後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「我が町、小金井の写真(1)何時も買い物をする店」

2022年11月24日 | 写真
我が町、小金井で何時も買い物をする店の写真です。
三浦屋、トンカツの和幸、西城石井、紀ノ国屋、魚の山助、Foodway の6店です。

1番目の写真は三浦屋です。

2番目の写真はトンカツの和幸です。

3番目の写真は西城石井です。

4番目の写真は紀ノ国屋です。

5番目の写真は魚の山助です。

6番目の写真はFoodway です。

「極寒のシベリヤにも夏になると花々が咲く」

2022年11月24日 | 写真
極寒のシベリヤにも夏になると花々が咲くのです。
写真は「シベリヤの花の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。

1番目の写真はシベリアあやめです。

2番目の写真はアイスランド・ポピーです。

3番目の写真はシベリアのスノードロップです。

4番目の写真はシベリアツルボです。

「ロシアの怨念(1)日本が勝利した日露戦争」

2022年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム
日本が近代国家として急成長するきっかけは日清戦争とそれに続く日露戦争での日本の勝利でした。しかし日露戦争のことを忘れている人も多い昨今ですが、それは非常に重要な歴史的な出来事でした。
日本に対するロシアの怨念を考えると、日露戦争こそロシアの日本に対する怨念の非常に大きな原因です。怨念の原因はそれだけでなく、日本のシベリア出兵、ノモンハン事件、満州へのロシアの侵入と日本軍の戦いと続きました。そして1990年前後のソ連の消滅でです。
今日はまず日露戦争のことを簡単に書くことにしました。
日露戦争は1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて日本と南下政策を行うロシアとの間で行われた戦争ででした。朝鮮半島と満洲の権益をめぐる争いが原因となって引き起こされました。満洲南部と遼東半島がおもな戦場となり、日本海海戦ではロシアの艦隊が壊滅しました。最終的にはアメリカ合衆国の斡旋でポーツマス条約を締結し終わりました。
日本が勝利した大規模な戦争でした。その結果、朝鮮半島における日本の権益を認められ、ロシア領であった樺太の南半分が日本領となります。またロシアが清国から受けていた大連と旅順の租借権を獲得します。その上、東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権も得ます。
ヨーロッパ諸国は日本の勝利を驚きますが、一方非白人の国家では、白人による世界分割や植民地支配に対しての反発や抵抗を誘発しました。
中国の孫文、毛沢東、インドのネルー、ベトナムのホー・チ・ミンなどが日本の勝利に感激して勇気をもらいます。それが後に彼等の革命運動の意欲につながっていきます。
イランでは立憲革命運動が加速しエジプトでは英国に対する抵抗運動が激化します。トルコでは反ロシアや反ヨーロッパの国民感情が高まり日本ブームが起こったのです。日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎は尊敬され「トーゴー通り」(トルコ)や「トーゴー・ビール」(フィンランド産)なども登場したのです。
このように日露戦争における日本の勝利は世界的に大きな影響を与えたのです。
日露戦争で動員された戦力は日本側では延べ約120万人でロシア側は約136万でした。損害は日本側の戦死が8万8,429人,ロシア側が8万1210人でした。
有名な戦いは、旅順攻略、遼陽会戦、奉天会戦、黄海海戦、日本海海戦などです。
これらの中で日本海海戦の様子を少し詳しく示します。
遥かバルチック海の港にいたロシアの艦隊、「バルチック艦隊」が日本に向けて出港しました。7か月に及んだ航海の末に日本近海に到達、5月27日に東郷平八郎率いる連合艦隊と激突したのです。これが「日本海海戦」です。5月29日にわたるこの海戦でバルチック艦隊はその全ての艦艇を失いロシアの司令長官が捕虜になったのです。ロシア側史料によると海戦のロシア側死亡者4866名、負傷者799名でロシア兵の捕虜は約6140名でした。
一方日本側の喪失艦がわずかに水雷艇3隻だけでした。これは近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝です。この海戦の結果、日本側の制海権が確定しロシア側も和平に向けて動き出したのです。
欧米各国はバルチック艦隊が壊滅すると予想もしませんでした。海戦の結果は列強諸国を驚愕させたのです。そしてイギリスやフランス、アメリカやオランダなどの白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の民衆を熱狂させたのです。
しかし日露戦争の日本の勝利はその後の日本の対外政策を間違った方向にさせ、無謀にもアメリかとの戦争に繋がって行ったのです。真珠湾攻撃の原因に影響を与えたのです。

今日は「ロシアの怨念」という連載記事の第一回として、日本が勝利した日露戦争と日本海海戦のことを書きました。

挿絵代わりの写真は日露戦争に関する写真です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は朝鮮半島を進軍中の日本軍歩兵(1904年撮影)です。

2番目の写真は渡河を実施する奉天のロシア軍です。

3番目の写真は第一軍司令官黒木為楨です。

4番目の写真は満洲で撮影されたロシア軍の第23砲兵旅団の写真です。

5番目の写真は旅順攻囲戦での砲撃戦です。

6番目の写真は仁川沖海戦で炎上するロシア艦(右がヴァリャーグ)です。

「多摩湖とその周辺の紅葉の写真を撮りに行く」

2022年11月22日 | 写真
昨日は午後から晴れ上がって美しい青空が広がりました。青空に誘われて、多摩湖とその周辺の紅葉の写真を撮りに行って来ました。多摩湖とは村山貯水池の別の名で東京都と埼玉県の境にあります。その多摩湖周辺は東京都の公園になっていてプラタナス、ケヤキ。クヌギなどの大きい樹々が繁っています。
昨日はその樹々が華やかに紅葉、黄葉していました。多摩湖の水はあくまでも碧く輝き、その向こうには奥多摩の山並みが横たわっています。
華やかな紅葉、黄葉で一緒に行った家内も心弾ませているようです。
昨日撮った多摩湖とその周辺の紅葉の写真をお送りいたします。

紅葉の写真をお楽しみ頂けましたら幸いです。なお多摩湖へはJR中央線の国分寺で西武線の村山貯水池(多摩湖)行きに乗り換えます。新宿から1時間くらいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「平和、平和で第二次世界大戦の悲劇を忘れる日本人」

2022年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
一昨日、「ウクライナの戦乱で太平洋戦争のことを思い出す」という記事を掲載しました。ところが太平洋戦争を知らない日本人が多いようです。世界規模の第二次世界大戦のうち太平洋地域の戦争を太平洋戦争と言います。この事も知らないのです。無理もありません。1945年以後に生まれた77歳以下の人は戦争を体験してないのです。
体験した人でも毎日楽しく暮らせれば、過去の嫌なことは忘れよう。今更、戦争の悲劇を思い出すのはまっぴらだ。そのように考えている人々も多いのでしょう。
しかし私は戦争の悲劇にこだわるのです。それが真の平和を守るいしずえになると信じているからです。
そんな理由で今日は第二次世界大戦で戦没した各国の人々の数を示します。その後で日本人の113万柱の未帰還遺骨についてご報告します。
第二次世界大戦のうちの太平洋戦争での日本人の莫大な犠牲者数は日本民族の歴史上で最大の悲劇でした。絶対に二度と繰り返すべきではありません。
(https://www.nationalww2museum.org/.../research-starters...  ) に出ている国別の犠牲者数の表をご覧下さい。この一覧表は一番正確な犠牲者数として外国のインターネットでよく引用されています。
一覧表を注意深く見ると日本ではあまり知られていない事実が沢山あるのです。
気が付いた順に記します。
(1)日本の占領地のフィリピンとインドネシアで現地の民間人の死者がそれぞれ100万人以上と150万人以上だったのです。
(2)日本領だった朝鮮の人が兵士や軍属として47万人以上死にました。
(3)インド人は英国兵として87000人死にましたが、民間人も250万人死にました。
(4)日本軍によって中国人は400万人の兵士が戦死し、民間人を含めた合計2000万人が殺されました。日本にとっては残念ながら、これが世界の常識になっています。
(5)ドイツに占領されたソ連では合計2400万人の人が殺されました。
(6)日本人はあまり知りませんが犠牲者の多かった国々は次の通りです。
ブルガリア、チェコソロバキア、フィンランド、ギリシャ、ハンガリー、ラトビア、リトアニア、オランダ(インドネシアに居た人も含む)、ポーランド、ルーマニアなどです。
これらの国々の幾つかはドイツ側に立って戦争をしたのです。
(7)全世界の総合計です。兵士の死者は15,00万人で民間人の死者は45,00万人でした。総合すると全世界で6000万人の人が死んだのです。この6000万人の数は人類の歴史において空前のものです。

第二次世界大戦の国別の犠牲者数の表は以下の資料に示してあります。
(https://www.nationalww2museum.org/students-teachers/student-resources/research-starters/research-starters-worldwide-deaths-world-war  )

日本だけについて引用すると、兵士の戦死者は212万人で民間人の戦没者数と合計すると260万人ー310万人になります。最大310万人の日本人が犠牲者になったのです。
そして第二次大戦後、シベリア抑留でドイツ兵が55万人死に、日本人は5万人死んだのです。
昭和時代の人類は狂気のように殺しあったのです。国家対国家の大規模な戦争によって殺しあったのです。怖ろしい時代でした。
その上、太平洋戦争の為に海外で亡くなった日本人の240万人の犠牲者のうちまだ113万5千人の遺骨が日本へ帰って来ていないのです。
父や夫や息子を戦争で失った遺族にとっては太平洋戦争は終わっていないのです。113万5千柱の遺骨が還らぬ限り太平洋戦争は終わっていないのです。
若いボランティアも参加して、遺骨を探す努力をしています。しかしそれは遅々として進んでいません。

今日は戦争の悲劇を忘れないために第二次世界大戦の世界の各国の莫大な戦没者数を報告しました。その後で日本人の未帰還遺骨 が約113万柱あることを書きました。
全世界で約6000万人の人間が戦争の犠牲になったのです。人類の歴史において空前の悲劇でした。
現在は平和で豊かな暮らしですが、私は時々このような悲劇のことを思い出します。私は戦争の悲劇にこだわるのです。決して再び起こしてはならない悲劇です。それが真の平和を守るいしずえになると信じているからです。

今日の挿し絵代わりの写真は冬に咲く花の写真です。順にヤツデ、タイワンツバキ、冬咲きデージー、クリスマスローズです。写真の出典は、https://lovegreen.net/flower/p196486/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「老々の日の暇のつぶしかた」

2022年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム
仕事を止めてまだ中年の延長のような初老の元気な頃は国内旅行をさかんにしました。そんな時期も過ぎて遥か昔になってしまいました。
最近の老々の日の暇のつぶしかたは毎日家を出て近所を歩きまわることです。ただ歩くのも詰まらないので何かを見たり眺めたりします。昨日は小金井駅南口の商店街の広場に行きました。若い人々がフルートの演奏をしています。しばらく眺めてから、山助という魚屋に行って活きの良いメバルやイトヨリやヒラメなどの美しい姿をしげしげ眺めました。ついでにイトヨリを2匹買いました。
こんなことが私の老々の暇のつぶし方です。
暇のつぶし方は他にも沢山あります。小金井公園に行って巨木の姿を眺めたり、武蔵野公園に行って何も無い草原を意味も無く眺めます。小金井神社や貫井弁天や稲穂神社に何の目的も無く訪れては境内を歩きます。つまるところ私は何ら意味の無いことをして暇をつぶしているのです。それが楽しいのです。何も考えません。なにも憂いません。私は植物のような日々を送っているのです。できたら大きなケヤキの木になりたいのです。
つまらないことを書きました。
昨日撮って来た若い人々のフルートの演奏と山助の店頭の魚の写真をお送りいたします。

「イグナチオ教会の今日の『王であるキリストの祭日のミサ 』の動画配信とミサの写真」

2022年11月20日 | 日記
今日のミサは 10:00 時から『年間第34主日ミサ』です。
動画配信のご案内をお送り致します。李聖一神父様の司式です。
https://www.youtube.com/watch?v=does2G_y8yQ

10:00 時以後なら何時でもミサにあずかることが出来ます。

ミサ中のお説教は教会ホームページに後日掲載します。
https://www.ignatius.gr.jp/news/strea...

【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
サムエル記(サムエル下 5:1-3)
第2朗読
使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ 1:12-20)
福音朗読
ルカによる福音 (ルカ 23:35-43)

なお関口教会からも動画配信があります。

写真はイグナチオ教会の今日のミサの写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。 後藤和弘(藤山杜人)

「昨日は1205年創建の小金井神社を訪ねました」

2022年11月19日 | 写真
小金井神社は元久2年(1205年)武蔵野開拓にあたり創建されました。
菅原道真を祀る天満宮です。
宝暦元年(1751年)当時の名匠である江戸神田に住む粉川市正康信に、 道真公の坐像(高さ42.4センチ)の彫刻を依頼します。
現在これが御神体として祀られています。 御本堂は宝暦年間の造営で、拝殿は明治27年に建てられてたものです。

「ウクライナの戦乱で太平洋戦争のことを思い出す」

2022年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム
ウクライナの戦乱はロシアの残忍な武力行使で始まりました。ロシアの一方的な武力侵攻です。ウクライナは勇敢にも戦っていますが戦乱の終わりは見えません。長期間続く様相です。
私はこの戦乱で毎日心を痛めています。そして私の少年の頃あった太平洋戦争のことを思い出しています。
この戦争は日本の歴史において最大の悲劇でした。日本の軍隊をアメリカ軍が完膚無きまでに打ち砕いたのです。その上、日本国内の200以上の市町村を焼野原にしてしまったのです。B29の焼夷弾で焼き尽くされたのです。高台に立った私の目の前で仙台市が紅蓮の炎を上げて燃えていました。
太平洋戦争では多数のアジア人も死にました。アジアの大きな悲劇でもあったのです。
しかし太平洋戦争の結果、数多くのアジアの植民地が独立したのです。欧米の圧政からアジアを解放したのです。
今日はこの太平洋戦争のことを簡単に書いてみます。
1941年12月8日の真珠湾攻撃で第二次世界大戦に参戦した日本は、快進撃を続け、瞬く間に東南アジアを占領してしまいました。
その地域はイギリス、フランス、オランダ、アメリカの植民地だったところです。
ですからその地域の日本軍の占領は植民地の解放とも強弁できます。
欧米人を追い出し、大東亜共栄圏という経済圏を作るというのが日本が主張した大義名分でした。
建て前はそうでも、多くの日本人の本音は自分たちの植民地にしようという意図だったのです。それが証拠には日本は既に台湾や朝鮮を領有しており、満州という傀儡国家も作っていたのです。
もし日本が本気で植民地の解放を目的にしていたなら、占領と同時にその地域の独立を宣言し、新しい国家へ自治権を与え、国家の建設に協力すべきでした。
随分と後になってから東條総理は各地の首脳を東京に集め、大東亜共栄圏を作るためのアジア会議を開催しましたが、各国の独立を直ちに認めようとはしなかったのです。
しかし1945年の夏に日本が敗北するとビルマ(ミャンマー)、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリッピンなどが一斉に独立運動を開始したのです。
ベトナムでグエン・ザップ将軍の率いるベトナム軍が、曾ての宗主国であるフランスと激しい戦争をして勝つのです。
そしてスカルノ将軍の率いるインドネシア軍も、宗主国のオランダに勝利して独立を勝ち取るのです。

1番目の写真の図面は日本が占領する前の東南アジアの植民地を地図で示したものです。
(この図の出典は、http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Shokuminchi.htm です。)
そしてインドネシアの独立戦争に現地に残留した日本兵が多数参加したのです。
従って、独立後のインドネシアは非常に親日的な国になりました。
ベトナムでも多数の日本兵がホーチーミンの部下としてフランス軍と戦ったのです。
太平洋戦争の初めの期間は日本軍がイギリス、フランス、オランダ、アメリカの軍隊を蹴散らし、イギリスの戦艦ウエールズも撃沈してしまったのです。
白人の国家の軍隊を日本人がいとも簡単に打ち破ったのを見て、ビルマ(ミャンマー)、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポールの人々は勇気づけられたのは自然なことです。「やれば自分たちにも出来る」と独立戦争に立ち上がったのです。
ですから太平洋戦争で日本が快進撃を見せて、その後、間もなく敗れた事実が東南アジアの植民地の独立のキッカケになったことは間違いの無い事実です。
現在の日本の学校で教える歴史の教科書には明記してありませんが、敗戦後各地に起きた独立戦争に日本軍の志願兵が多数参加したことは忘れられない事実です。
従って現在でも対日感情の良い国々はビルマ(ミャンマー)、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポールです。
西のインド、バングラディッシュ、パキスタンも対日感情の非常に良い国々です。
しかしフィリッピンだけは例外です。占領した日本軍がアメリカへの恨みから、かなり残酷な占領政策を敷いたのです。例えば戦後、アメリカが宣伝したバターン死の行進がその例です。フィリピンの軍隊はアメリカ軍と言いましたが、大多数のフィリピン人が参加していたのです。
朝鮮半島と中国本土でも日本軍の政策は過酷なものでした。現在、対日感情の悪いのは仕方がありません。それと対称的に台湾は対日感情が良いのは日本の政策が良かったからのようです。
アジアの植民地の独立はやがてアフリカにも波及します。そして現在はこの地球上に植民地がほとんど無くなってしまったのです。
このような事は人類の歴史に空前のことです。そのキッカケを作ったのが太平洋戦争でした。日本の快進撃と敗北でした。太平洋戦争がなかったら世界中に数多くの欧米の植民地がまだそのまま存在していたと思います。
日本が植民地を手に入れようとして太平洋戦争を起こし、快進撃をし、その後敗北したことが皮肉にも世界中から植民地を無くしたのです。歴史の不可思議さに打たれます。
動機は立派でなかったが結果は立派だった場合に、それをどのように評価するかは人それぞれです。しかし激動の昭和時代を客観的に見直すと、日本が世界へ与えた影響の大きさは率直に認めざるを得ません。
この太平洋戦争と現在、ウクライナで起きていて戦争を比較すると明快な違いがあります。
太平洋戦争の敵と味方は明快でした。日本はアメリカ、イギリシ、オーストラリア、中国などと戦ったのです。
ウクライナの戦乱はロシアの一方的な武力侵攻です。しかし太平洋戦争では「アジアの植民地の解放」という大義がありました。ウクライナの戦乱にはロシアの大義はありません。あるのはロシアの怨念と領土欲です。
困ったものです。ですから私はウクライナの戦乱で毎日心を痛めているのです。

今日の挿絵代わりの写真は季節の花、菊の花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「徳川家康が造った幡随院が我が町、小金井に現存する驚き」

2022年11月18日 | 写真
60年以上、私は小金井に住んでいます。
今日の午後に幡随院の写真を撮りに行きました。
そして調べてみるとこのお寺は徳川家康が神田に造ったのです。
小金井には昭和15年に引っ越して来たのです。何度も火災の会う悲劇の歴史を背負ったお寺です。

幡随意の開創
慶長8年(1603年)に帰依していた徳川家康が江戸開幕にあたって、浄土宗知恩寺33世住持・幡随意を開山として招聘し、江戸神田の台(現・東京都千代田区神田駿河台)に創建した寺である。家康はこの際に白銀10貫目および嫡男・秀忠も米300俵を寄進して堂宇を整えるとともに神田山新知恩院の寺号を与え、徳川家祈願所と定めた。・・・・

続きは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A1%E9%9A%8F%E9%99%A2 をご覧下さい。

・・・・大正12年(1923年)の関東大震災でこの堂宇も焼失、再建するも昭和12年(1937年)に自火焼失、ついに江戸時代以来の旧地を離れて昭和15年(1940年)に現在の小金井市に移転。現在の堂宇は昭和19年(1944年)52世禮堂和尚によって建立されたものである。昭和37年(1962年)に浄土宗から独立し単立となって現在に至る

「紅葉の残照を眺め淡々と生きる日々」

2022年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム
つい先週まで輝いていた樹々の紅葉が色褪せています。枯葉まじりになってきました。紅葉の残照です。そんな晩秋の小金井公園の風景の写真を昨日撮って来ました。写真をお送りいたします。

紅葉の残照を眺めながら考えまた。何も考えずに淡々と生きると幸せになれるということです。
不幸の原因を考えて、その原因を取り除けば、幸せになれると考えます。しかしこの考えは決定的に間違っているのです。
不幸の原因を考えることは無駄なことです。自分が幸福なのか不幸なのかも考えるのも無駄てす。
考える暇があったら紅葉の風景でも見て淡々と生きて行くほうが良いのです。
紅葉の風景を見ている間は無欲なのです。ようするに淡々として生きているのです。
流れゆく日々を淡々と生きる。この世に生きることは素晴らしいと感じながら生きるのです。
しかし淡々と生きることは意外に難しいものです。
本当のことを書くと私も毎日淡々と生きてはいません。この世の煩悩に悩みながら生きています。
しかし老境にいたって、若い頃とは決定的に違う生き方を発見したのです。
一日、24時間の中の10分でも20分でも無我の境地になれる方法を発見したのです。
10分や20分は短い時間ですが、その影響は長い時間のこります。深山の木霊のように残るのです。
無我の境地になる方法は幾つかあります。座禅も良いでしょう。仏像へ祈っても良いでしょう。
しかし私の無我の境地になる方法は大きな樹々の姿をじっと眺めていることです。
高い梢を風が静かに渡っていきます。黄葉が秋の陽に輝いています。
樹々の足元の水場には住み着いているカモたちが泳いでいます。
ススキの穂が白くなって黄葉の中に見え隠れしています。
私は車から持ち出した椅子に座ってこのような風景を飽ずに眺めています。

このようにして流れゆく日々を淡々と生きています。この世に生きることは素晴らしいと感じながら生きています。

昨日、小金井公園で大きな樹々の姿をじっと眺めて、淡々と時間を過ごしてきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ウクライナで家を追われた数百万人、今はどこに?」

2022年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム
ウクライナで家を追われた数百万人は今はどこに居るのだろうか?
是非ご一読下さい。
出典は、https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-61019300 です。
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国連によると、同国ではすでに1000万人以上が侵攻のために自宅を離れたとみられている。
近隣諸国へ避難した420万人のほか、戦乱の続くウクライナ国内で、さらに650万人が避難生活を送っているという。

ウクライナ国内での避難者


ウクライナのイリーナ・ウェレシチュク副首相は、同国東部の広い範囲に住む人々に、可能なうちに避難するよう警告した。
ウェレシチュク氏は、ハルキウ、ドネツク、ルハンスク地域の人々は、今すぐ避難しなければ命が危険にさらされると話す。

国連の発表した1000万人という数字は、国際移住機関(IOM)が3月9日から16日にかけて実施した調査に基づいている。
国内で家を追われた2000人を対象にした調査では、以下のことが分かっている。
2000人のうち30%近くが首都キーウから逃れたほか、36%がウクライナ東部から、20%から北部から避難していた。
・・・・中略・・・・


ウクライナの難民はどこへ?

ポーランド、ルーマニア、スロヴァキア、ハンガリー、モルドヴァなど、西側の近隣諸国にも難民が渡っている。
国連によると4月5日現在、420万人以上がウクライナを離れている。

その内訳は以下の通り。
ポーランド:249万447人
ルーマニア:65万4825人
モルドヴァ:39万9039人
ハンガリー:39万8932人
ロシア:35万632人
スロヴァキア:30万2417人
ベラルーシ:1万7317人

各国はどんな難民援助をしているのか?


ウクライナと国境を接する国々では、難民となった人が友人や親類の家に滞在できない場合、受け入れセンターに滞在することができる。食事や医療が提供され、その後の移動に関する情報も提供される。
欧州連合(EU)は、戦争から逃れたウクライナ人に対し、加盟27カ国で最長3年間、滞在および就労する包括的権利を与えている。

また、社会福祉を受けられるほか、住宅の提供を受け、医療や教育機関を利用できる。
最も多くの難民を受け入れているポーランドは、到着する人数をすべて受け入れるには、EUが現在提供している以上の資金が必要になると述べている。
人口あたりの難民数が圧倒的に多いモルドヴァも、到着した人数に対処するための国際的な支援を訴えている。

「長野県の美しい紅葉の写真」

2022年11月17日 | 写真
長野県の美しい紅葉の写真をお送りいたします。
写真の出典は、https://www.go-nagano.net/theme/id=16956 です。

1番目の写真は長野県北安曇郡小谷村の栂池自然園の紅葉です。小谷村の栂池自然園では、標高1,900mに広がる湿原の草紅葉が9月中旬ごろから見頃を迎えます。その後、ダケカンバ、ナナカマドなどの紅葉が進み、初冠雪に時期にはアルプスの雪、紅葉、針葉樹の常緑と三段紅葉を密こともできます。

2番目の写真は長野県茅野市の御射鹿池の紅葉です。標高1,500mの山の中にぽっかりとあいたため池で、例年10月下旬ごろから見頃を迎えます。池を囲むように立つカラマツが美しく色づき、風のない日には見事な水鏡を望めます。

3番目の写真は長野県上伊那郡中川村の渡場のイチョウ並木の黄葉です。見頃は11月上旬~中旬ごろで、田舎の秋らしいのどかな風景が楽しめます。並木道を歩くと、黄金色のじゅうたんを一面に敷いたような絶景が広がります。

4番目の写真は天龍峡の紅葉です。天竜川の川幅が最も狭くなる天竜峡は一度は訪れたい秋の絶景スポットです。陸からはもちろん、川下りの船上から眺める美しさは想像以上です。例年の見ごろは11月上旬~中旬です。

「自分より年下の人の逝去は深い悲しみ」

2022年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム
自分より年下のK君から一枚の葉書がきました。74歳の妻が亡くなったので年賀状を遠慮します。そんな内容の文章でした。私は昔K君の家に泊ったことがあるので彼の妻とはお会いしていました。心からご冥福をお祈り申し上げます。
そこでK君の思い出を書いて、今や天上にいる奥様へ捧げたいと思います。
私がK君と初めて会ったのは1966年でした。大岡山の大学に赴任したらその研究室の大学院にいたのです。実に心優しい青年でした。はじめて赴任した大学で心細かった私をそれとなく支えてくれたのです。彼の父もその大学の教授でした。
K君とはよく昼ごはんを近所のレストランで食べました。夜は自由が丘の駅前で一緒に飲みました。ある時、札幌での学会に行った折り一人の女性と知り合い、仲良くなったと楽しそうに話したのです。一緒に飲むとK君はよく札幌の彼女のことを話していました。それから間もなく結婚式です。私も家内と一緒に招かれました。
K君は豊橋にある技術科学大学の助教授に赴任します。私はその新婚の家によばれ一泊しました。K君は新婚の妻と共に幸せそうでした。二人とも何時も温かい笑顔でした。
それからいろいろことがありました。よく大岡山の研究室の同窓会のような会を開いてくれました。K君は周囲の人の世話をやき人の和の中心にいました。話し方が優しく生来穏健なので皆に好かれたのです。そんな珍しい人もいるものです。私は86歳になった今もK君を尊敬しています。
そのK君と結婚なさった女性も一生倖せだったと信じています。その奥さんが74歳で亡くなったのです。K君の悲嘆は深く、深いものに違いありません。
今や天上にいる奥様のご冥福を深くお祈りします。あの世で安らかにお眠り下さい。K君の思い出の記を捧げます。

今日はK君の思い出を書いて、天上にいる奥様へ捧げました。
今日の挿絵代わりの写真はK君の奥さんが生まれ育った札幌とその郊外の風景写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)