松前は北海道の南の端の部分です。此処だけへは和人が移住し松前藩を作っていました。残りの北海道はアイヌ民族が栄えていました。
従って松前藩の和人はアイヌ人と戦いや和睦をしながら彼等と物々交換の交易をし鮭や昆布を手に入れていました。松前の和人は他民族と交流しながら生活をしていたのです。
私は松前に2度行きました。そこで今日は他の藩とは違った松前の歴史をご紹介したいと思います。それは興味深い歴史です。参考にした文献は松前町の教育委員会が作った「松前歴史物語」(http://www.town.matsumae.hokkaido.jp/hotnews/category/120.html ) です。
松前地方の名が歴史上最初に現れるのは、『続日本紀』の養老四年(720年)の記事に「渡島津軽津(わたりしまつがるつ)」の記述があります。渡島は蝦夷地を指し、津軽津は津軽地方への渡し口である松前付近の地です。
松前町内の地名は、アイヌ語を漢字で表したものが多く、「松前」という語源もアイヌ語にあると考えられています。
津軽地方では、14世紀ころより安藤氏がこの地方を平定して、北条家(鎌倉幕府)の蝦夷管領としてその領地を松前まで広げていました。
蝦夷管領の安藤氏は、蝦夷地の支配も任されており、和人居住地の管理と懲役を行うため、大館(字神明)を役所としていたと推定されます。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸に徳川幕府を開きました。慶長九年(1604年)一月に徳川家康から安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、徴役権、交易の独占権を得て、北海道南端に日本最北の藩松前藩が成立しました。しかしながら、領内に米の生産がなく、明確な大名格付けはされていなく、幕府の『武鑑』のなかでは、大名の最末席に位置づけされ、一万石以上家に準ずる待遇を受けていました。
1番目の写真は後に築かれた松前城の隅櫓です。松前城は火災にあい現在残っているのは門と隅櫓だけです。
2番目の写真は松前城の正門と隅櫓です。
私はこの正門をくぐり中に入りました。中は大きな館の跡の広場があるだけでした。右奥の方向に800mくらい歩いて行くと松前藩の代々の藩主の立派な墓が並んでいました。
3番目の写真は松前藩の代々の藩主の立派な墓です。
松前藩は北海道のアイヌ人と江戸との交易の仲介をして栄えました。その上シベリアと交易していました。
黒竜江(アムール川)付近から中国の衣服や絹織物などを松前藩が持ち込んでいました。この美しい絹織物は「蝦夷錦」または「山丹錦」といわれ、赤や青地の布に竜や竜頭、牡丹などの紋様が織り込まれています。
蝦夷錦は松前藩の独占交易品として、幕府などへの進物品に使われました。五世藩主の松前藩慶広が、豊臣秀吉に謁見するため肥前名護屋を訪れたとき、徳川家康の望みに応じ着ていた蝦夷錦の胴服を家康に献上したという話が残っています。
遠く中国の江南地方で生産された絹織物が通して松前へと渡っていたのです。
私は松前城のそばの民宿に独りで泊まり町を丁寧に歩きました。その時撮った町の写真を示します。
4番目の写真は現在の松前町のメインロードです。
5番目の写真も現在の松前町のメインロードです。町はこのメインロードだけです。
商店街の裏は住宅地になって山地に続いています。歩いていたら犬を連れた女性に会いました。そして彼女が言ったのです、「犬を連れないで独りで歩いているとヒグマに襲われますよ」と。山から時々ヒグマが下りて来るそうです。
観光客が少ない淋しい町でした。多くの観光客は函館から洞爺湖、昭和新山などを経て札幌に行ってしまうのです。
現在は忘れられたような町ですが江戸時代は栄えていたのです。
近江(滋賀県)商人がたくさん松前に来て、出店を開き繁盛しました。松前の産物(にしん・こんぶ・干しあわび)を京都や大坂などの市場で売りさばき、帰りには呉服物・米・味噌・醤油・漁具など百貨を松前に運んで商いしました
箱館戦争の松前藩と旧幕府軍の戦いで松前城の落城します。
幕府海軍副総裁の榎本武揚率いる軍艦開陽以下七隻が仙台湾に停泊し、会津から逃れてきた諸隊と土方歳三とが合流しました。
明治元年(1868)十月、旧幕府軍は箱館を攻め、五稜郭を占領、松前攻撃に移ります。
この攻防戦の戦火によって城下町の三分の二までが焼失し、これを契機に松前の町は退潮の一途をたどることになります。
以上が松前の興味深い歴史の断片です。日本の地方地方にはいろいろな歴史がありますが松前ほど悲劇的な歴史はありません。それは蝦夷地という辺境の土地にあったからです。アイヌ民族と抗争と和睦が繰り返されました。
この悲劇の歴史を背負った松前町は北海道の南端にあります。今では静かな小さな町です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)