日本に太古から住んでいた「原日本人」は後に縄文人になりました。北海道や北日本に追いやられた縄文人はやがて中世以後、独自のアイヌ文化を発達させアイヌ民族と呼ばれるようになったのです。アイヌという名称は中世以後に出来た名称です。しかしこの記事では「原日本人」をアイヌ人と書きます。その方が分かり易いからです。
そうすると旧石器時代と縄文時代の北海道と東北地方はアイヌ人による同じ文化圏だったということになります。縄文時代に北海道と東北地方から出土する石器と縄文土器が 共通な形をしているのです。
今日は煩雑な説明は後回しにして、まず写真でこの様子を示します。
1番目の写真は縄文時代に繁栄した青森県の三内丸山遺跡の復元、展示です。
一般に縄文時代は円形の小さな小屋に住み、原始的な狩猟、採集で生活をしていました。約12000年間続きました。土器や石器は使っていましたが、農業は無く、村落の規模も小さく、文化程度の低い時代だったのです。
しかし青森県にある三内丸山遺跡は規模と言い、文化レベルと言い、非常に発達しています。
三内丸山遺跡には大型家屋があり、整然と並んだ小型住宅があり、食料貯蔵用の高床式倉庫群があり、祭祀用の神秘的な巨大柱があり、整然とした墓地もあります。それは小さいながら一つの王国のようです。残念ながら文書だけは存在していなかったので、その王国の統治組織や社会階組織は全く不明です。
しかし祭祀の場所、居住区の場所、お墓のある場所が整然と分けて存在してある事実をみると高度な文化社会が存在していたと考えざるを得ません。
それはやがて弥生時代や古墳時代の地方の豪族の領地支配の歴史へと繋がる社会と文化だったのです。
三内丸山遺跡はこのような縄文中期の高度な文化を示す驚異的な遺跡であり、実に多彩な出土品も出ているのです。
そしてこのような高度な縄文文化は北海道にも同じようにあったのです。
2番目の写真は北海道から出土した国宝の中空の土偶です。北海道の函館市臼尻小学校付近から出土した多量の精巧な土偶です。高さ41・5センチメートルもある大きな土偶です。この展示館は2912年に訪問し写真を撮りました。
この国宝の詳細は、函館市縄文文化交流センターを検索すると出ています。
3番目の写真はこの国宝の土偶の説明板です。1975年に発見されたことなどが書かれています。
4番目の写真は同じ函館市臼尻遺跡から出て来た土器です。北海道から出土する縄文土器は円筒形をしたもので、同じような土器が北東北地方からも出てきます。
5番目の写真も同じ函館市臼尻遺跡から出て来た石器です。
6番目の写真は同じ文化圏だった東北千穂と北海道西部の範囲を示す図です。
7番目の写真は石器として重要だった黒曜石の流通経路です。黒曜石で作った矢じりや小刀は北海道も北東北も同じ産地の黒曜石を使っていました。矢じりを矢に接着するアスファルトも同じ秋田県産のものを使っていたのです。
このように写真で示した北海道とこの青森県の縄文文化は、縄文時代後期の突然の寒冷化で衰退してしまうのです。
縄文前期の日本全土の縄文人の総数は2万人で、中期には26万人まで増加します。しかし、後期の寒冷化によって再び数万人までに減少するのです。
人口が確実に増加に転ずるのは稲作が始まった弥生時代からです。
青森県の三内丸山遺跡も北海道の遺跡も縄文後期には衰退し消えてしまったのです。
以上のように北海道と東北地方の縄文文化は間違いなくアイヌ人(原日本人)によって作られた文化だったのです。
同様にして全国の縄文文化は当時全国に広く住んでいたアイヌ人(原日本人)によって作られたのです。
やがて本州南部のアイヌ人(原日本人)と大陸からの渡来人との混血によって弥生人が出来て行きます。そうしてこの弥生人がアイヌ人(縄文人すなわち原日本人)を次第に駆逐して行きます。
弥生時代になってから、本州以南に住んでいたアイヌ人(原日本人)が大陸からの渡来人と混血して弥生以後の日本人になりまました。一方、北海道に孤立した人々が中世以後はアイヌ民族と呼ばれるようになったです。アイヌ民族の独自の文化の発達に樺太や千島の北方民族の影響がありました。このアイヌ民族の独自の文化のことを擦文土器文化と言います。
一方、大和朝廷は仙台市の多賀城に北端の城柵を作り、アイヌと違った文化圏を作りあげて行ったのです。この政策が本州以南の日本人と北海道のアイヌ人(原日本人)の分離と住み分けに繋がって行くのです。
それが明治時代以降に大和朝廷以後の日本人とアイヌ人(原日本人)が再融合したのです。
この歴史は雄大な歴史ロマンではありませんか?
今日は旧石器時代と縄文時代の北海道と東北地方はアイヌ人(原日本人)による同じ文化圏だったということを説明しました。縄文時代に北海道と東北地方から出土する石器と縄文土器が 共通な形をしていたのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)