後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の仏教と釈迦の教えの違い、5つの具体例」

2024年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム
誤解を避けるために始めに書きますが、日本の仏教は悪いと非難する意図は毛頭ありません。
ただ単に、こんな違いがあるのではないでしょうかと問題を提起したいだけです。
皆様からのご意見やご指導を頂きたいのです。

さてお釈迦様は2500年程前にインドに生まれ、現在でも世界中の多くの人に信じらている仏教を創ったのです。
インドでその後500年くらい経ってから仏教は大乗仏教と上座部仏教の2つに分かれました。
玄奘三蔵法師が629年に陸路でインドに向かい645年に経典657部や仏像などを持って唐に帰還しました。
この玄奘三蔵法師の持ち帰ってきた経典は大乗仏教のものでした。
従って現在の日本の仏教は大乗仏教に近いものなのです。

一方、上座部仏教の方はミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、そしてインドネシアのバリ島に伝承されました。

それでは上座部仏教と大乗仏教の違いは何処にあるのでしょうか?
上座部仏教では厳しい修行をしたわずかな人しか救われず、一般の人々は救われません。しかし、釈迦はすべての人々を救いたかったはずです。そんな考えから生まれたのが大乗仏教です。
大きな乗り物ですべての人々を救う事を目的とします。上にも書きましたが、日本に伝えられた仏教は、すべてがこの大乗仏教を基本にしています。

さてそれでは釈迦の教えと日本の仏教の違いを以下に示して見ようと思います。
(1)釈迦は自分が死んだら墓を作らず、遺骨は野に捨てよと言って入滅しました。
しかし日本の仏教では先祖の墓を大切にし、お寺はお墓の管理で収入を得ています。

(2)釈迦は全ての像を拝んではいけない。仏像など作ってはいけないと教えました。
しかし日本には観音さまや薬師さまや大日如来さまの像が沢山あり、崇拝されています。

(3)釈迦は全ての殺生を禁じました。
しかし現在の日本の仏教徒はこの戒律を破っています。しかし江戸時代までの日本人も四つ足の動物は殺して食べませんでした。

(4)釈迦は妻や家族から離れて出家しました。
しかし日本の僧侶は妻帯し子供を大切にしています。お寺は世襲制で子供がまた住職になるのです。お寺の住職の世襲制は釈迦の教えとは違います。

(5)釈迦は教えの中心の「色即是空、空即是色」と「受想行識亦復如是」を本当に深く理解し信じるためには家族から離れて出家しなければいけないと教えました。
しかし日本では出家しなくても釈迦の教えが理解でき悟りの境地に入れると信じられています。

以上のような違いのあることを私は重要視しています。
その理由の一つは自分がカトリックの信者だからとも考えています。キリスト教ではイエスの教えを福音書として正確に伝承しています。そのイエス自身の教えを変えないで、そのまま信じるように努力しています。だから仏教は間違っているなどと皮相的な、そして浅薄な主張をいたしません。
もしそう考えたとしたら宗教というものの奥深さを理解していない証拠です。

それはさておき上記の釈迦の教えにより近似しているのがミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、そしてインドネシアのバリ島に伝承された上座部仏教と考えられます。

あまり長くなるのであとは写真を示して終りとします。
1番目の写真は13世紀に作られたタイのお寺です。上座部仏教のお寺です。
2番目の写真も同じお寺の別の建物です。タイのチェンマイにあります。
3番目の写真はタイの上座部仏教のお寺のような日本のお寺の写真です。2009年に前橋市で撮った写真です。
4番目の写真は前橋市のお寺にあった仏足石です。
5番目の写真はた仏足石の説明板です。
前橋市のお寺の住職さんがインドのブッタガヤの菩提樹の下にあった仏足石の拓本をとって、帰国後、石屋さんに作らせたような経緯が書いてあります。

さてこの前橋市のタイ風のお寺について少し説明を加えておきます。
2009年の夏のある日、私共は前橋市に1泊しました。その時、このタイ風のお寺を発見しました。
ホテルの駐車場の裏にあったお寺です。車を停めてからタイ風のお寺へ好奇心が湧き、見に行きました。ところが本堂の前にいきなり大きな佛足石が飾ってあります。
お釈迦さまを身近に感じて日常の生活をするようにと住職さんが飾っておいたのです。
このタイ式の屋根を持ったお寺の住職さんが、ブッタガヤまで行って拓本をとってきて再現したものです。
翌朝、もう一度訪ね、玄関の呼び鈴を押し、突然で大変失礼ですが、住職様のお話を少しお聞きしたいのですが、と頼みました。
出てきたのは頭をそり上げた若い住職様でした。父親がブッタガヤへ行って写してきたこと、タイを巡礼し何故か感動してタイ式のお寺を作ったことなど話してくれました。日本の屋根屋さんが苦労して作ったことも話してくれました。「お釈迦さまを身近に感じさせていることに感動しました」と申し上げました。若い住職様は「そうです。それが一番です」と答えます。
それだけの話です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「庄野英二の『星の牧場』と山林の中の小屋」

2024年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム
たまにはロマンチックな気分になるのも良いと思います。そんな朝です。
そして私は庄野英二の『星の牧場』を思い出しました。内容はつぎのようなものでした。
復員兵イシザワ・モミイチはインドネシアで戦ってきたが、愛馬ツキスミを失い、記憶を失っていたのです。彼が山中の牧場に辿りついて、音楽を演奏するジプシーたちと出会い、そこで心の癒しを得るのです。空には満天の星が輝いていました。・・・そして幻想的な話が続きます。
この牧場の上の満天の星空という光景が心に焼き付いてしまったのです。
それ以来、牧場のそばの雑木林の中に小屋を建てるのが夢になりました。
そんな折、1973年の頃でしたか、新聞に「別荘を建てる山林を格安で売ります」という広告を見ました。
小学生だった息子と現地に行ってみるとその山林は牧場から白樺が混じっている雑木林を通リ抜け、その先の崖を下りた谷間のような土地です。
谷間に大きな松の木や雑木が生えた暗い林でした。そしてその松林の西側には花崗岩が白く輝く甲斐駒岳が高々と聳えていたのです。
暗い、じめじめした谷のような場所なので躊躇していたら、不動屋さんが、「この一画を買うと庭の中をヤマメのいる清流のある別荘が建てられますよ」と真剣に薦めます。
「ヤマメの棲む清流」に負けて買う決心をしました。何本も樹を切って貰い、小さな鉄筋コンクリートの小屋を建てました。
さて「星の牧場」ですが、それは小屋の前の崖を登り、白樺の雑木林を通って行くと広い牧草地に出ます。
乳牛を30頭ほど飼っている牧場です。石原さんという一家が牛の世話をしています。
早速、挨拶に伺い、すぐに親しくなりました。気持ちのよい家族でした。祖父、祖母、中年の夫婦に小学生くらいの息子が2人いました。私どもも子供が2人いたので乳牛をよく見に行きました。
山林の小屋に泊まっていると、石原さん一家の祖母が孫の小学生とともに一升瓶に入った牛乳を何度も届けてくれました。
その上、春には筍を掘ってくれるのです。正月には赤飯やなまこ餅もくれるのです。

夏の夜にはその牧草地にあがって天の川を見上げました。周囲が暗いので星々が鮮明に見えるのです。
北西の方角には八ヶ岳が見え、大泉村らしい集落の家々の灯が小さくチラチラ見えます。
それはまさしく庄野英二の『星の牧場』のなかに出て来る光景と同じようだったのです。
そこは星の美しく見える高原なのです。
私の山林の中の小屋が完成したのは1974年です。完成以来、茫々50年です。
牧場をしていた石原さんも乳牛を飼うのを止め、生活に便利な集落に立派な家を作り悠々と暮らしています。お世話になったので時々寄りお礼をしました。
私の山林の小屋のまわりの風景をお送り致します。甲斐駒岳や山林の風景は50年前と同じです。

1番目の写真は私の小屋の西に聳える甲斐駒岳です。

2番目の写真は石原さんの牧場の東にある真原の風景です。

3番目の写真は山林の中の小さな、小さな小屋です。
最近はイノシシや猿や鹿が急に多くなりよく見かけるようになりました。
小屋の庭を流れる小川にはヤマメが棲んでいました。
この山小屋のお陰である小説家とも親もくなりました。
小屋を建てて数年した時、山林の中でもの思いにふけりながら散歩をしている若い男の人に会いました。人気の無い山道で会ったので少し話をしました。
彼は小説を馬場駿という筆名で沢山書いていた人でした。 
彼は兄の山荘に一緒に住んでいるから寄ってみないかと言います。山荘は約1000坪ほどある山林の中に建っていました。広い山荘に兄弟が2人きりで暮らしています。私は馬場駿と彼の兄と親しくなりました。
ある時、兄弟は石造りの暖炉が完成したから一緒にビールを飲もうと誘ってくれたのです。
行ってみると暖炉は自然石を上手に組み、間をコンクリで固めた立派な出来でした。
薪を焚きながらよく冷えたビールを男3人が飲むのです。赤く揺れる炎と香しい煙が男たちを楽しくさせます。

4番目の写真は馬場駿と彼の兄の山荘の庭に咲いていたカタクリの花です。私が撮った写真です。

5番目の写真はその山荘の庭にあるコブシの花です。写真は馬場駿の兄さんが撮ったもので、ブログ「北杜市・自然の中で」、http://sizen068.blog95.fc2.com/ から転載させて頂きました。

このように私は山林の中に小屋を建てたおかげでいろいろな人々と親しくなりました。これらの人々も年々歳歳しだいに年老いていきます。
私自身も年老いて山林の小屋へは行けなくなりました。昨年秋と今年の一月
息子夫婦と孫二人が私どもを小屋へ久しぶりに連れて行ってくれました。

小屋の周囲の自然の風景だけは変わりません。しかし知り合った人々はみんなみんな消えてしまいました。年年歳歳、自然は変わりませんが、懐かしい人々は変わるのです。

今日は庄野英二の『星の牧場』をご紹介し、私の山林の中の小屋にまつわる思い出を書きました。そこでまじわった人々を懐かしく思い出します。みんなみんな消えてしまった人々です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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庄野英二の『星の牧場』

高原の牧場で働く青年モミイチは、戦争のなかで受けたショックとマラリアの熱で記憶を失っている。だが、1兵隊のときの愛馬ツキスミのことだけは忘れられず、今もその麻の音が時折耳に聞こえてきた。ある日、麻の音を追いかけて山奥深く入り込んだモミイチは、初めて踏み込んた美しい花畑でクラリネットを吹く男に出逢う。彼のテントで一夜を明かし、聞いたのは森の中で暮らす不思議なジプシーたちのことであった。各々が得意の仕事を持ち自由な生活をおくりながら、時々一緒になって音楽を演奏して楽しむという。ツキスミのことを心配してくれるジプシーたちに心惹かれたモミイチは感激し、牧場に戻ってきても彼らのことばかり考えていた。美しい音色を奏でる鈴をたくさん作った彼は、再び山奥深く入り込みジプシーたちを捜し求める。そして、オカイコを踊らせるバイオリン弾きの美少女、ビオラを奏でるそり兄をはじめ、たくさんのジプシーたちと出逢い素晴らしい歓待を受けた。彼らの「次の満月の夜、森の奥で開かれるジプシーたちの・バザールで再会しよう、それまでにツキスミのことを尋ねておこう」という言葉を胸に、モミイチは牧場に戻った。だが、彼を心配した牧場主夫婦、許嫁のゆきはこれ以上自由にしておけぬと監視する。満月の夜、牧場を抜け出せぬモミイチは泣くのだった。夏も過ぎ去ろうという頃、再び山に出かけた彼は歩き回るが、かつての場所にジプシーたちの姿は見えなかった。捜し疲れて眠り、眼を覚ますと流れ星の降る中をツキスミが駆けめぐっている。夜空ではジプシーたちのオーケストラがシンフォニーを響かせている。歓喜にあふれたモミイチはツキスミの背に乗って、夜空で待ち受けるジプシーたちの許へと昇っていくのだった。(終わり)

「カトリック関口教会の年間第7主日のミサの動画配信」

2024年02月18日 | 日記
今日のカトリック関口教会の年間第7主日のミサの動画配信です。

年間第7主日 
https://www.youtube.com/watch?v=QRJEMIrskY0

カトリック東京カテドラル関口教会 主任司祭:天本昭好

関口教会は1900年に正式に小教区として設立されました。1918年に大司教館が移転し、1920年に築地教会から関口教会に東京の司教座聖堂(カテドラル)が変更となり現在に至ります。
戦後、ドイツ・ケルン教区の多大な支援により1964年12月8日には、丹下健三氏の設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂が献堂されました。



「現在の東北大学の航空写真」

2024年02月17日 | 写真
私が通っていた頃の東北大学は仙台の中心近くの片平丁にありました。その後、青葉城跡の南の山に移転しました。
その現在の東北大学の航空写真をお送り致します。
写真はインターネットからお借りしました。

「嗚呼、従軍看護婦の献身と多数の戦没」

2024年02月17日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争、第二次世界大戦は日本民族の歴史において空前絶後の大事件でした。
以下の一覧表のように日本人が310万人も死に、中国人は1000万人、アメリカ人も40万人も死んだのです。
朝鮮人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。

中国1000万人
インド350万人
ベトナム200万人
インドネシア400万人
フィリピン111万1938人
ビルマ5万人
アメリカ人40万5399人
オーストラリア2万3365人
しかし従軍看護婦の犠牲者数は忘れられています。
今日は従軍看護婦の戦地での悲惨な体験と多数の戦没の一端をご紹介しようと思います。
まず日本の従軍看護婦従はどれだけいたか?その数からご報告します。
満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、延べにして35,000名(そのうち婦長は2,000名)でした。このうち1,120名が戦没したのです。
太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20,500名、そのうち外地勤務は6,000名もいたのです。
応召中の日赤看護婦は15,368名でした。海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは無いのです。 海軍にも数千人がいたのです。
さて従軍看護婦の仕事ぶりを見てみましょう。
・・・当時の軍隊においては、前線で傷病兵が発生した場合、まず隊付の包帯所で応急処置が行われ、必要に応じて前線の野戦病院から中間施設である兵站病院、最後方の陸軍病院に送られた。傷病兵はなるべく前線の野戦病院で回復させ、原隊復帰させるが、それが難しい場合には兵站病院、さらに特殊な治療が必要な場合は陸軍病院に送られるシステムになっていた。
 看護婦には、日赤の看護婦、陸海軍の看護婦、そして軍隊に属さず、個人や集団で救護に参加した看護婦もいた。看護婦は女性であるため、特別に認められた場合を除いては前線では勤務しないことになっていた。日赤の看護婦は原則として兵站病院までの衛生施設で勤務すること、陸海軍の看護婦は後方の陸海軍病院で勤務することが定められていた。それより前線に設けられる野戦病院は軍の衛生部隊が担当した。・・・以下省略します。
詳しくは、「戦争で動員された看護婦」、https://jnapcdc.com/LA/kawahara/ をご覧ください。
ここで従軍看護婦の写真をご覧下さい。







戦況が悪化した戦地の様子は悲惨でした。そんな状況でも従軍看護婦たちは献身的に働いたのです。そんな姿を見た傷病兵はどんなに勇気づけられてでしょう。
ここで少し従軍看護婦の長谷部鷹子さんの手記をご紹介いたします。
「戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言 2」
https://www.jiji.com/jc/v4?id=1308jrc0001
 1921(大正10)年、岐阜県の職業軍人の家に生まれました。父は近衛兵でした。「女でも手に職を付けておくことは大事だ。緊急のとき、夫に代わって家計を支えることができる。何もできないのはいかん」と、尋常高等小学校のときに言われました。
 女学校を出て、37(昭和12)年7月7日に盧溝橋事件が起きて日中戦争が始まり、いとこから「役場で赤十字の看護婦さんの募集をしているよ」と言われ、試験を受けたわけです。100人くらい来ていましたが、幸い合格しました。入学はその年の12月4日でした。
 3年間勉強して、それからすぐ召集。内地の岐阜陸軍病院に半年間、4月までおりました。それから、2回目の召集で北支へ行きました。山西省、北京の西にあった臨汾陸軍病院に2年間勤務。昭和18年5月18日に帰国しました。
 北支は、黄砂が1週間くらい発生して前が見えないくらい。そういう中での勤務でした。急性伝染病棟の方でした。赤痢や腸チフス、パラチフス、発疹チフスなどの病気です。
 伝染病棟は200床くらいあったでしょうか。患者はレンガの上にわら布団。リンゲルを足にぶら下げ、水分補給の注射ですが、足がこんなにはれて。アメーバ赤痢というしつこい病気で、亡くなる人も多かったです。
 重症の人は私たちが食べさせました。つらいと思ったことはなかった。どんなことがあっても乗り越えなければならないと思いましたよ。
 有名な五台山の作戦があり、凍傷患者がたくさん出ました。兵隊さんは靴下や手袋に唐辛子を入れて、寒さを軽減していました。だけど、指が腐っちゃって。急に温めたらだめなんです。だんだん慣らしていかないと。内科に勤務替えになったとき、そういう患者を看護しました。
 帰国後、役場から保健婦の勉強をしてほしいと話が来て、1カ月の講習後に試験がありました。3回目の召集は、ちょうどその発表の日です。行き先はただ、南方とだけ。着いたところがビルマ(現ミャンマー)です。・・・
以下省略します。

今日は戦争の悲劇を忘れないために従軍看護婦の悲惨な献身と多数の戦没をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「私の人生のいろいろ(4)高校時代に習った漢文とドイツ語」

2024年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台第一高等学校に入ったのは昭和26年でした。新制度の高等学校でしたが先生方は旧制の仙台一中のままです。ですから教育は旧制の中学校のようでした。
印象深かったのは漢文とドイツ語の授業でした。新制の中学校には無い課目です。
特に漢文の初老の塩見先生は旧制の中学の教え方と同じで生徒にいろいろな漢詩を声高々と暗唱させるのです。自分でも声を張り上げて歌うように朗読します。
例えば、李白の山中問答は次のように朗読します。

余に問ふ 何の意ありて碧山に棲むと
笑ひて答へず 心 自づから閑(しづ)かなり
桃花流水 窅然(えうぜん)として去る
別に天地の人間(じんかん)にあらざる有り

問余何意棲碧山
笑而不答心自閑
桃花流水窅然去
別有天地非人間

君に問うが,なにゆえ青い山の中に住んでいるのか
笑って答えないが,心は自ずから静かだ
桃の花,流れる水,その奥深くに分け入れば
俗世とはまた別の天地があるさ

こうして私は今でも幾つかの漢詩を懐かしく思い出します。
漢文の他に印象深かったのは初めて習うドイツ語でした。複雑怪奇な外国語でした。なにせ定冠詞だけでも次のように変化するのです。


男性名詞
女性名詞 中性名詞 複数名詞
1格
(~が、は)
derdiedasdie
2格
(~の)
des-(e)sderdes-(e)sder
3格
(~に)
demderdemden-n
4格
(~を)
dendiedasdie
私はドイツに1969年から1年6ケ月住んでいました。多くのドイツ人は英語が出来るので大体英語で話していました。ドイツ語を使う場合は定冠詞はすべて、die だけにしました。それでも通じました。いい加減なドイツ語でした。かんたんな会話しかしませんでした。
一方、フランスでは往生しました。彼等は英語が出来てもフランス語しか使わないのです。私はフランス語は出来ません。往生しました。

添付の写真は唐の長安のあった現在の長安の街風景や大雅塔や慈恩寺の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)