後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「新緑のケヤキの大木の写真を撮りに行く」

2022年05月14日 | 写真
近所に古い園芸農家があります。ケヤキの大木が屋敷を覆い大きな森になっています。そのケヤキが美しい新緑になっています。
昼食後、散歩しながら写真を撮って来ました。
どうぞ新樹の写真をお楽しみ下さい。





「北海道のロマン(7)大自然の中のリゾート、トマムとキロロ」

2022年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
リゾートホテルは以前の日本には無かった種類のホテルです。アメリカ発祥で、ホテルと種々の遊び場の複合施設です。アメリカのラスベガスのタホー湖のそばにあるリゾートホテルなどがその例です。以前、アメリカに住んでいた時に2回ほど泊ったことはありました。
広い森や湖にホテル棟が散在してしてシャトルバスやカートで移動します。ショッピング街がありレストランも数軒あります。敷地にはテニスコート、水泳プール、ゴルフ場、森歩きの遊歩道、スキー場など全ての遊びの用意がしてあります。夏の間、数日から数週間泊って自然相手の悠々とした生活を家族と共に楽しむの為の複合施設です。
もともと日本に無かったのですが経済の高度成長の頃、日本にも出来ました。2例を上げれば北海道のトマムリゾートとキロロリゾートです。

今日は北海道のトマムリゾートとキロロリゾートをご紹介したいと思います。
1番目の写真はトマムリゾートの全景です。場所は北海道中央の旭川に近くの勇払郡の占冠村にあります。星野リゾートが各地の破綻したリゾート施設を再生して出来た施設の一つです。

2番目の写真はキロロのトリビュートポートフォリオホテル北海道です。
キロロリゾートは北海道の小樽の南隣の余市郡赤井川村にあるリゾート施設です。朝里岳と長峰岳の斜面にあるスキー場をはじめ、自然を生かしたアクティビティなどを楽しむことができる通年型リゾート施設となっている。
3番目の写真は私共が2010年6月に泊ったトマムリゾートの タワーです。自分で撮った写真です。
4番目の写真は泊ったトマムリゾートの 高層の部屋からの眺めです。広い駐車場が印象的でした。
5番目の写真は私共が泊ったトマムリゾートの 部屋から見下ろした霧の流れる風景です。
6番目の写真は2010年6月に泊ったキロロのトリビュートポートフォリオホテル北海道です。白服の人は家内です。
7番目の写真はキロロのホテルのレストランです。窓の外は白樺林になっていました。

8番目の写真はキロロのトリビュートポートフォリオホテル北海道の夜景です。
2010年に初めて行ったキロロはアイヌ語で「心」を意味するそうです。一泊だけでしたが静かな環境で自然が美しいことに感激しました。ホテルの部屋も広く、インテリアも落ち着いています。ホテルから続くレストラン街は良い雰囲気でした。詳しくは、http://www.kiroro.co.jp/  をご覧下さい。
私どもが泊ったリゾート・ホテルのキロロもトマムもどちらも規模が大きく、施設も立派でした。雄大な自然に囲まれた高層ホテル棟と重厚ながら洒落たショッピングやレストラン街には、正直言って非常に驚きました。
冒頭に紹介したアメリカのラスベガスのタホー湖のそばにあるリゾートホテルと同じように充実していました。
リゾートホテルは他にニセコ・ルスツリゾートにもあります。
巨大なトマムやキロロのホテルは満員で、地元の若い人々が多数働いていました。北海道を出なくても働き口が沢山あるのです。北海道の地域経済にとっても大成功です。

今日は北海道のキロロリゾートとトマムリゾートをご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)






「花々のように美しいガラスの器の写真をお楽しみ下さい」

2022年05月13日 | 写真
戦前の小樽には大量のニシンを保管しておく巨大な倉があちこちにありました。
ところが時代が変わって現在は、巨大なガラス細工の店になっています。
そこに並べられたガラスの器が綺麗なのです。花々のように美しいのです。

花々のように美しいガラスの器の写真をお楽しみ下さい。
2010年6月17午後4時頃に家内が撮った写真です。






「初夏の山に咲くニッコウキスゲの花をお楽しみ下さい」

2022年05月12日 | 写真
初夏の山に咲くニッコウキスゲの花をお楽しみ下さい。
 写真の出典は、http://www.forest-akita.jp/data/sanya-hana/31-kisuge/kisuge.html です。

1番目の写真は山形県と秋田県に跨がる 鳥海山のニッコーキスゲです。ニッコーキスゲが一面に咲く場所は山地や高山の草地や湿地です。

2番目の写真も鳥海山のニッコウキスゲです。栃木県日光に多く咲き、葉がスゲに似ていることから、「日光黄菅」と書きます。別名はゼンテイカ(禅庭花)です。

3番目の写真は八幡平の大場谷地のニッコウキスゲです。広がるお花畑はとにかく静かです。花の群れは湿原を渡る風に揺れ、時折カッコウの鳴く声が静寂を破ります。

4番目の写真は秋田県の駒ヶ岳のニッコウキスゲです。男岳北面の草地が最大の群生地です。この写真は、そのニッコウキスゲ群落から田沢湖を写したものです。

「ウクライナカラーが日本のあちこちに」

2022年05月12日 | 写真
ウクライナカラーとはウクライナの国旗の黄色と青色のことです。現在この2色にした城や建物が日本のあちこちにあります。ロシアよってに軍事侵攻を受けたウクライナを応援しているのです。
その写真をお送り致します。

1番目の写真はウクライナカラーに照明された熊本城です。
2番目のウクライナカラーのスカイツリースカイツリーです。

3番目の写真はウクライナカラーの東京都庁です。

4番目の写真はウクライナカラーに照明された京都の二条城です。

「北海道のロマン(5)哀愁漂う小樽、小林多喜二の『蟹工船』」

2022年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
小樽は哀愁漂う古い街です。旧懐の情をかきたてる街です。そんな雰囲気に誘われて何度も訪れました。 
小樽市は江戸時代には松前藩の商業港として栄えた古い町です。札幌の海の玄関口でした。小樽港は開拓民の上陸や物資陸揚げの港だったのです。
しかし青函トンネルが出来、函館と札幌間の鉄道が完成すると忘れられた町になったのです。それ以前の小樽は北海道経済の中心都市として発展していたのです。小樽には明治、大正や昭和初期の建物が並んでいます。
そんな歴史があるので小樽は何度行っても旧懐の情や哀愁の情が掻き立てられます。郷愁というかノスタルジアというか、心の奥の方に赤い火がポッと灯ります。

今日は小樽の風景写真と小樽で育った小林多喜二の『蟹工船』をご紹介したいと思います。写真は2010年の6月17日の夕暮れに家内が撮りました。
1番目の写真は小樽の運河です。大きな貨物船を沖に止めて伝馬舟で物資を運んだ運河です。
2番目の写真も運河です。運河にそって大きな倉庫が並んでいます。貨物船で運ぶ物資を保管していた倉庫です。昔は小樽が北海道の玄関だったのです。
3番目の写真は明治時代に役所だった建物です。旧懐の情が湧いてきます。
4番目の写真は昔ホテルだった建物です。1階だけが観光客のための土産物屋になっていました。

5番目の写真は小樽のあちこちにある石造りの倉庫です。1階だけが菓子屋になっていました。
写真で示した古い雰囲気の街を丁寧に歩きまわりました。そして昼食にある寿司屋に入りましました。
店の中を何気なく見回すと壁に小林多喜二の写真や彼の資料の写真が貼ってあるのです。聞くと小林多喜二がよく来た店だったのです。
小説の『蟹工船』を書いた小林多喜二は小樽に住んでいたのです。そんな訳で小林多喜二のことを少し書きたいと思います。

小林多喜二は1903年10月13日、秋田県に生まれ4歳のときに一家で小樽に移住し小樽で育ち作家として立ちました。プロレタリア文学の旗手と目され1930年に上京、翌年、当時非合法であった日本共産党に入党、困難な地下生活を余儀なくされながらも旺盛に執筆活動を展開しました。そして特高に逮捕されひどい拷問を受け、1933年2月20日に29歳で没しました。日本にはそんな暗い時代があったのです。1933年といえば昭和9年です。日中戦争が始まる直前です。そして太平洋戦争画が続いたのです。
さて『蟹工船』のあらすじです。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%B9%E5%B7%A5%E8%88%B9 )
蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用された船です。
漁獲したカニの加工設備を備えた大型船です。搭載して行った小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに蟹工船で蟹を缶詰に加工するのです。その一隻の「博光丸」が小説の舞台です。
蟹工船は「工船」であって「航船」ではないのです。だから航海法は適用されず、危険な老朽船を改造して投入されたのです。また工場でもないので、労働法規も適用されなかったのです。
蟹工船は法規の真空地帯であり、船内では、東北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者が過酷な条件で働いていました。資本者側の非人道的酷使がまかり通っていたのです。またロシアを警戒する日本の国策から北洋漁業振興を支援し、政府も資本者側と結託して事態を黙認する姿勢でした。
情け知らずの監督である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは過酷な労働環境の中で酷使します。労働者は暴力、虐待、過労や病気で次々と倒れて行きます。
転覆した蟹工船をロシア人が救出したことがきっかけで日本人労働者は異国の人も同じ人間と感じるのでした。そしてロシア人から「プロレタリアートこそ最も尊い存在」と教わるのです。しかし日本人の船長がそれを「赤化」とみなします。
当初は無自覚だった労働者たちはやがて権利意識に覚醒し、指導者のもとストライキ闘争に踏み切ります。会社側は海軍に無線で鎮圧を要請し、派遣されてきた駆逐艦から乗り込んできた水兵にスト指導者たちは逮捕されます。こうして最初のストライキは失敗に終わったのです。労働者たちは作戦を練り直し、再度のストライキに踏み切るのでした。・・・以下省略。
こんな小説を現在読む人はあまりいません。日本の暗い時代の歴史を知って頂くためにご紹介しました。なお小林多喜二の資料の常設展示は小樽文学館にあります。(http://otarubungakusha.com/past/200302398  )

小林多喜二は死の間際まで執筆活動を続けました。それにしても彼の作品の中に込めた弱者救済の思想は現代社会においても通じるものがあると思います。

今日は曾遊の地、小樽の6月の風景をお送り致しました。そして小樽で育った小林多喜二の「蟹工船」をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ウクライナの野山に咲く花々の写真」

2022年05月11日 | 写真
ウクライナの都市はロシアの攻撃で荒廃していますが、野山には花々が咲いています。その写真です。
出典は次です。
https://jp.123rf.com/photo_27975171_%E6%98%A5%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%81%AE%E8%8D%89%E5%8E%9F%E3%80%82%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%81%AE%E6%88%90%E5%88%86%E3%80%82.html





「黄色と青のウクライナ国旗の色のチューリップと電車」

2022年05月11日 | 写真
(1)オランダのはなし
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_627715e0e4b00fbab62f2fa8
花の国として知られるオランダで、春を代表する花・チューリップが“ウクライナカラー”に染められ、SNSで注目を集めた。
オランダで花の色彩加工などを行う会社「Hoven & de Mooij B.V.」が3月上旬、青と黄色に染めたチューリップとバラの画像をFacebookに投稿。この会社の別の投稿では「ウクライナの人々に思いを寄せています」とあります。

(2)日本のはなし

「命がけで働く鉄道員の皆さんを応援したい」
https://www.huffingtonpost.jp/entry/kotoden_jp_625e0245e4b066ecde167890
香川県の私鉄「高松琴平電気鉄道」で、ウクライナの国旗に合わせたラッピングの車両の運行が、4月19日から始まった。
担当者は、ハフポスト日本版の取材に「人々のために命がけで働いているウクライナの鉄道事業者の皆さんを少しでも応援できたら」と話している。
ロシア軍のウクライナ侵攻が始まって1カ月半近くたつが、国営ウクライナ鉄道は激戦地の東部、南部を除いて列車の運行を続けている。
殉職する鉄道員が相次ぐ中、ポーランドやスロバキアの国境付近まで、約370万人もの避難民を運ぶ。折り返しの列車では、食料品など援助物資を国内各地に届けている。
ウクライナの鉄道員の命がけの働きを応援するために、「高松琴平電気鉄道」はウクライナ国旗の列車を走らせることになったという。




「北海道のロマン(4)荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラへの旅」

2022年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その南に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという枯れたトドマツの原とナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。不気味です。
その白骨のような林が野付湾を一層荒涼とさせています。人間の住む世界ではありません。
しかし野付湾には美味しい縞エビが棲んでいて、夏と秋にはその味を楽しむことが出来ます。

今日は荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラの不気味な風景と野付湾の縞エビ漁の白帆の打瀬帆舟の写真をご紹介したいと思います。そしてそこから見える国後島への想いを記しました。
まず下にの野付湾の全体の風景写真を示します。

1番目の写真は野付湾です。この野付湾の写真の出典は、http://betsukai.jp/blog/0001/archives/2009/06/images/1245371831.jpg です。
写真のような野付湾を右手に見ながら細い砂洲の上の舗装道路をえんえんと辿って行くとやがて右手にナラワラがあります。下にその光景を示します。

2番目の写真は自分が撮ったナラワラの光景です。よく見ると写真のようにナラ林全てが立ち枯れになっている場所です。ナラワラを通り過ぎ、野付灯台の傍まで行くと立派なビジターセンターがあります。
その駐車場に車を停めて、ハマナスの紅い花と実を見ながら、ぬかるみの小道を1.2kmほど歩くとトドワラがあります。下の写真です。

3番目の写真は家内が撮ったトドワラです。立ち枯れたトドマツの木があります。木道は高く狭いので、強い海風が吹き付けると落ちそうになり怖かったそうです。

4番目の写真は木道の先端から見た荒涼としたトドワラの風景です。家内が撮った写真です。
トドワラのある半島を野付半島と言いますが、その内側は野付湾と言います。地元では尾岱沼(おだいとう)と呼んでいます。その野付湾では帆舟の打瀬帆舟による縞エビ漁が盛んなのです。
初夏と秋が北海シマエビ漁の猟期です。舟の舳先から船尾にかけて幅の広い網を海中に降ろし、船を横向きにして幅広い網を帆の受ける風の力で静かにゆっくり引っ張って行くのです。雄大な海の中に浮かんだ白帆の風景が素晴らしいのです。

5番目の写真は北海シマエビ漁の打瀬帆舟です。出典は、http://ugk70671.blog117.fc2.com/blog-entry-282.html です。夏漁は例年6月中旬~7月中旬で、秋漁は例年10月中旬~11月上旬です。

6番目の写真は野付湾に散らばった打瀬帆舟のの風景です。この打瀬帆舟の風景は季節の風物詩として有名なのです。出典は、http://www.hokkaidolikers.com/articles/180 です。
ビジターセンターに戻って、シマエビ定食を昼食として食べました。茹でたシマエビが美味しかったです。

この野付半島の向かい側、16km沖にはロシア領の国後島があります。戦前は日本領だったので野付港は国後島の町や村に行く船の発着場として賑わっていました。
訪れたビシターセンターの2階には昔日本領だった択捉島や国後島の町や村落の写真が沢山置いてあります。丁寧に見て行くと択捉・国後には多くの日本人が住み、鮭やニシンを取っていたことが判ります。

7番目の写真は野付半島のビシターセンターの2階から家内が撮った国後島です。日本人の先祖代々のお墓も沢山残っているに違いありません。ロシアは返還しません。
墓参りくらいは行けるのでしょうか?そんな事を考えながら砂洲にに伸びた道を帰って来ました。

今日は荒涼とした最果てのトドワラ、ナラワラの不気味な風景写真と野付湾の縞エビ漁の帆船の写真をご紹介しました。そしてそこから見える国後島への想いを記しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りします。後藤和弘(藤山杜人)

「共産党独裁の中国の自由な暮らし、しかし独裁は人類の不幸」

2022年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム
マルクスの共産主義は宗教を否定し資本主義を否定しています。
しかし共産党独裁の中国は資本主義化し宗教は自由です。私が中国に行った1980年当時から中国は資本主義で宗教は自由でした。しかし中国は共産党独裁の国でした。現在も共産党独裁の国です。

今日はまず中国の宗教の実態を書きたいと思います。そして独裁主義は人類を不幸にすることを書きます。
さて中国の共産党独裁の特徴は「政府の全ての政策に反対しない限り人民へ自由を与える」という方針にあります。
宗教の自由の実態を示すために現在の中国にあるキリスト教の教会とイスラム教の寺院とお寺の写真を示します。

1番目の写真は天津にあるキリスト教の天津西開教会です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/西開天主教堂 です。

2番目の写真は天津西開教会の内部です。

3番目の写真青海省の西寧にある巨大イスラム教の寺院の東関清真大寺です。
写真の出典は、https://www.china-arekore.com/entry/xining_mosque です。

続いてお寺の写真を示します。

4番目の写真は深圳の仙湖植物園の中にあるお寺です。写真の出典は、http://aabbcc358.n-da.jp/e116239.html です。
高齢者だけじゃなく、若い人もたくさんの人がお参りにに来ています。

5番目の写真は洛陽にある白馬寺です。出典は、https://www.arachina.com/culture/religion/temple.htm です。
白馬寺は、東漢永平11年(西暦68年)に中国河南省の洛陽市の郊外に中国で最初に建てられたお寺で、中国仏教の「祖庭」と「釈源」と呼ばれています。中国で第一級の古刹です。主な建物は天王殿、大仏殿、大雄殿、接引殿、毗卢閣、斎曇塔などです。

これら5枚の写真が示すように中国には信仰の自由があります。
しかし、それには厳しい条件が付いているのです。「政府の全ての政策に反対しない限り信仰の自由を与える」という条件です。
神の存在や宗教を否定するのが本来の共産主義です。
しかし多くの人々は宗教を信じ、家族の幸福を祈りながら穏やかに暮らしているのです。
そこで中国の宗教の信者のことをもう少し詳しく見てみましょう。
中国では道教が仏教と儒教とともに三大宗教と言れています。ですから大部分の中国人はこの三大宗教を信じています。そのどれかを信じる人もいますが、多くは三大宗教を同時に信じています。
中国の仏教はおもにチベット仏教(ラマ教)と大乗仏教です。
その他に2300万人ほどのキリスト教信徒や1800万人ほどのイスラム教徒がいます。
中国の宗教に対する政策の概略は末尾につけた参考資料をご覧下さい。
最近、中国は宗教ブームでいろいろな宗教が活性化し、それぞれの信者数が急増しているようです。
中国の民主化を主張したり、独裁政治を批判しない限り、自由に宣教し、自由に信仰して良いのです。
ただし全ての宗教組織は政府へ届けるのが命令されています。
この宗教の流行は今後も続き、中国では宗教はますます盛んになると思われます。

以上のように中国は共産党独裁のもとで多くの人々は宗教を信じ、家族の幸福を祈りながら穏やかに暮らしているのです。
これで良いと言うのは早計で危険な考えです。共産党独裁が最悪なのです。
今回のロシアのウクライナ侵攻はロシアの共産党独裁、すなわちプーチン大統領独裁だから起きた悲劇なのです。独裁者一人の意思で気軽に戦争が出来るのです。これが共産党独裁の国の恐ろしさなのです。
共産党独裁の国はロシアや中国だけではありません。北朝鮮もベトナムも怖い存在です。そして独裁国家のミャンマーもタイも怖い存在です。
人類を不幸にするのは独裁国家なのです。
民主主義は決して理想的ではありません。いろいろな欠陥もあります。しかし民主主義の方がまだマシです。民主主義の方が人類を不幸にする可能性がより少ないのです。
今回のロシアのウクライナ侵攻は独裁政治の怖さを明快に示したのです。
共産党独裁の中国には自由な暮らしがあります。しかし独裁は人類の不幸にするのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
======参考資料:「中国の宗教政策」===========
 1997年10月発表の中華人民共和国・国務院報道弁公室の宗教に対する政策の概略;http://j.people.com.cn/special/religion/baishu.html

1.中国の宗教の現状
2.宗教信仰の自由の法的保障
3.司法と行政による宗教信仰の自由の保障および監督
4.独立自主運営の宗教事業に対する支持
5.少数民族が宗教を自由に信仰する権利の保護

1.中国の宗教の現状

中国では様々な宗教が信仰されている。中国には主に、仏教、道教、イスラム教、カトリック、キリスト教の信者がいる。中国公民は、信仰する宗教を自由に選び、自分が信じる信仰を表現することができ、また宗教的身分を明らかにすることができる。統計によると、国内には宗教を信仰している人々は1億人おり、宗教活動施設は8万5千ヶ所、宗教関連の教職員はおよそ30万人、3千以上の宗教団体がある。これらの宗教団体は、宗教関連の教職員を育成するための宗教学院・大学74ヶ所を運営している。

――中国では、仏教は2千年の歴史を誇る。中国には現在、仏教寺院がおよそ1万3千ヶ所あり、出家した僧侶・尼僧は20万人、そのうち西蔵(チベット)系仏教のラマ僧は12万人、活仏は1700人、寺院は3千ヶ所、巴利語系仏教の比丘(びく)や長老はおよそ1万人、寺院は1600ヶ所に上る。

――道教は中国で生まれた宗教であり、その歴史は1700年以上も前に遡る。国内には道教寺院1500ヶ所があり、2万5千人以上の乾道、坤道の道士がいる。

――イスラム教は7世紀に中国に渡った。イスラム教は主に回族、ウイグル族など10の少数民族の間で信仰されている。これらの少数民族の人口はおよそ1800万、モスクは3万ヶ所、およそ4万人の伊瑪目や阿ごう(勹+言)がいる。

――カトリックは7世紀に中国に渡り、1840年のアヘン戦争後、信者の規模が増えた。中国には現在、カトリック信者400万人、教職員4千人がおり、教会などの活動施設4600ヶ所がある。

――キリスト教は19世紀に中国に入り、アヘン戦争後、信者数が増加した。中国には現在、キリスト教信者1千万人、宣教師1万8千人がおり、教会1万2千ヶ所、活動場所や集会所2万5千ヶ所がある。

中国で全国的な活動行なっている宗教団体には、中国仏教協会、中国道教協会、中国イスラム教協会、中国カトリック愛国会、中国カトリック教主教団、中国キリスト教三自愛国運動委員会、中国キリスト教協会などがある。各宗教団体は、独自の規定に基づいて、指導者や指導機関担当者を選挙、選出している。

中国の各宗教団体は自主的に教務活動を進めており、必要に応じて、宗教学校の開校、宗教経典の発行、宗教的刊行物の出版、社会公益事業を行なっている。中国は各国同様、宗教と教育の分離を原則としており、国民教育に宗教教育が持ち込まれることはない。一部の大学や研究機関では、宗教学教育や研究が行なわれている。各宗教組織が運営する宗教学校では、その宗教の必要性に基づいて、宗教的な専門教育が行なわれている。宗教教職員による正常な教務活動については、宗教活動の場所で、あるいは宗教的習慣に基づいて信者の自宅で、あらゆる正常な宗教活動が行なうことができ、これらは法的により保護されており、いかなる干渉も受けない。

1966年から1976年にかけての「文化大革命」では、宗教をはじめ、中国社会のあらゆる分野が大きな被害を受けた。中国の各級政府は「文化大革命」の誤りを訂正する過程で、宗教信仰の自由を保障する政策を復活させ、政策を確実に実行するために、大きな努力を払った。

長い歴史の中で、中国にあるあらゆる宗教文化は、中国の伝統的思想や文化の一部に組み込まれている。中国の宗教信者の間には、国と宗教を愛する伝統がある。中国政府は、宗教界の信者が団結して積極的に国家建設に参加することを支持し、推奨している。

中国では、あらゆる宗教の地位は平等で、調和と共存を基礎としているため、これまでに宗教的紛争が発生したことはない。宗教を信じる人々と信じない人々はいずれも互いを尊重し、団結して付き合っている。
・・・以下省略・・・・ 



「ウクライナの戦乱は第二次大戦の犠牲者数を思い出させる」

2022年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム



ウクライナの戦乱の凄惨な現場の写真を見るたびに私は第二次世界大戦の犠牲者数を思い出すのです。戦争が起きると軍人だけでなく多くの民間人も犠牲になるのです。
下の第二次世界大戦の国別の犠牲者数の表をご覧下さい。この一覧表は一番正確な犠牲者数として外国のインターネットでよく引用されている一覧表です。
この一覧表では1、国の名前、2、軍人と兵士の死者数、3、民間人を含めた死者数の合計の3項目が順に示したあります。
(https://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/research-starters-worldwide-deaths-world-war )

Japan、日本
 212万人
 260万人ー310万人

Korea(朝鮮出身の日本兵や軍属)
  38万人-47万人

Canada カナダ
 45,400
 45,400

China、中国
 3-4,000,000
 20,000,000

インドネシア
 --
 3-4,000,000

France、フランス
 217,600
 567,600

仏領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)
 --
 1-1,500,000

Germany、ドイツ
 553万人
 660万人-880万人

India、インド
 87,000
 1,500,000-2,500,000

Italy、イタリー
 301,4003
 457,000

Malaya、マレー半島
--
 100,000

Philippines、フィリピン
 57,000
 50万人-100万人

Poland、ポーランド
 240,000
 5,600,000

Soviet Union、ソ連
 8,800,000-10,700,000
 2400万人

United Kingdom(イギリス)
 383,600
 450,700

United States(アメリカ)
 416,800
 418,500

全世界の総合計、6000万人の死者
内訳、 Battle Deaths、15,000,000
    Battle Wounded、25,000,000
    Civilian Deaths(民間人の死者)、45,000,000

脚注;Worldwide casualty estimates vary widely in several sources.
The number of civilian deaths in China alone might well be more than 50,000,000.

この一覧表を注意深く見ると日本ではあまり知られていない事実が沢山あるのです。
気が付いた順に記します。
(1)日本の占領地のフィリピンとインドネシアで民間人の死者がそれぞれ最大で、100万人と150万人だったのです。
(2)日本領だった朝鮮の人が兵士や軍属として最大47万人以上死にました。
(3)インド人は英国兵として87000人死にましたが、民間人も250万人死にました。
(4)中国人は400万人の兵士が死に民間人を含めた合計が2000万人となっております。これが世界の常識になっています。
(5)ドイツに占領されたソ連では合計2400万人の人が死にました。
(6)日本人はあまり知りませんが犠牲者の多かった国々は次の通りです。
ブルガリア、チェコソロバキア、フィンランド、ギリシャ、ハンガリー、ラトビア、リトアニア、オランダ(インドネシアに居た人も含む)、ポーランド、ルーマニアなどです。
これらの国々の幾つかはドイツ側に立って戦争をしたのです。
(7)全世界の総合計です。兵士の死者は15,00万人で民間人の死者は45,00万人でした。総合すると全世界で6000万人の人が死んだのです。

そして第二次大戦後、責任を取って自殺したドイツの民間人の数は直後の4日間だけでさえ;ベルリンで1200人、ライプチッヒで600人、ハンブルグで450人、ケルンで300人が自殺したと新聞に出ていたそうです。4日間だけでの総計が2550人です。
それに比較して日本では愛宕山にこもった民間人10人位とその他に僅かと言われています。
さらにシベリア抑留でドイツ兵が55万人死に、日本人は5万人死んだのです。

昭和時代の人類は狂気のように殺しあったのです。国家対国家の大規模な戦争によって殺しあったのです。
その昭和時代の太平洋戦争の為に海外で亡くなった日本人240万人の犠牲者のうちまだ113万5千人の遺骨が日本へ帰って来ていないのです。
父や夫や息子や家族を戦争で失った遺族にとっては太平洋戦争は終わっていないのです。113万5千柱の遺骨が還らぬ限り太平洋戦争は終わっていないのです。

昭和という時代は以上のような戦争の時代でした。それにしても昭和時代の前半はひどい時代でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)








「ウクライナの難民は満州からの引揚げ難民を思い出させる」

2022年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
1945年8月25日、昭和天皇は海外で武装解除した日本陸海軍の将兵に対して諭した。 「兵を解くにあたり一糸乱れざる統制の下、整斉迅速なる復員を実施し、以て皇軍有終の美を済すは、朕の深く庶幾する所なり」
この勅諭にもとづいて、満州・朝鮮に約100万人、中国に約110万人、南方諸地域に約160万人の合計約370万人もの陸海軍将兵は、粛々と日本国土に還ってきた。これを「復員」といった。
一方、中国や満州その他の外地には多くの民間の居留民がいた。その数約300万人。これら多数の老若男女が、「引き揚げ」の名のもとに、まったく保護なしに難民として母国へ帰ってきた。
私はウクライナからの500万人以上の難民の写真を見ると満州からの引揚げ難民を思い出すのです。
更に中国への日本軍の武力侵攻による多数の中国人難民の苦難を思い粛然となります。
満州からの引揚げ難民の写真の出典は、







「今日はゆっくり桐の花の写真をお楽しみ下さい」

2022年05月08日 | 写真
桐の 原産地は中国です。
写真の出典は、https://kurashi-no.jp/I0020239 です。
花言葉は「高尚」です。
花言葉は中国の神話から来ています。伝説上の「鳳凰」は桐の木にだけ止まるのです。ですから桐は神聖な木です。このことから花言葉は「高尚」なのです。