後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「鉄道写真家、村上悠太が撮った紅葉と列車の写真」

2022年11月16日 | 写真
鉄道写真家、村上悠太が撮った紅葉と列車の写真をお送りいたします。
写真の出典は、https://www.toretabi.jp/railway_info/entry-3250.html です。

1番目の写真は水郡線の矢祭山です。水郡線は水戸駅と郡山駅を久慈川の風景を見ながら進んでいく路線です。

2番目の写真は九州の久大本線を走る「ゆふいんの森」です。四季を通して美しい風景を見せてくれる久大本線ですが、紅葉ももちろんきれいです。

3番目の写真は四国の土讃線の吉野川に沿って走る大歩危小歩危エリアです。。列車は数回、吉野川にかかる鉄橋を渡るので左右どちらの席からも吉野川の急流を眺めることができます。

4番目の写真は京都の魅力あふれる保津峡です。京都駅から出発する山陰本線は観光地、嵯峨嵐山へのアクセスにも便利ですが、この嵯峨嵐山駅を過ぎると亀岡まで「保津峡」を超えて走っていきます。

「美しい日本の小さな古い町、奈良井、妻籠、馬籠」

2022年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今朝、「日本や外国で一番美しい村を訪ねあるく」という記事を掲載しました。その中で日本の美しい村を紹介しました。しかし美しい小さい町は紹介しませんでした。そこで今度は美しい町をご紹介したいと思います。中山道の奈良井、妻籠、馬籠です。何故か旧懐の情で胸がかきむしられるような町です。一緒に行った家内が撮った写真を7枚お送り致します。

1番目の写真は奈良井宿です。江戸時代の宿場町がそのまま保存してあります。

2番目の写真も奈良井宿です。

3番目の写真は妻籠の宿場町の風景です。
中山道の奈良井宿から南に行った場所にある妻籠です。これらの宿場町は以前に3度ほど訪ねております。

4番目の写真も妻籠です。3番目と4番目の写真の出典は、「自分を探す旅 見つめ直す旅 」というブログからお借りしました。素晴らしい旅行記のブログです。(https://rtrp.jp/articles/83879/ )

5番目の写真は中山道をさらに南に行った所にある馬籠の宿場町です。馬籠の宿場町へも3度ほど行きました。

6番目の写真も馬籠の宿場町です。
5番目と6番目の写真の出典は、http://www.livedo.net/tabi/276.html です。

7番目の写真は庄屋をしていた馬籠の島崎藤村の生家です。

以上のような奈良井宿や妻籠宿や馬籠宿は美しい小さな町です。道は険しい山の谷に沿った危険な道でした。ここは木曾十一宿と言い、11の宿場町がつらなっていました。

木曽福島の厳重な関所の向こうの馬篭までは木曽川に沿い、分水嶺の奈良井から下って塩尻までは日本海へ注ぐ川に沿っています。

その中山道の険しさは島崎藤村の「夜明け前」の序文に描かれていますので、下にご紹介します。
出典は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1504_14585.html です。

・・・島崎藤村の「夜明け前」の序文・・・
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖がけの道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。

 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間に埋うずもれた。名高い桟も、蔦のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。・・・以下省略します。

この中山道は現在、国道19号線として立派な舗装の自動車道路になっています。車で走りながらこの島崎藤村が描いた昔の中山道を思い浮かべていました。昔の道らしい細い道路が所々で19号線から分かれて山の斜面に入っています。

昔の中山道は現在、奈良井、妻籠、馬籠の宿場町の真ん中に残っているだけなのです。そこだけは江戸時代のままの美しい姿で残っているのです。時が止まっているのです。

此処で生活し、古い建物を美しく維持している人々のご苦労は如何ばかりかと感じ入ります。

新幹線が走り高速自動車道路が出来ても奈良井、妻籠、馬籠の町の人々は頓着しません。影響を受けません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「日本や外国で一番美しい村を訪ねあるく」

2022年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はまず日本で一番美しい村々をご紹介したいと思います。そして外国の美しい村もご紹介します。
まず日本で一番美しいと自慢している村々の一覧表をご紹介します。それはNPO法人「日本で最も美しい村」連合のHP(https://utsukushii-mura.jp/ )です。
NPO法人「日本で最も美しい村」連合は、2005年に7つの町村からスタートしました。 当時は、いわゆる平成の大合併の時期で小さくても素晴らしい地域資源や美しい景観を持つ村の存続が難しくなってきた時期でした。フランスの素朴な美しい村を厳選し紹介する「フランスの最も美しい村」運動に範をとったNPO法人でした。
現在は63の村や町が日本で一番美しい村として登録されています。「日本で一番美しい」とはあくまでも「自称」です。
私は本当に日本で一番美しいのか疑問の思いました。そこで「日本一美しい村」という長野県の原村を訪れてみました。
確かに美しい村でした。原村の道からは東に八ヶ岳と西に北アルプスの山稜がパノラマのように見える風景絶佳の村なのです。
しかしこの程度の場所は八ヶ岳の東側にいくらでもあります。
しかしNPO法人「日本で最も美しい村」連合で原村を「日本で最も美しい村」の一つに選んでいるのです。
日本一かどうかは分かりませんが日本には自称日本一の美しい村として63の町村・地域が登録されているのです。
重要なことはそこに住んでいる人々が自分の郷土を日本一美しいと信じていることです。そうしてその美観を保つためいろいろ努力していることです。感動します。
それでは自称日本一美しい村の写真をお送りします。日本一美しいかどうかは保証のかぎりではありませんが確かに良い風景です。

1番目の写真は八ヶ岳の西に稗尾がる原村から見た八ヶ岳の峰々です。反対の西側を振り返れば北アルプスの山稜がパノラマのように見えます。この写真は家内が撮りました。

2番目の写真は「日本一美しい村」群馬県の昭和村です。「日本一美しい村」として認定されるには厳しい審査をクリアしなければなりません。 昭和村は、「河岸段丘と農村風景」と「歴史を残す家並みと横井戸」の二つの地域資源が評価されました。
写真の出典は、、https://www.vill.showa.gunma.jp/kurashi/kankou/kankou/utsukushii-mura/2018-0502-0919-12.html です。

3番目の写真は長野県の小川村の新緑の風景です。
樹々が芽吹き 色鮮やかな新緑に包まれた小川村です。よく晴れた日 残雪の北アルプスが一望出来ます。
写真の出典は、https://www.pixpot.net/articles/u_d_view/296/shinsyu-ogawamura です。

4番目の写真は日本で最も美しい村、伊根の舟屋の風景です。
丹後半島の北東の小さな漁村伊根には230戸余の舟屋が周囲4㎞ばかりの伊根浦を取り囲んでいます。国の重要伝統的建造物保存地区の「伊根の舟屋群」です。ここには感動したので3度訪れました。
写真の、https://blog.goo.ne.jp/musshu-yuu/e/b701204b15060a68bffc11a14eecd593 です。

5番目の写真は日本で最も美しい村の岡山県の新庄村です。人口は約1000人、380世帯です。
都会の喧騒から離れた小さな村、合併せず守り続けてきた村の姿が、現代人が忘れかけている日本のふるさとなのかもしれません。写真の出典は、https://katsuo247.jp/post-2303/ です。
さてここフランスで一番美しいというアルザス地方にあるワイン村、「エギスハイム」をご紹介します。村の人口、たったの1700人です。日本だったら、この程度の人口の村が観光名所になることはないです。古い家屋を取り壊さず、何百年も修復してきました。(https://pfadfinder24.com/reise/eguisheim/ )

6番目の写真はアルザス地方にあるエギスハイム村の中心の広場です。
話は変わりますが、以前ドイツに住んでいた頃美しい中世の村や町を訪ねあるきました。ロマンティッシュ・シュトラーセ沿いのローテンブルグやノルトリンゲンへよく行ったものです。

7番目の写真はノルトリンゲンの家々です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3 )
これらの写真のようにヨーロッパには美くしい村や小さな町が沢山あります。小さい美しい村や町もヨーロッパの魅力です。そして日本の美しい村々も感銘深いものです。
それにしても日本や外国で美しい村を訪ねあるくと心が和むものです。何故か幸福感に包まれのです。

今日は日本やヨーロッパの美しい村や町をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「イグナチオ教会の今日の『年間第33主日ミサ 』の動画配信とミサの写真」

2022年11月13日 | 日記
今日のミサは 10:00 時から『年間第33主日ミサ』です。
動画配信のご案内をお送り致します。
https://www.youtube.com/watch?v=-ZeidiQox3I

なお関口教会からも動画配信があります。
写真はイグナチオ教会の今日のミサの写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。 後藤和弘(藤山杜人)

「高尾山の紅葉風景を写真に写す」

2022年11月13日 | 写真
ここ二、三日天がが良いので毎日出歩いています。一昨日は高尾山の麓に行って紅葉風景を撮ってきました。その写真をお送りいたします。

山の上には「高尾山薬王院有喜寺」というお寺があります。
天平16年(744年)に聖武天皇の勅令により東国鎮守の祈願寺として行基菩薩により開山されました。

「コスモスの花を眺めつつウクライナの戦乱を想う」

2022年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は久しぶりに三鷹市の「花と緑の広場」に行きました。コスモスが綺麗に咲いています。妻がコスモス畑の中を走っています。広い所に行くと走る習性があります。子供達がコスモス畑の向こうの芝生の広場ではしゃいでいます。楽しい眺めです。平和な風景です。写真をお送りいたします。

こんな平和な風景を見ながら私はしきりにウクライナの戦乱のことを考えていました。
何故ロシアは理不尽にも一方的に平和なウクライナを攻撃したのでしょうか?
原因ははロシアのウクライナや西洋に対する脅威と怨念なのでしょうか?
歴史的に考えてロシアの言い分を想像してみました。そうするとロシアはウクライナと西洋諸国に対して脅威と怨念を持っていたと考えられます。脅威と怨念は歴史的なもので深い深いものです。
今回の戦争の原因はそれ以外にありません。その原因は次の3つではないでしょうか。
(1)第2次世界大戦の時ドイツがモスクワ近くまで攻め込んでロシア人を2000万人以上殺戮した。
(2)欧米の圧力でソ連が崩壊して盟友だったポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどが欧米陣営に入ってしまった。これでロシアの栄光が突然消え去ったのです。
(3) ソ連時代に団結していたウクライナ、ペラルーシ、ロシアの3国のうちウクライナが欧米陣営に入ろうとした。もしウクライナが欧米陣営に入ったらロシアは丸裸になるのです。

上記の理由でロシアは不条理にも一方的にウクライナに武力侵攻したのです。
考えてみると国同士の戦争は怨念と領土欲で起きるものです。今回もロシアの怨念とウクライナを占領したいという領土欲で始まった戦争です。善悪を論ずればロシアが悪いのです。
昨日は平和なコスモス畑を妻と一緒に眺めながらそんなことを考えていました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「北海道のロマン、夢のような異文化の土地」

2022年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道ではその地理的位置から動植物が本州以南と非常に違います。猿もイノシシも棲んでいません。クマはヒグマですし鹿も蝦夷鹿です。動物だけではありません。植物にもエゾxxとつけられているものが多数あります。
北海道の歴史も本州、四国、九州とはまったく違うのです。そして住んでいる民族も蝦夷(アイヌ)です。アイヌ民族の文化も独特です。
そこで今日は北海道の歴史を簡単に書きたいと存じます。
さて本州、四国、九州の旧石器時代は4万年前から12000年前までの28000年間でした。縄文時代は12000年前から紀元前300年前までの11700年間です。そして弥生時代は紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。その後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。勿論この時代区分は日本の地方、地方によって多少異なります。

しかし北海道の歴史は旧石器時代と縄文時代までは本州北部とまったく同じでしたが、それ以後の弥生時代や古墳時代は存在せず縄文時代が続きます。これを続縄文時代と言います。続縄文時代はやがてオホーツク文化の影響の強い擦文模様の土器の時代になります。そしてオホーツク文化が北海道北半分に栄えます。特に網走地方にはモヨロ文化という特徴のあるオホーツク文化が栄えます。
そしてその後、鎌倉時代の頃、12世紀の頃になるとこの北海道北部のオホーツク文化が擦文土器文化と融合しアイヌ文化へと発展したと考えられています。アイヌ民族の文化は12世紀の頃に始まったのです。非常に独特な文化でした。アイヌ民族の文化については11月7日の掲載記事、「アイヌ民族の文化と生活の様子」で書きました。
江戸時代では北海道南端の松前藩以外は藩閥体制が存在せずアイヌ民族の集落が栄えたのです。

北海道の歴史を本州、四国、九州の歴史と比較すると次のような特異性があります。
(1)本州以南にあった弥生時代や古墳時代は存在せず、縄文時代がそのまま続縄文時代へと続いた。
(2)3世紀から13世紀にかけてシベリア沿海や樺太や千島のオホーツク沿岸の文化が北海道の北部に栄え、オホーツク文化時代が出来たのです。
(3)オホーツク文化に平行して、北海道中央と南部では擦文式土器を特徴とする擦文文化が栄えたのです。本州の土師器の影響を受けたものでした。
(4)鎌倉時代ころに上のオホーツク文化と擦文文化が融合し、土器は衰退し、煮炊きにも鉄鍋を用いるアイヌ文化になって行ったと言われています。アイヌ文化は12世紀頃はじまったと考えられています。

1番目の写真は北海道のストーンサークルです。これは北海道の森町にあるストーンサークルです。写真の出典は、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=715 です。
このストーンサークルの詳細は写真の出典に出ていますので、是非ご覧下さい。

2番目の写真は秋田県大湯で見つかった日本最大のストーンサークルの写真です。

3番目の写真は秋田県大湯で見つかった日本最大のストーンサークルの拡大写真です。この2枚の写真の出典は、http://www.kensoudan.com/firu-kita-y/ooyu2.htmlです。
ストーンサークルの分布から縄文時代は北海道も北東北も同じ文化圏だったということが分かります。
この北海道に12世紀に独自のアイヌ文化が栄え始めたのです。その写真を示します。

4番目の写真は子供のいるアイヌ家 の写真です。1904年の写真です。

5番目の写真はアイヌ民族博物館の職員です。噴火湾沿岸地方の伝統衣装・ルウンペを着用しています。

さて、北海道の歴史については北海道教育委員会のHP(http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htm)で明快に説明してあります。
北海道の歴史を要約すると以下のようになります。
大和朝廷が宮城県の多賀城まで領有するまでは、北海道と東北地方の北部は続縄文時代とそれに続く擦文文化時代だったと理解できます。それ以後の弥生時代や古墳時代は存在せず縄文時代と族縄文時代が続きました。そしてその後、鎌倉時代の頃、12世紀の頃になるとアイヌ文化へと発展したのです。アイヌ民族の文化は12世紀の頃に始まったのです。非常に独特な文化でした。
その頃の人々は日本という言葉も知らず、現在のような意味での国家と言う概念も無かったのです。
あるのは大和朝廷に従う人々と従わない蝦夷という区別でした。当時はまだアイヌ人という言葉すらなかったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「江戸時代初期に出来た玉川上水沿いの樹々の写真」

2022年11月10日 | 写真
江戸時代初期に出来た玉川上水沿いの樹々の写真を撮りに行って来ました。
大きな樹々を眺めていると何故か心豊かになります。平和な気分になります。玉川上水の傍に来ると江戸時代の武蔵野が偲ばれます。晩秋の午後の時間が静かにながれます。

「京都大原、三千院の紅葉」

2022年11月10日 | 写真
三千院は、京都の北側にある天台宗の寺院です。
街から外れた山間部(車で30分ほど掛かります)にあり、庭一面を覆いつくすほどの苔が生えている有清園が有名ですが、秋は紅葉の名所としても知られています。
写真は「大原、三千院の紅葉の写真」を検索して、インターネットに出ている多数の写真から選びました。

「アイヌは日本人の祖先(2)アイヌ人の作った東北の縄文文化」

2022年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム
日本に太古から住んでいた「原日本人」は後に縄文人になりました。北海道や北日本に追いやられた縄文人はやがて中世以後、独自のアイヌ文化を発達させアイヌ民族と呼ばれるようになったのです。アイヌという名称は中世以後に出来た名称です。しかしこの記事では「原日本人」をアイヌ人と書きます。その方が分かり易いからです。
そうすると旧石器時代と縄文時代の北海道と東北地方はアイヌ人による同じ文化圏だったということになります。縄文時代に北海道と東北地方から出土する石器と縄文土器が 共通な形をしているのです。
今日は煩雑な説明は後回しにして、まず写真でこの様子を示します。

1番目の写真は縄文時代に繁栄した青森県の三内丸山遺跡の復元、展示です。
一般に縄文時代は円形の小さな小屋に住み、原始的な狩猟、採集で生活をしていました。約12000年間続きました。土器や石器は使っていましたが、農業は無く、村落の規模も小さく、文化程度の低い時代だったのです。
しかし青森県にある三内丸山遺跡は規模と言い、文化レベルと言い、非常に発達しています。
三内丸山遺跡には大型家屋があり、整然と並んだ小型住宅があり、食料貯蔵用の高床式倉庫群があり、祭祀用の神秘的な巨大柱があり、整然とした墓地もあります。それは小さいながら一つの王国のようです。残念ながら文書だけは存在していなかったので、その王国の統治組織や社会階組織は全く不明です。
しかし祭祀の場所、居住区の場所、お墓のある場所が整然と分けて存在してある事実をみると高度な文化社会が存在していたと考えざるを得ません。
それはやがて弥生時代や古墳時代の地方の豪族の領地支配の歴史へと繋がる社会と文化だったのです。
三内丸山遺跡はこのような縄文中期の高度な文化を示す驚異的な遺跡であり、実に多彩な出土品も出ているのです。
そしてこのような高度な縄文文化は北海道にも同じようにあったのです。

2番目の写真は北海道から出土した国宝の中空の土偶です。北海道の函館市臼尻小学校付近から出土した多量の精巧な土偶です。高さ41・5センチメートルもある大きな土偶です。この展示館は2912年に訪問し写真を撮りました。
この国宝の詳細は、函館市縄文文化交流センターを検索すると出ています。

3番目の写真はこの国宝の土偶の説明板です。1975年に発見されたことなどが書かれています。

4番目の写真は同じ函館市臼尻遺跡から出て来た土器です。北海道から出土する縄文土器は円筒形をしたもので、同じような土器が北東北地方からも出てきます。

5番目の写真も同じ函館市臼尻遺跡から出て来た石器です。

6番目の写真は同じ文化圏だった東北千穂と北海道西部の範囲を示す図です。

7番目の写真は石器として重要だった黒曜石の流通経路です。黒曜石で作った矢じりや小刀は北海道も北東北も同じ産地の黒曜石を使っていました。矢じりを矢に接着するアスファルトも同じ秋田県産のものを使っていたのです。

このように写真で示した北海道とこの青森県の縄文文化は、縄文時代後期の突然の寒冷化で衰退してしまうのです。
縄文前期の日本全土の縄文人の総数は2万人で、中期には26万人まで増加します。しかし、後期の寒冷化によって再び数万人までに減少するのです。
人口が確実に増加に転ずるのは稲作が始まった弥生時代からです。
青森県の三内丸山遺跡も北海道の遺跡も縄文後期には衰退し消えてしまったのです。
以上のように北海道と東北地方の縄文文化は間違いなくアイヌ人(原日本人)によって作られた文化だったのです。
同様にして全国の縄文文化は当時全国に広く住んでいたアイヌ人(原日本人)によって作られたのです。

やがて本州南部のアイヌ人(原日本人)と大陸からの渡来人との混血によって弥生人が出来て行きます。そうしてこの弥生人がアイヌ人(縄文人すなわち原日本人)を次第に駆逐して行きます。
弥生時代になってから、本州以南に住んでいたアイヌ人(原日本人)が大陸からの渡来人と混血して弥生以後の日本人になりまました。一方、北海道に孤立した人々が中世以後はアイヌ民族と呼ばれるようになったです。アイヌ民族の独自の文化の発達に樺太や千島の北方民族の影響がありました。このアイヌ民族の独自の文化のことを擦文土器文化と言います。
一方、大和朝廷は仙台市の多賀城に北端の城柵を作り、アイヌと違った文化圏を作りあげて行ったのです。この政策が本州以南の日本人と北海道のアイヌ人(原日本人)の分離と住み分けに繋がって行くのです。
それが明治時代以降に大和朝廷以後の日本人とアイヌ人(原日本人)が再融合したのです。
この歴史は雄大な歴史ロマンではありませんか?

今日は旧石器時代と縄文時代の北海道と東北地方はアイヌ人(原日本人)による同じ文化圏だったということを説明しました。縄文時代に北海道と東北地方から出土する石器と縄文土器が 共通な形をしていたのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)