の違う花を植え替えます。花を刈り取る前の1週間くらいは自由に花が摘めます。
植木鋏を貸してくれて、摘んだ花を紙で包んで花束にしてくれます。先日はマリーゴールドとキバナコスモスとジニアが自由に摘めました。その花畑の写真は、2018年09月30日 掲載の「自由に花の摘める花畑に行きました」で示しました。
今日はその折に撮った他の花の写真をお送りします。そして花の写真を撮りながら考えたことをいろいろ書いてみたいと思います。










花の写真を撮りながら考えました。
三鷹市の市役所の公園課の人々の心の温かさを考えていました。
三鷹市の市民でありませんと言う家内に、「どうぞ、自由にお摘み下さい」とほほ笑んでいたそうです。
花畑の中に入って嬉しそうに花を切っている妻の姿を見ていると幸福感がしみじみと湧いてきます。
何時も土にまみれて花の世話をしている人に「有難う御座います」と挨拶をします。ニッコリした顔を私の方に向けます。嗚呼、なんと穏やかな美しい顔をしているのでしょう。
そして暫く散歩している間にいろいろな雑念も湧いてきます。
花の世話をしてる人の穏やかな顔の反対側にある顔を思い出しました。
トランプ大統領の顔です。口角泡を飛ばして記者会見をしている時の顔です。
それにしても北朝鮮の非核化が遅々として進まないのはトランプ大統領がかたくなに制裁を解除しないからと思います。意地の張り合いを止めて、この「花と緑の広場」の花畑を暫く眺めて貰いたいと想います。
それにしても安倍総理も3回目の総裁選挙に勝ち、もう3年総理大臣を続けることになりました。
安倍さんは外交の分野で優れた才能を発揮しています。国際的なバランス感覚も良く国際関係において日本の立場を強くしています。外交は良いのですが、しかし少し気になることもあります。
それは憲法改正を実行することです。
日本の憲法は敗戦直後に出来たもので問題の多い憲法です。それを改正することは正しい方向です。
私が危惧していることはそれに便乗して浅薄な右翼的日本人が増えそうなことです。
彼等は先の日中戦争や太平洋戦争は正義の戦争だったと気楽に言うのです。そして朝鮮併合も朝鮮人を保護するためにしたことだと言うのです。
花畑で思い出しますが、先の日中戦争や太平洋戦争では日本軍が2000万人の中国人を殺し。フィリピン、インドネシア、マレーシア、仏領インドシナ、などで数百万人の人を殺したのです。イギリス兵として出征したインド人も87000人殺されたのです。
日本人も310万人も死にました。
このような戦争を正当化する理由などある筈がありません。

三鷹市の「花と緑の広場」で楽しそうに花を摘む妻の姿を見ながら、私は深い溜め息をつきます。
しかし次の瞬間、広がる花畑を見晴らして気分が変わりました。残酷な戦争のことは忘れました。
でも戦争の犠牲になった人々の悲しみは絶対に忘れません。
そんな事を考えながら車を運転して花束とともに帰って来ました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料==================
日中戦争と太平洋戦争の人的被害を国別に示します。

この一覧表では1、国の名前、2、軍人と兵士の死者数、3、民間人を含めた死者数の合計の3項目が順に示したあります。

そうして欧米諸国の国別人的被害数は欧州戦線での損害も含めた人的損害の合計です。
(https://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/research-starters-worldwide-deaths-world-war )

China、中国
3-4,000,000
20,000,000

Dutch East Indies(インドネシア)
--
3-4,000,000

French Indochina(仏領インドシナ)
--
1-1,500,000

India、インド
87,000
1,500,000-2,500,000

Japan、日本
2,120,000
2,600,000-3,100,000

Korea(朝鮮出身の日本兵や軍属も含む合計です。)
--
378,000-473,000

Malaya、マレーシア
--
100,000

Netherlands(オランダ)
17,000
301,000

Philippines、フィリピン
57,000
500,000-1,000,000

United Kingdom(イギリス)
383,600
450,700

United States(アメリカ)
416,800
418,500

この人的損害の一覧表の数字の正確さは証明が困難なものです。しかしこの表は世界中でよく引用される表なのです。従って数字の正確さに疑問があっても広く用いられている一覧表なのです。

日本仏教を作った玄奘三蔵法師の遺骨が埼玉県に

2018年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の考え方の基底には仏教の無常(つねならず)の思想が流れています。それは「もののあわれ」ともなり、私たちの心の基調となっています。日本文化は大乗仏教の影響を深く受けているのです。
この大乗仏教の教えをはるばるインドへ旅をして持って帰って来たのが唐時代の玄奘三蔵法師でした。
現在、日本で読まれているお経のほとんど全ては彼がインドから持ち帰り、漢文に翻訳したものです。そして一部はインドのパーリ語の発音をそのまま漢字で表したものです。
ですから私は玄奘三蔵法師こそ日本文化の産みの親と信じています。
彼は602年に生まれ、664年に62歳で亡くなりました。629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教の研究を行って、16年後の645年に経典657部や仏像などを持って帰還しました。
以後、翻訳作業をしながら、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなったのです。それでは下に彼の旅の道程を示しましょう。

1番目の写真は玄奘三蔵法師の16年間にわたるインドへの旅の道筋を示す図です。この図面の出典は、http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/12.html です。
インドへ入った玄奘は、ガンダーラやカシミールを経由し、ブッダゆかりの地を訪れた後に、有名なナーランダー僧院(現在のビハール州)へと赴いています。
当時のナーランダー僧院では、仏教以外にも様々な学問が行われており、数千人もの俊才たちが勉強していました。玄奘は、彼らのなかでも誉れの高い戒賢(シーラバドラ)について『瑜伽師地論』を中心に学び、この地で五年間、勉学に励んだのです。

さて何故、私は玄奘三蔵法師のことを親しみをこめて「彼」と書くのでしょうか?
それには私が彼の遺骨が埼玉県の慈恩寺にあることを知り、2009年の9月に訪ねて行ったことがあるからです。
先代の住職の大嶋見道師の奥さんから何故遺骨が埼玉県にあるか詳細に取材しました。
そうしたら遺骨が日本に渡ってきた経緯が分かりました。

かいつまんで経緯を書くと次のようになります。
玄奘三蔵法師の遺骨を発見したのが昭和17年でした。南京を占領していた関東軍の高森部隊でした。部隊長は金沢出身の高森隆介氏であったといいます。高森部隊長は日中両国の専門家に鑑定を依頼したのです。その結果、玄奘三蔵法師の頂骨であるとされたのです。
発見の翌年の昭和18年の2月に、関東軍は遺骨と副葬品一式を中国側の南京政府へ返したのです。
南京政府は日本の傀儡政府で、蒋介石の政府は重慶にありました。
南京政府は壮大な奉迎式典を開催し、昭和19年には南京市の玄武山に玄奘塔を建てます。この塔の建設発起人は南京政府の外務大臣の緒民誼と日本の駐支大使の重光葵がなっています。
そして完成した10月に盛大な式典が挙行され、その折に分骨され、南京政府の日中友好の証として日本仏教連合会へ贈呈されたのです。
東京の増上寺に安置された遺骨が埼玉県の慈恩寺へ移動した経緯は埼玉県の慈恩寺の先代の住職の大嶋見道師が熱心に働きかけて埼玉県に持って来たのです。
そして埼玉県の慈恩寺の近くに玄奘塔を作り、祀ったのです。

2番目の写真は埼玉県にある玄奘塔の門の写真です。慈恩寺の先代の住職の大嶋見道師が建てたものです。

3番目の写真は玄奘塔の脇にある玄奘三蔵法師の像です。 この写真の玄奘三蔵さまが背中にうず高く背負っている物がインドから持って来た経典の詰まった入れ物なのです。その入れ物の上に傘がさしてあります。自分の身より経典を大切にして、はるばるインドから運んできたのです。
現在、日本の多くのお寺にこの 玄奘さまの像があります。

4番目の写真は埼玉県にある玄奘塔の隣の畑の風景です。玄奘塔は慈恩寺から離れた場所にあり、周囲は畑に囲まれています。

5番目の写真は中国の西安にある大雅塔です。この中で玄奘三蔵法師が経典の漢文への翻訳作業を続けていたのです。私は1981年にこの大雅塔の最上階まで登りました。当時は文化大革命の後だったので大雅塔の土の階段が崩れていたことに心が痛みました。
現在は綺麗に修復され立ち入り禁止になっていると聞きました。

さて埼玉県の玄奘塔の基部に埋まっている遺骨は本物の玄奘三蔵法師の遺骨でしょうか?
第二次大戦中の日本の軍隊と南京政府、そして日本の駐支大使館が深く関係した経緯があったのです。とても信用するわけにはいきません。
しかし私は何故か感動しています。興奮しています。
唐の西安から遺骨の一部を南京へ持って来た演化大師とその弟子たち。そして埼玉の慈恩寺の大嶋見道住職と見順住職の父子などの玄奘三蔵法師への尊敬と信仰の美しさに私は感動を覚えます。
遺骨は偽物でしょう。
しかし遺骨と称するモノが日本へ渡って来て、埼玉県の慈恩寺に埋葬されたいきさつを調べて行くと人々の願いや祈りが私の胸を打つのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)