後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「イグナチオ教会の今日の復活節第4主日のミサ の動画配信」

2022年05月08日 | 日記
今日は復活節第4主日です。
5月8日朝10時以後でしたらミサの動画配信で何時でもミサにあずかることが出来ます。
イグナチオ教会の今日の復活節第4主日のミサ の動画配信は以下にあります。
https://www.youtube.com/watch?v=6nZC49wGmg0
なお関口教会からも動画配信があります。
写真はいろいろなユリの花です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りきたします。後藤和弘(藤山杜人)





「『うるわしの五月』、Im wunderschönen Monat Mai」

2022年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
皐月はすがすがしい日が続きます。花々が咲き新緑が美しく輝きます。
つい口に浮かぶ言葉は高校のドイツ語で習った、Im wunderschönen Monat Mai という言葉です。
それはハイネの詩の冒頭の言葉です。

Im wunderschönen Monat Mai、Heinrich Heine

Im wunderschönen Monat Mai,
Als alle Knospen sprangen,
Da ist in meinem Herzen
Die Liebe aufgegangen.

Im wunderschönen Monat Mai,
Als alle Vögel sangen,
Da hab’ ich ihr gestanden
Mein Sehnen und Verlangen.

船津 建さんの訳です。
うるわしの五月、 H.ハイネ

うるわしの五月    
つぼみはじける頃    
わが心には      
恋の芽生えぬ     

うるわしの五月    
ことりさえずる頃    
われ打ち明けぬ    
焦がるる思ひ

今日はこの詩をお送りして終わりと致します。写真は長野県の森の杏の里のアンズの花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 





「日記、午後から多摩湖までドライブに行く」

2022年05月06日 | インポート
午前はブログに、「北海道のロマン(3)札幌の大通り公園 、北大植物園、ポプラ並木、開拓村」という記事を書きました。

午後から多摩湖(村山貯水池)までドライブに行って来ました。
ドライブだけを楽しんで帰って来ました。
前に撮った新緑の多摩湖(村山貯水池)の写真をお送り致します。





「北海道のロマン(3)札幌の大通り公園 、北大植物園、ポプラ並木、開拓村」

2022年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
札幌にはロマン溢れる都市です。まず中心にある大通り公園が四季を通じて楽しい場所なのです。札幌はその広大な大通り公園の回りに高層ビルが美しく並んでいるのです。
そばには北海道大学の植物園があり、明治を偲ばせるレンガ建ての道庁があります。花の咲いている百合が原公園 や八紘学園花菖蒲園 もあります。
北海道大学の有名なポプラ並木もロマンチックです。郊外には手稲山ジャンプ台があり眺望絶佳です。さらに北海道開拓村が北海道の開拓の歴史を展示しています。それではこれらの写真を示しましょう。
1番目の写真は札幌の百合が原公園 です。
写真の出典は、https://uu-hokkaido.jp/flower/summer.shtml、 悠悠北海道 です。

2番目の写真は札幌の八紘学園花菖蒲園 です。
写真の出典は、https://uu-hokkaido.jp/flower/summer.shtml、 悠悠北海道 です。
3番目の写真は北海道大学の植物園です。自分で撮った写真です。
4番目の写真は北海道大学の植物園のニレの大木です。自分で撮った写真です。

5番目の写真は大通り公園 のイルミネーションです。自分で撮った写真です。

6番目の写真も大通り公園 のイルミネーションです。自分で撮った写真です。

7番目の写真は北海道開拓村の中心の大通りです。通りの左右に明治の北海道開拓時代の建物が移築されています。当時の札幌の街の雰囲気です。
出典は、https://bunblo09.exblog.jp/30617618/ です

8番目の写真は北海道開拓村の馬に引かれた乗り合い橇です。開拓村では冬の体験をさせる企画がいろいろ行われています。
出典は、https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_2345/ です。

さて北海道開拓村とアイヌ民族の運命について説明をお送り致します。
北海道開拓村には明治の北海道開拓時代の札幌の街並みや北海道各地の古い建物が移築され展示してあります。
政府が建てた役所は堂々として立派ですが一般の民家は木造の小さな家です。
これらの北海道開拓村の雪景色を見ると南から北海道に移住し開拓に努力した明治の人々の苦労が偲ばれます。北海道の開拓は生易しいものではなかったのです。
しかし一方、そこに平和に住んでいたアイヌ民族にとっては日本人による開拓は悲劇の始まりでした。アイヌ民族の人権は蹂躙され生活が困窮したのです。
現在の北海道には人々が豊かな暮らしをしています。幸せな土地になりました。しかしアイヌ民族の悲劇的な運命を私は忘れることが出来ません。
北海道には明治32年から平成9年、1997年まで北海道土民保護法という法律が存在していました。
具体的には 次のことを実行するための法的根拠だったのです。
1、アイヌの土地の没収
2、アイヌの収入源である漁業・狩猟の禁止
3、アイヌ固有の習慣風習の禁止
4、日本語使用の義務
5、日本風氏名への改名による戸籍への編入
1997年5月の〈アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律〉(略称,アイヌ文化振興法)の成立にともない廃止となりました。しかし北海道土民保護法は長い間、アイヌ民族の人権を蹂躙しアイヌ民族の財産を収奪して来たのです。1997年の廃止は遅すぎました。

明治の開拓以後は次第に伝統的なアイヌ民族の文化が消えて行きました。北海道開拓のために入植した日本人によって土地を奪われ、狩猟を禁止され、川を遡るサケを捕ることさえも禁じられたのです。アイヌの村落は貧しい生活を強いられていました。
しかし、第二次大戦中までは北海道にはアイヌ人達だけの村落があちこちにあったのです。
そして、昔アイヌ村落のあった日高の平取や白老、そして旭川の郊外などには現在は民族博物館があります。アイヌ村落を復元した展示もあります。特に白老の国立アイヌ民族博物館は2020年7月からウポポイというアイヌ民族の芸能や生活を再現して見せる活動を大規模に実施しています。
以前、北海道の日高の平取町二風谷で、町営のアイヌ歴史博物館を見ました。その向かいには、純血のアイヌ人が個人的に経営しているアイヌ文化の博物館もあります。
アイヌ民族と和人は縄文時代までは同じで一緒でした。弥生時代以後、和人とアイヌ民族は離れ離れになり独自の文化を育てていったのです。この話は長くなるので止します。

今日は北海道の大通り公園 、北大植物園、開拓村などの写真を示しました。そしてアイヌ民族の悲劇的な運命を少しご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「北海道のロマン(2)摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖などの美と静寂」

2022年05月05日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道のロマンはいろいろあります。大自然の美も重要なものです。特に美しい湖が沢山あり北海道をロマンチックにしています。湖の周囲には人影も無く静寂に包まれているのです。私は北海道の湖にすっかり魅了され湖を巡る旅に何度も行って来ました
ある時は北海道の東部の川湯に3泊し、野付湾、オダイ沼、風蓮湖、シラルトロ湖、塘路湖、達古武湖、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖、網走湖、能取湖、などをめぐって来ました。そしてオンネトーの湖などの幻想的な美しさに魅了されました。2012年9月のことでした。
今日はこれらの湖の写真をお送りします。全て家内が撮ったものです。

1番目の写真は阿寒湖です。阿寒湖は国の特別天然記念物の球状のマリモが生きている唯一の湖として有名です。
阿寒湖は摩周湖や屈斜路湖とともに美しい湖です。湖岸に大きな阿寒湖温泉街があり、春夏秋冬、一年を通じて多くの観光客を集めています。阿寒湖に行ったら、是非、観光船に乗り、沖にある チュウルイ島マリモ展示観察センターを訪問して下さい。

2番目の写真は屈斜路湖です。湖水の周りは原生林が取り囲んでいるので、観光客の入れる場所は和琴半島と、コタンアイヌ民俗資料館のある場所と、砂湯という場所しかありません。その湖岸に出るのに根気よく原生林の中の道を行かねばなりません。湖岸に出ると屈斜路湖が静かに青い水を湛え、はるか沖に中島が横たわっています。
そして網走方面へ抜ける道の美幌峠に上ると頂上に「パノラマ展望台」があり、眼下に写真のように碧く輝く屈斜路湖の全景を楽しむことが出来ます。

3番目の写真は摩周湖です。カルデラの崖の上にある第三展望台から撮った写真です。摩周湖は、北海道弟子屈町にある湖です。日本で最も透明度の高い湖です。急激に深くなっていることとその透明度から青以外の光の反射が少なく、よく晴れた日の湖面の色は「摩周ブルー」と呼ばれている。
約7000年前の巨大噴火によって生成された窪地に水がたまったカルデラ湖です。流入・流出する河川がない閉鎖湖であり、周辺の降雨が土壌に浸透した後に十分にろ過されて流入するため透明なのです。

4番目の写真は風蓮湖です。風蓮湖は白鳥の飛来地として有名です。そのせいで何故か素晴らしい湖という印象が心に焼き付いていました。しかし何も無い寂寥とした風景が広がっているだけです。東からの海風が強く湖面を波立せているだけです。白鳥の写真から勝手にロマンチックで華やかな風景を想像していた私の愚かさを独りで笑います。寂寥とした 印象深い写真になりました。

5番目の写真は能取湖(ノトロ湖)です。網走湖の北隣にあってオホーツク海へつながっている能取湖(ノトロ湖)は観光地ではありません。岸辺に立って沖を見やればただ広い海の水が静かな風波をたたえているだけです。
兎に角、うるさい観光地から逃れて、独り大自然の中に身を置くには丁度良い場所です。そして、しばし考え込ませる場所です。人間の小ささや、人生の一瞬の輝きがあまりにも儚いという実感に身が震えます。そして浩然たる気分になるのです。

6番目の写真はシラルトロ湖です。川湯から弟子屈町、標茶町と国道を南下すると広大なシラルトロ湖が右側に見えて来ます。シラルトロ湖を過ぎて、しばらく走ると今度は左側に「塘路湖入口」という看板があります。見落とさないで車を入れます。すると塘路湖があります。塘路湖から再び国道に上がり、さらに南下すると「達古武湖キャンプ場入口」という看板が右手に見えます。そこを入り、2km位行くと達古武湖が広がっています。

7番目の写真は網走湖です。網走湖は観光客が行かない湖です。大きなシジミだけが名物の地味な湖です。網走湖の湿地帯では水芭蕉の花が咲きます。国道から呼人半島の付け根の方向へ少し入った雑木林の下に広がる湿地帯に一面に咲いています。観光地でないので案内の看板も無く、近所の人だけが散歩する細い悪路が林に中に続いていました。

8番目の写真はオンネトーの紅葉です。この写真だけは家内が撮った写真でありません。写真の出典は、https://photoin.exblog.jp/19121491/ です。
北海道東部の阿寒摩周国立公園内にある周囲2.5kmの湖です。大自然に囲まれ、変化する湖面の色と共に神秘的な景色を見せてくれます。特に神秘的なのは波がないときに周りの景色が湖面に映りこむさまです。雌阿寒岳の噴火により螺湾川の流れが止められてできた湖です。十勝地区足寄町の東部にあり、阿寒湖からも車で約30分で訪れることができます。

今日は「北海道のロマン」(2)として、阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖、風蓮湖、シラルトロ湖、網走湖、能取湖、そしてオンネトーの湖の美しさを写真でご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「都立薬用植物園の今日の木の花々」

2022年05月04日 | 写真
都立薬用植物園の今日の花々です。
青空に誘われて午後から都立薬用植物園に遊びに行きました。花々が咲き新緑が清々しい植物園です。車で30分くらいの場所にあります。
木の花の写真をお送り致します。
1番目の写真はベニバナトチノキです。(マロニエ・カスタニーエ・バックアイ)
2番目の写真はベニバナトチノキの花のクローズアップです。
3番目の写真はナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)の大木です。
4番目の写真はナンジャモンジャの花のクローズアップです。

5番目の写真はギョリュウ(御柳)です。

6番目の写真はギョリュウのクローズアップです。

「北海道のロマン(1)アイヌの美しい文学作品」

2022年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道はロマン溢れる北の国です。私の憧れの地です。
北海道に行くたびに風景に新しい感動を受けます。ヨーロッパのようです。氷河にけずられた丘がなだらかな曲面を見せ、かなたに白樺林が光っています。四季が巡るにしたがって風景も華やかに変わって行きます。
そこで今日から「北海道のロマン」と題で連載記事を書いていきたいと思います。
連載記事の第一回は北海道の先住民族のアイヌの美しい文学作品をご紹介します。『アイヌ神謡集』と『若きウタリ』をご紹介したいと思います。

さて『アイヌ神謡集』は知里幸恵さんの翻訳による叙事詩です。彼女は、東京の金田一京助氏の自宅へ招ばれ、翻訳、編集作業中に19歳で病死したアイヌの少女です。アイヌ語から日本語へ翻訳した数多くの叙事詩、「アイヌ神謡集」の冒頭の詩です。後半は省略しましたが、http://www.nextftp.com/y_misa/sinyo/sinyo_01.html をクリックすると全文を見ることができます。

知里幸恵著、『梟の神の自ら歌った謡』

「銀のしずく降る降るまわりに,金のしずく
降る降るまわりに.」という歌を私は歌いながら
流に沿って下り,人間の村の上を
通りながら下を眺めると
昔の貧乏人が今お金持になっていて,昔のお金持が
今の貧乏人になっている様です.

海辺に人間の子供たちがおもちゃの小弓に
おもちゃの小矢をもってあそんで居ります.
「銀のしずく降る降るまわりに
金のしずく降る降るまわりに.」という歌を
歌いながら子供等の上を
通りますと,(子供等は)私の下を走りながら
云うことには,

「美しい鳥! 神様の鳥!
さあ,矢を射てあの鳥
神様の鳥を射当てたものは,一ばんさきに取った者は
ほんとうの勇者,ほんとうの強者だぞ.」
云いながら,昔貧乏人で今お金持になってる者の
子供等は,金の小弓に金の小矢をつがえて私を射ますと,金の小矢を
私は下を通したり上を通したりしました.・・・以下省略。

この「アイヌ神謡集」の序文に19歳で夭折した知里幸恵さんは次のように書いています。

 その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀る小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬ぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃をわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,まどかな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.平和の境,それも今は昔,夢は破れて幾十年,この地は急速な変転をなし,山野は村に,村は町にと次第々々に開けてゆく.・・・以下省略
詳しくは、http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/44909_29558.html をご覧下さい。

この「アイヌ神謡集」を読むと、アイヌ民族は自然とともに幸せに暮らしていたことに感動します。フクロウやいろいろな神々をうやまい、家族を大切にし、心豊かに生活していたのです。そして動物たちと人間のかかわりあいが美しく謳いあげあるのです。美しい文学です。

そして続けて短歌を「若きウタリに」(向井バチェラー八重子)からご紹介します。(https://researchmap.jp/kaizen/八重子若きウタリに )

ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき
野の雄鹿 牝鹿子鹿の はてまでも おのが野原を 追はれしぞ憂き
せまき野も ありなば飼はむ 親子鹿 赤き柵など 廻らしてしも

野より野に 草食み遊びし 鹿の群 今はあとだに なき寂しさ
國も名も 家畑まで うしなふも 失はざらむ 心ばかりは

古の ラメトク達の 片腕も ありてほしかり 若きウタリに
夏ながら 心はさむく ふるふなり ウタリが事を 思ひ居たれば
いにしへの ユーカラカムイ 育てにし 姉君今も 在らまほしけれ

愛らるる 子より憎まるる 子は育つ などてウタリの 子は育たぬぞ
ウタリ思ひ 泣き明したる この朝の やつれし面わ はづかしきかな

たつ瀬なく もだえ亡ぶる 道の外に ウタリ起さむ 正道なきか
灰色の 空を見つむる 瞳より とどめがたなき 涙あふるる
寄りつかむ 島はいづこぞ 海原に 漂ふ舟に 似たり我等は

作者の向井バチェラー八重子の詳しい経歴は、https://ja.wikipedia.org/wiki/バチェラー八重子 にあります。略歴を紹介します。
1884年(明治17年)6月13日に北海道に生まれました。
父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロでした。母もアイヌで、フッチセという名前でした。
父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認します
1906年(明治39年)、八重子は、ジョン・バチェラーの養女となります。22歳のことでした。
1908年(明治41年)、養父母とともにシベリア鉄道経由で英国に行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命されます。
帰国後、北海道の幌別、平取の聖公会教会で伝道活動を展開します。
そして1931年(昭和6年)に、バチェラー八重子による短歌の歌集『若きウタリに』が出版されたのです。八重子47歳の時でした。
八重子は1962年4月29日、関西旅行中に京都にて死去します。77歳でした。

日本人のことを和人と言いますが、和人はアイヌ民族を差別し迫害しました。その悲劇を美しい短歌にしたのが バチェラー八重子の「若きウタリに」です。

他にもアイヌ民族による文学作品はたくさんあります。アイヌ民族の文学、北海道にまつわる文学作品などの詳細は、http://www.h-bungaku.or.jp/exhibition/pdf/list.pdf に集大成されています。
しかし長くなるので今日はこれで終わりにします。

今日の挿絵代わりの写真は北海道の新緑から夏にかけての風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)






「西洋の美しい絵画(7)色彩の魔術師アンリ・マティス」

2022年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム
アンリ・マティス(Henri Matisse, 1869年- 1954年)はフランスの画家です。フォーヴィスム(野獣派)のリーダー的存在でした。20世紀を代表する芸術家の一人です。自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」と言われていました。そして明るい色のあふれる世界を描き続けました。
1869年、フランス・ノール県のル・カトー=カンブレジ ( Le Cateau-Cambrésis) で豊かな穀物商人の長男として生まれます。 
1898年にはアメリー・パレイルと結婚します。その頃、印象派の画家カミーユ・ピサロの勧めでロンドンでターナーの研究をしたこともあります。
マティスの初期の作風は写実的なものでしたが、次第にポール・セザンヌ、ポール・シニャック、フィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャンら後期印象派の影響を受け、自由な色彩による絵画を追究するようになりました。
1954年11月3日、ニースで没します。享年85歳でした。
「色彩の魔術師」といわれた20世紀美術の巨匠アンリ・マチスの作品は音楽のように見る人を癒し幸福感を与えるのです。そんなマティスの作品を7点お送り致します。
1番目の写真は金魚鉢です。色彩が楽しいです。

2番目の写真はカラフルな食卓の準備をしている絵です。色の組合せが面白いです。
3番目の写真はダンスです。手を繋いだ男女の躍動感が描かれています。
4番目の写真は赤い部屋です。テーブルの上の果物と女性がこの絵を楽しくしています。黒い上着と白いスカートそして窓の外の風景とテーブルクロスの暗い色彩が画面を引き締めています。
5番目の写真は赤いカーペットの絵です。左にある果物の色とカーペットが見る人を癒します。
6番目の写真は音楽を楽しんでいる2人の女です。見る人に幸福感を与えます。
7番目の写真は切り絵です。晩年には美しい切り絵を沢山作りました。
如何でしたでしょうか。色彩の魔術師アンリ・マティスの作品を楽しくご覧になったと思います。

「日本人の油彩画(5)波乱万丈の藤田嗣治画伯の生涯」

2022年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は「日本人の印象派の画家は海外では知られていない」という記事を書きました。しかし藤田嗣治画伯だけは例外で海外でも有名です。
今日はこの藤田嗣治画伯をご紹介したいと思います。

藤田嗣治は1886年に東京で生まれ 1968年に没しました。現在もフランスにおいて最も有名な日本人画家です。洗礼名はレオナールです。
彼の一生は3つの時期に分けて考えてみましょう。第一期はパリの画壇で活躍した時期、第二期は日本に帰国して偏狭な愛国心で戦争に協力した時期、そして第三期は愛国心を捨てフランスに帰化して神の愛の中に生きた時期です。
今日はまずこの3つの時期に描れた油彩画を示します。

1番目の写真は『眠れる女』と題される作品です。サロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こしたそうです。この絵で藤田は一躍パリの画壇の寵児になった有名な油彩画です。特に肌の色の白さが独特な美しさを放っており他に誰にも描けない白だったのです。藤田の第一期の作品です。

2番目の写真は『カフェにて』という作品で胸もとの肌が藤田の独特の透きとおるような筆致で描いてあります。これも藤田の第一期の作品です。

3番目の写真は『秋田の行事』の一枚です。これは藤田の第二期の作品です。まだこの頃は偏狭な愛国心にとらわれていませんでした。
1936(昭和11)年7月に平野政吉が建設構想を打ち出した美術館の壁を飾るため、翌年の1937(昭和12)年に制作された作品です。

4番目の写真も『秋田の行事』の一枚です。『秋田の行事』は藤田の大作です。彼は「秋田の全貌」「歴史的秋田の意味」を描くことを意図し、約半年間頻繁に秋田を訪れ取材を重ねました。
平野邸のあった外町に視座を据え、外町から眺望した「秋田」を描き出したのです。秋田の祭りと祈り、暮らし、産業、歴史が、祝祭と日常の対比のなかに、色彩豊かに展開する壮大な壁画です。
現在は秋田県立美術館の新美術館に展示してあるそうです。

5番目の写真はノモハン事件の「哈爾哈河畔之戦闘」です。第六軍軍司令官だった荻洲立兵中将が予備役になってから自分の退職金で藤田嗣治に依頼して描いてもらった油彩画です。この頃から彼は偏狭な愛国心にとらわれ始めたのです。そして日本の軍隊の依頼に従って戦意高揚のため戦争画を沢山描いたのです。日本軍が初めて玉砕をした「アッツ 島の玉砕」の油彩画は有名です。
この絵画がアッツ島陥落後に東京で展示された時、藤田画伯は軍服のような国防色の服を着て、この絵画の前に立ったのです。 そして彼はこの絵の前に賽銭箱を置き、観覧に来た人々からの浄財を集めていたのです。人々がお賽銭を入れると藤田画伯は丁寧に敬礼をして感謝していたそうです。
戦後、占領軍は藤田画伯を戦犯として逮捕するという噂におびえて知人宅に潜んでいたそうです。
そして彼の行動が戦後非難の集中砲火を浴び、日本にいられなくなります。彼は亡命するようにフランスに移住したのです。
1955年にはフランス国籍を取り、日本人でなくなったのです。1957年にはカトリックの洗礼を受け、名前もレオナール・フジタと称したのです。

6番目の写真はフランスで彼が建てたカトリックの礼拝堂です。第三期の神の愛の中に生きていた時期の建築作品です。

7番目の写真は彼が建てた礼拝堂の内部の壁画です。礼拝堂を建設し静かな信仰生活を送り、1968年、82歳で天に帰ったのです。日本へはめったに帰って来ませんでした。

さて戦争画を率先して描き、賽銭箱の前で敬礼をしていた藤田は本当に純粋な愛国心を持っていたと思います。
彼のこの愛国心を軽率だと誰が非難できるでしょうか?私は黙するばかりです。
そして戦前に何年もフランスで暮らしている間に受けた差別の深さが彼の愛国心を育てたに違いありません。
何かが間違っているような気が致しますが、私は藤田画伯の戦後の悲劇的な運命に憐れみと同情を禁じ得ません。
しかし1957年に洗礼を受け、神の慈しみのもとで本当の平和を味わったのです。その穏やかな晩年を想うと何故かホッとしています。心が和みます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===レオナールフジタに関する参考資料===============
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB よりの抜粋です。

(1)パリの寵児
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃に確立。以後、サロンに出す度に黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。
当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯の出るバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやって来てはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。
このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬ者はいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。

(2)藤田の結婚と離婚
昭和十七年の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。リュシーは教養のある美しい女性だったが酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり[3]、その後離婚する。1931年に新しい愛人マドレーヌを連れて個展開催のため南北アメリカへに向かった。個展は大きな賞賛で迎えられ、ブエノスアイレスでは6万人が個展に行き、1万人がサインのために列に並んだといわれる。

(3)藤田の帰国
1935年に25才年下の君代(1911年-2009年)と出会い、一目惚れし翌年5度目の結婚、終生連れ添った。1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として中国に渡り、1939年に日本に帰国。その後パリへ戻ったが、第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。
日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画(下参照)の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力に対する心無い批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった。

(4)晩年
傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、マスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だった。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いた。
1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクルに葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。

(5)藤田の最後
最後を見取った君代夫人は、死後も藤田旧蔵品を守り続けた。パリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館するのに尽力し、近年刊行の個人画集・展覧会図録等の監修もしている。2007年には東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開されている[5]。そして、40年以上を経た2009年4月2日に、東京で98歳にて没した。遺言により遺骨は夫嗣治が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂に埋葬された。君代夫人が持っていた藤田作品の大半は、現在ポーラ美術館とランス美術館に収められている。
2011年、君代夫人が所蔵していた藤田の日記(1930年から1940年、1948年から1968年までで、戦時中のものは見つかっていない)及び写真、16mmフィルムなど6000点に及ぶ資料が母校の東京芸術大学に寄贈されることが発表され、今後の研究に注目が集まっている。

「日本人の印象派の画家は海外では知られていない」

2022年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム
私は日本人の印象派の画家は海外で評価されているのか心配になり調べてみました。そうたら誰も知られていませんでした。
以下はそれに関する質疑応答です。
質問;
日本人の印象派の画家は世界的に認められるのですか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/.../q11194319466
 黒田清輝は日本人で初めてヨーロッパで絵の勉強の為に留学した画家とありました。 マネやゴッホと言われる巨匠の影響を絵のタッチから強く感じるものの日本人的なものを感じるような気もするのですがどうでしょうか? 
 速水御舟の洛北修学院村は西洋の絵画にはない雰囲気があるような気がしましたがどうでしょうか? 日本人画家で一番有名で高く評価されたのは葛飾北斎ですがその他の絵はどれくらい評価されているのでしょうか?
答え;yosigamokamoさんから、(2018/8/8 20:1)
日本の近代油画は 欧米では、ほぼ無評価です。 所蔵している美術館自体が ほぼありません。
 日本画ですと ボストン美術館などに所蔵されていますが フェノロサ・ビゲローらの「お雇い外人」らの収集であり その後の世代からは、ほぼ無反応です。
 但し だからと言って、彼らが大したことないとは言えないのです。 黒田や和田は 日本の美術体制・教育を確立したわけですし、 周辺諸国(中国・台湾・朝鮮半島)から 油画を学ぼうとする留学生を招いたのです 。
日本に限らず ヨーロッパ・北米(メキシコを含む)以外の油画作家で グローバルに知られる作家はほとんどいません。
以上が現実なのです。(終わり)


「西洋の美しい絵画(6)温厚なカミーユ・ピサロの油彩画」

2022年05月02日 | アート・文化
カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)は1830年に生まれ 1903年に没しました。、19世紀フランスの印象派の画家でした。 
ピサロは1830年にカリブ海の、当時デンマーク領だったセント・トーマス島で生まれます。父フレデリック・アブラハム・ピサロはボルドー出身のユダヤ教徒で金物屋でした。 
パリでは、アカデミックな画家たちの指導も受けたがより自由にモデルを描くことが許される画塾アカデミー・シュイスに通っていました。
1859年にはクロード・モネが、1861年にはポール・セザンヌやアルマン・ギヨマンがパリに来て同じアカデミー・シュイスで学び始めており、ピサロはこの頃彼らと知り合ったようです。そして コローに会いに行きアドバイスを求めています。 
ピサロは1903年の夏をル・アーヴルで過ごした後、10月にパリに戻り、突然病気に倒れ11月13日、前立腺の感染症で亡くなったのです。ピサロの遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、葬儀には、モネとルノワールが参列しました。
カミーユ・ピサロの油彩画を5枚、http://blog.meiga.shop-pro.jp/?eid=1041 からお借りしてお送り致します。

1番目の写真は制作年:1867年、原画サイズ:151.4 x 200.6 cm、所蔵:グッゲンハイム美術館です。
本作に描かれているのはフランスのポントワーズにあるエルミタージュという街です。ピサロは1866年から1883年の間、このポントワーズに住み、この地の風景をたくさん描き残しました。
2番目の写真は【ルーヴシエンヌの景色】制作年:1870年です。
この作品に描かれているルーヴシエンヌは、パリのセーヌ河流域にある村です。
ピサロは1868年秋にポントワーズからこのルーヴシエンヌに移り、普仏戦争が始まる1870年までまでこの地で生活したと言われています。
ピサロはこのルーヴシエンヌの風景をたくさん描き残しています。
3番目の写真は【ポントワーズの閘門】、制作年:1869年、所蔵:個人所蔵です。 
4番目の写真は【アッパー・ノーウッド、クリスタルパレス、ロンドン】、制作年:1870年、原画サイズ:39x50cmです。
 本作にはロンドンのアッパー・ノーウッド地区にクリスタルパレスという通りが描かれています。
ピサロは1870年に起こった普仏戦争から逃れるためにロンドンへ移住し、その時に描かれた作品です。
5番目の写真は【シャポンヴァルの風景 】、制作年:1880年、原画サイズ:54.5cm×65cm、所蔵:オルセー美術館です。
この作品に描かれているシャポンヴァルはフランスのパリの少し北西、オワーズ川のほとりの町です。