後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の美しい風景(3)日本三景の宮島の厳島神社、秀吉の千畳敷」

2022年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
広島市の西南約30kmに宮島があります。宮島口から船で渡ります。3度ほど訪れました。 
平清盛が壮大な神社に改築し、そのままの形の美しい神社が残っています。国宝です。そして神社の奥にある宝物殿には華麗な平家納経が展示してあります。これも国宝です。神社へ仏教のお経を納めるのは神仏混淆ですが、当時は普通のことでした。
海中に建つ巨大な鳥居にも圧倒されます。干潮時には歩いて真下まで行けます。神社の建物の配置と海の景観が一種独特な雰囲気を出しています。浄土とか理想郷を表しているのかも知れません。
平家納経は見事な職人技で描かれています。繊細で華麗です。複製が展示されていますが、その複製も見事な絵画技術と美しい書体を示しています。軸などの表装も当時の最高のものです。
厳島神社の前の高台には秀吉が作った巨大な千畳敷という建物があります。完成する前に秀吉が死んだので未完成のままです。そしてその前に五重塔があります。
この丘から下って参道の商店街を歩きます。焼き牡蠣と穴子の味が絶佳です。そしてお土産に紅葉まんじゅうを買いました。数多くの店が作っているので2個ずつ買って味を見て、お土産用に買い求めました。はじめに行った時は、3時間くらいしか時間が無かったのでこのような観光コースで散策しました。しかし数年後に再度行った時は、神社の向こうにある古いお寺へ行き、さらに後ろの山に登って厳島神社を俯瞰しました。感動的な風景でした。
宮島の厳島神社、秀吉の千畳敷、平家納経などの数枚の写真をお送り致します。全て2011年に 家内が撮った写真です。
始めの3枚の写真は厳島神社で次の2枚は秀吉の千畳敷 の前の五重塔で、続いて1枚ず
つ千畳敷と土産物屋の写真です。最後の2枚は平清盛の納経の複製です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)











「日本の美しい風景(2)日本三景の天橋立と伊根の舟屋」

2022年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
天橋立(あまのはしだて)は京都府宮津市の宮津湾と内海の阿蘇海の間を南北4KMにも伸びている細長い砂州です。砂州の上には松の木がえんえんと生えていて見事な景観を作っています。私は1991年頃に3度訪れました。まず南の高台に登り天橋立の全体の美しい風景を楽しみます。それから下におりて松の木が生えて砂州をゆっくり歩きます。時々砂州の先の海に出て手を透き通った海水で洗います。そんな楽しかった散歩を思い出しながら天橋立の写真をお送り致します。

1番目の写真は南の高台からの天橋立の全体の美しい風景です。写真は「天橋立」を検索して、出て来た写真から選びました。

2番目の写真は同じ風景ですが松の木の緑を明るく撮った写真です。こういう風にも見えるのです。家内は体を曲げ両脚の間から景色、天に登る龍のような景観を楽しんでいました。

3番目の写真は砂州の先の海が夏には海水浴場になっている風景です。私が歩いた時は夏でなかったので誰もいない静かな海でした。
天橋立の松並木は雪舟筆『天橋立図』に描かれています。
現在、天橋立には5,000本から8,000本の松が生えているそうです。
松林が維持されたのは伐採の制限があったことです。この地区には籠神社や真名井神社などがあり、天橋立の松林は神聖な場所として扱われていたそうです。
さて次は「伊根の舟屋」の美しい風景をご紹介したいと思います。天の橋立はこの伊根のすぐそばです。
伊根の舟屋は京都府の日本海側の与謝郡、伊根町の海沿い立ち並ぶ家です。1階にある舟の収納場所の上の2階に人が住んでいます。これは独特な伝統的建造物です。
舟屋は江戸時代中期頃から作られ ました。現在、240軒ほどあります。この地区は「伊根町伊根浦伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区になっています。
この舟屋の多くは民宿をしています。民宿では舟屋の2階がお客の寝室になっているのです。
私が泊った時には夕食に生け簀に泳いでいた地魚の塩焼きが出ました。ゆっくり地元の辛口の酒を楽しみました。もう30余年も前の旅の思い出です。
その風景写真をお送りします。出典は、https://reki4.com/00201.html です。

4番目の写真は伊根湾の東側から見た伊根の舟屋の遠景です。

5番目の写真は舟屋の近景で1階が舟の収納庫になっています。2階は宿泊客の部屋です。そこで海を眺めながら食事をし寝ます。

6番目の写真は漁船が大型化して1階の収納庫に入らなくなった様子を示します。大きな漁船が舟屋の前に舫ってあります。あまり良い光景ではありませんが私は仕方がないと諦めました。これも時代の変化です。

7番目の写真は伊根湾の夕日です。日本海にゆっくり沈んで行きます。

ここ伊根という地名は建久2年(1191年)に「長講堂所領注文」という史料に初めて出てきます。鎌倉時代末期には集落が形成されていたようです。
はじめは湾内だけの漁業だったようですが江戸時代以降は湾外へと舟が出て行きました。
江戸時代末期には短冊型の地割りが見られ現在の舟屋群の基礎が確立しています。
それにしても何故か旧懐の情をかき立てる風景です。

今日は私の天橋立の風景写真と伊根の舟屋の写真をお送りいたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「武蔵野の写真を撮りに行ってきた」

2022年05月19日 | 写真
武蔵野の範囲は曖昧で境界は決まっていません。大雑把に言えば関東平野の南西部です。
武蔵野は江戸時代までは原野と農地が並んでいて雑木林が広がっていました。
その武蔵野は現在、商店街や住宅地になってしまい昔の武蔵野の面影は無くなってしまいました。
しかし東京都は昔の武蔵野の面影を保存するために「武蔵野公園」を小金井市の南部に造りました。そこには雑木が生えていて昔の武蔵野の面影があります。
午後から、その武蔵野の写真を撮りに行ってきました。
緑豊かな写真をお楽しみ下さい。






「美しい花の写真をお楽しみ下さい」

2022年05月18日 | 写真
マレーシアのクアラルンプール在住のAhmad Fuad Ahmadさんのブログからお借りした写真です。
ブログは「世界で最も美しい10の花」、http://afkra.blogspot.com/2013/05/the-10-most-beautiful-flowers-in-world.html です。
美しい花の写真をお楽しみ下さい。





「北海道のロマン(9)異国情緒豊かな函館の魅力」

2022年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道へは何度も旅をしました。ある時は魅力的な函館に3泊しました。2012年の6月のことでした。その時に函館とその周辺を丁寧に見て回りました。函館には海産物の豊富な市場があります。ロシア正教の教会があります。トラピスト修道院もあります。ちょっと西に行くと「男爵資料館」があり「千代の山と千代の富士の記念館」があります。
東の方向に行くと大沼公園があり、さらに東に行くと国宝の縄文土器が展示してある白尻町縄文土器展示館があります。
このように函館とその周辺には興味深いところが沢山あるのです。これらの私の撮った旅の写真を順々にお送りしたいと思います。

1番目の写真は函館駅前にある観光名所の海産物の朝市です。前に広い駐車場があって車で行っても便利です。朝市は昼間でも開いていて、観光客で賑わっています。駐車場に一番近いところに「どんぶり横町」というものがあり、客が好きな魚を選んで乗せる海鮮ドンブリの店が沢山あります。

2番目の写真は函館市内にある一番古いロシア正教の教会です。幕末に聖ニコライが函館へロシア正教を伝えたのです。なお近くには美しいカトリック教会もあります。このカトリック教会の祭壇の左右の壁に飾ってある14個の彫刻はイタリアから寄贈されたものです。芸術的で感動的な彫刻群です。

3番目の写真はロシア正教の教会の近くにあるロシア人墓地です。ロシア人墓地には1859年に作られたアスコリド号の航海士のお墓も含めて43人のロシア人が眠っています。墓碑はみな大海に向いています。
はるか遠くの蝦夷の地で死んだロシア人の家族は墓参も出来ません。函館ハリスト正教会の日本人信者が供養を続けているようです。

4番目の写真はフランスのトラピスト修道院です。函館の西、30km程のJR渡島当別駅から奥に入った寒冷な原野にあります。この修道院はローマ法王傘下のカトリック組織の一部で、戒律が厳しい事で有名です。修道士は一生の間、修道院敷地から出ません。早朝から夜まで、祈りと牧畜の労働だけで過ごします。

5番目の写真はトラピスト修道院の裏にある牧場の古い牛舎です。修道院の高い塀に沿って裏の方へ回るとこの写真の古い木造の牛舎が数棟あります。この修道院は1896年、明治29年に津軽海峡を越えてやって来たフランスの厳律シトー派の流れを汲むトラピスト派の数人の修道士が作った修道院です。

6番目の写真は函館の西にある男爵薯の資料館の「男爵資料館」です。皆様がよく食べるジャガイモの多くは男爵イモです。JR当別駅の傍にありおます。
この男爵イモは1908年、明治41年、川田龍吉男爵がアイルランドから持ち込んで日本へ普及させた品種です。川田男爵は日本の造船業を興し、その近代化や北海道の乳牛畜産や農業の近代化を力強く推し進めた偉大な事業家でした。明治時代の殖産興業というものを情熱的に進めた快男子でした。その関連の資料を集めて展示している場所が「男爵資料館」です。

7番目の写真は函館の西にある「千代の山と千代の富士の記念館」です。木古内から峠道に入り山を越えて、再び海岸に出たところの福島町にあります。こんな小さな町から二人も横綱がでたのです。相撲の好きな家内が感激して両手を上げています。

8番目の写真は函館の北にある大沼公園です。生憎の曇り日で、駒ケ岳の美しい姿は見えませんでした。大沼の周囲を根気よく車で一周しました。驚いたことに観光開発されているところはたった一ケ所だけです。大型観光バスの広大な駐車場のある観光船の発着場だけなのです。

9番目の写真は観光開発されていない大沼の美しい岸辺です。雑木林がえんえんと続き、その雑木林の向こうに湖水が透けて見えるのです。大沼の周囲は手つかずの自然林のままなのです。

10番目の写真は函館の東にある白尻町縄文土器展示館に展示してある国宝の縄文時代の土偶です。
白尻町は岩礁の迫った険しい地形の海岸に孤立した町でした。そこに立派な縄文土器の展示館があるのです。衝撃的な展示物は国宝に指定されている中が空洞になっている高さ41・5センチメートルもある大きな土偶です。

さて1万年前から2000年前にかけて北海道には広く縄文土器が存在していたのです。ですから縄文人はアイヌ人の祖先だったという結論になります。
北海道に居た縄文人の子孫のアイヌは本州のようにその後の渡来人と混じらないで純粋にその文化を伝承したのです。その北海道に住んでいた縄文人の子孫を我々はアイヌ人と呼んでいるのです。
本州に居た縄文人は大陸からの渡来人と混血し弥生人になりました。そして現在の日本人の先祖になったのです。

以上、今日は函館とその周辺の旅の写真を順々にお送りしました。北海道への旅をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「高山の花畑の写真」

2022年05月16日 | 写真
ここ数日冷たい雨が続いています。気分が暗くなります。
そこで気が晴れるような高山の花畑の写真を探しました。
お送りする写真の出典は、https://yamahack.com/3403 です。

1番目の写真は岐阜県大野郡白川村の標高2,702mの山地です。

2番目の写真は長野県上水内郡信濃町の標高2,053mの山地です。

3番目の写真は木曽駒ヶ岳の標高2,956mの山地です。

4番目の写真は埼玉県日高市の菜の花畑です。


「今日は珍しい朴の木の花の写真をお送りします」

2022年05月16日 | 写真
朴の木は山奥に生えている大きな木です。山奥のうえに大木の高い梢に咲くのでめったに見ることが出来ない珍しい花です。初夏に白い大き花を開き、芳しい香りを漂わせます。今日はその写真をお送りします。

1番目の写真は5年まえの5月に山梨県の上野原市の山奥で私が撮った朴(ホウ)の木の花です。

2番目の写真の出典は、https://minhana.net/wiki/ホオノキ です。

3番目の写真は出典は、
https://blogs.yahoo.co.jp/san_tarimo/GALLERY/show_image_v2.html?id=https%3A%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-53-c2%2Fsan_tarimo%2Ffolder%2F989081%2F27%2F33421227%2Fimg_0%3F1400056940&i=1
です。

4番目の写真の出典は、
http://parfum-satori.com/blog/2016/05/magnolia-obovatathunb-1.html です。

5番目の写真は山奥にある私の小屋の庭です。右手に朴の木の大木があり高い梢に花が咲きます。白い花びらがチラチラ見えるだけです。

朴の木の葉は朴葉味噌につかったり食物を包んだりします。大きな美しい葉です。皆さまの身近に朴の木があるでしょうか。あれば幸いです。

「北海道のロマン(8)蝦夷地、松前藩の興味深い歴史」

2022年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム
松前は北海道の南の端の部分です。此処だけへは和人が移住し松前藩を作っていました。残りの北海道はアイヌ民族が栄えていました。
従って松前藩の和人はアイヌ人と戦いや和睦をしながら彼等と物々交換の交易をし鮭や昆布を手に入れていました。松前の和人は他民族と交流しながら生活をしていたのです。
私は松前に2度行きました。そこで今日は他の藩とは違った松前の歴史をご紹介したいと思います。それは興味深い歴史です。参考にした文献は松前町の教育委員会が作った「松前歴史物語」(http://www.town.matsumae.hokkaido.jp/hotnews/category/120.html ) です。
松前地方の名が歴史上最初に現れるのは、『続日本紀』の養老四年(720年)の記事に「渡島津軽津(わたりしまつがるつ)」の記述があります。渡島は蝦夷地を指し、津軽津は津軽地方への渡し口である松前付近の地です。
松前町内の地名は、アイヌ語を漢字で表したものが多く、「松前」という語源もアイヌ語にあると考えられています。
津軽地方では、14世紀ころより安藤氏がこの地方を平定して、北条家(鎌倉幕府)の蝦夷管領としてその領地を松前まで広げていました。
蝦夷管領の安藤氏は、蝦夷地の支配も任されており、和人居住地の管理と懲役を行うため、大館(字神明)を役所としていたと推定されます。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸に徳川幕府を開きました。慶長九年(1604年)一月に徳川家康から安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、徴役権、交易の独占権を得て、北海道南端に日本最北の藩松前藩が成立しました。しかしながら、領内に米の生産がなく、明確な大名格付けはされていなく、幕府の『武鑑』のなかでは、大名の最末席に位置づけされ、一万石以上家に準ずる待遇を受けていました。

1番目の写真は後に築かれた松前城の隅櫓です。松前城は火災にあい現在残っているのは門と隅櫓だけです。

2番目の写真は松前城の正門と隅櫓です。
私はこの正門をくぐり中に入りました。中は大きな館の跡の広場があるだけでした。右奥の方向に800mくらい歩いて行くと松前藩の代々の藩主の立派な墓が並んでいました。

3番目の写真は松前藩の代々の藩主の立派な墓です。
松前藩は北海道のアイヌ人と江戸との交易の仲介をして栄えました。その上シベリアと交易していました。
黒竜江(アムール川)付近から中国の衣服や絹織物などを松前藩が持ち込んでいました。この美しい絹織物は「蝦夷錦」または「山丹錦」といわれ、赤や青地の布に竜や竜頭、牡丹などの紋様が織り込まれています。
蝦夷錦は松前藩の独占交易品として、幕府などへの進物品に使われました。五世藩主の松前藩慶広が、豊臣秀吉に謁見するため肥前名護屋を訪れたとき、徳川家康の望みに応じ着ていた蝦夷錦の胴服を家康に献上したという話が残っています。
遠く中国の江南地方で生産された絹織物が通して松前へと渡っていたのです。
私は松前城のそばの民宿に独りで泊まり町を丁寧に歩きました。その時撮った町の写真を示します。

4番目の写真は現在の松前町のメインロードです。
5番目の写真も現在の松前町のメインロードです。町はこのメインロードだけです。
商店街の裏は住宅地になって山地に続いています。歩いていたら犬を連れた女性に会いました。そして彼女が言ったのです、「犬を連れないで独りで歩いているとヒグマに襲われますよ」と。山から時々ヒグマが下りて来るそうです。
観光客が少ない淋しい町でした。多くの観光客は函館から洞爺湖、昭和新山などを経て札幌に行ってしまうのです。
現在は忘れられたような町ですが江戸時代は栄えていたのです。
近江(滋賀県)商人がたくさん松前に来て、出店を開き繁盛しました。松前の産物(にしん・こんぶ・干しあわび)を京都や大坂などの市場で売りさばき、帰りには呉服物・米・味噌・醤油・漁具など百貨を松前に運んで商いしました
箱館戦争の松前藩と旧幕府軍の戦いで松前城の落城します。
幕府海軍副総裁の榎本武揚率いる軍艦開陽以下七隻が仙台湾に停泊し、会津から逃れてきた諸隊と土方歳三とが合流しました。
明治元年(1868)十月、旧幕府軍は箱館を攻め、五稜郭を占領、松前攻撃に移ります。
この攻防戦の戦火によって城下町の三分の二までが焼失し、これを契機に松前の町は退潮の一途をたどることになります。

以上が松前の興味深い歴史の断片です。日本の地方地方にはいろいろな歴史がありますが松前ほど悲劇的な歴史はありません。それは蝦夷地という辺境の土地にあったからです。アイヌ民族と抗争と和睦が繰り返されました。
この悲劇の歴史を背負った松前町は北海道の南端にあります。今では静かな小さな町です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「イグナチオ教会の今日の復活節第5主日のミサ の動画配信」

2022年05月14日 | 日記
「イグナチオ教会の今日の復活節第5主日のミサ の動画配信」
今日は復活節第5主日です。
5月15日朝10時以後でしたらミサの動画配信で何時でもミサにあずかることが出来ます。

イグナチオ教会の今日の復活節第5主日のミサ の動画配信は以下にあります。
https://www.youtube.com/watch?v=tcvrv3MJ_lQ

なお関口教会からも動画配信があります。

写真は白百合の花です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りきたします。後藤和弘(藤山杜人)


「大分県豊後高田市の長安寺のシャクナゲの写真」

2022年05月14日 | 写真
長安寺のシャクナゲの 淡いピンク色の花びらがとても綺麗です。
長安寺は」「花の寺」として有名なお寺です。
1番目の写真の出典は、https://www.city.bungotakada.oita.jp/page/page_05888.html です。
2、3,4番目の写真の出典は、https://www.facebook.com/bungotakadacity/posts/820823507946346/ です。





「国の天然記念物の福岡県の求菩提山のシャクナゲ」

2022年05月14日 | 写真
福岡県豊前市の求菩提山(ぐぼてさん)の南にある犬が岳のシャクナゲ自生地が国の天然記念物に指定されています。
この自生地に近い求菩提園地のシャクナゲの写真をお送り致します。さすがに天然記念物、とても鮮やかで美しい花です。シャクナゲは豊前市の市の花にもなっています。
写真の出典は、https://4travel.jp/travelogue/10877716 です。

なお求菩提山は標高782mの円錐形の山で、 かつて「一山五百坊」と言われた修験山で、天台宗求菩提山護国寺を中心に多くの山伏達が住み英彦山とともに豊前修験道の中心を担いました。