後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「芸術の秋(4)夭折の画家、 中村彝」

2024年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
中村彝(なかむらつね)は結核に苦しみながら感動的な油彩画を沢山描いて37歳で亡くなった夭折の画家でした。私は何年も前に水戸の近代美術館で彼の特別展を見た時の強い衝撃を忘れません。そして新宿の中村屋には何度も行って壁に掛かっている中村彝の絵画を見ています。
油彩画はどれも暗い色で人間の苦悩と美しさを描いたものです。風景を描いても静物画を描いても何か 中村彝の苦悩が滲んでいるのです。深い精神性を感じさせるのです。特に日本の重要文化財に指定されている「エロシェンコ氏の肖像画」はロシアの詩人エロシェンコの盲目の苦しみと強い情熱が描いてある彼の傑作です。
そんな絵画を写真でお送りします。

1番目の写真は大きさ45.5×42cmの「エロシェンコ氏の肖像画」です。1920年(大正9年)に描かれた油彩画で現在は東京国立近代美術館に展示してあります。国の重要文化財です。
エロシェンコの像は盲目の詩人の内に秘めた精神性と内面的なものを感じさせる肖像画の傑作です。中村彝の“心の内”が投影された、いわば彼の自画像とも言はれてる作品です。

2番目の写真は下落合の「中村彝アトリエ記念館」に展示してある1914年の描かれた「少女像」です。
中村は1911年新宿中村屋の相馬夫妻の厚意で新宿中村屋裏のアトリエに引っ越します。絵のモデルは相馬家の長女「俊子」です。彼女との恋愛を反対され中村彝は失意のうちに新宿中村屋を去ります。
新宿中村屋の創業者の相馬愛蔵氏と奥さんの黒光さんは明治、大正、昭和の始めにかけて深い人類愛と芸術へ対する尊敬を持ち、数多くの芸術家を情熱的に支援してきたのです。その正確な歴史的記述は「中村屋サロン」と題する、HP: http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p01.html にあります。


3番目の写真は彝のアトリエ裏手の風景『目白の冬』です。中央に描かれてあるのがメーヤー館(宣教師の住居)で右端に描かれてあるのが英語学校です。

4番目の写真は福島の海岸の風景です。彝が21歳の頃転地療養中に福島県いわき市に滞在した時の作品です。板に描かれているので絵具が薄い部分は下地の木目が見えています。それが海の透明感や海中の岩を感じさせています。暗い色彩ですが美しい絵です。

5番目の写真は1919年、大正8年に描かれた「静物」です。現在は茨城県近代美術館が所蔵しています。

さて中村 彝(1887年 - 1924年)は大正期にかけての洋画家でした。(https://ja.wikipedia.org/wiki/中村彝 )
1887年(明治20年)、茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれました。父は彝が生まれた翌年に没し母も彝が11歳の時に没し、淋しい少年期を過ごします。
1904年(明治37年)祖母が死に、唯一生き残った姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり一人暮らしの境遇になったのです。
その上、彝自身も結核を病み療養のため折角入学した陸軍中央幼年学校を中退します。
1905年(明治38年)、18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に行き、彝はこの地で水彩スケッチを始めたのです。翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をするが、その間にも千葉県などへ転地療養を繰り返しています。
1909年(明治42年)22歳の時に第3回文展に初入選します。
1910年(明治43年)には第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり作品は実業家の今村繁三が購入します。
1911年(明治44年)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになります。

1913年(大正2年)~1914年(大正3年)にかけての彝の作品には相馬家の長女の俊子をモデルにした裸婦像が数点あり2人は親密な関係だったのです。彝は俊子に求婚するが結核を理由に反対されます
その後の1916年に新宿区下落合にアトリエを構え、以後、彝は亡くなるまでこのアトリエでで油彩画を描き続けたのです。
1920年(大正9年)にはルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を受けました。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影響が感じられると言う人もいます。
1921年(大正10年)には病状が悪化し翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していません。
1924年(大正13年)に37歳で夭折します。
2013年(平成25年)に新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンします。

この様に中村 彝は生前からその油彩画は高く評価されたのです。しかし37歳での旅立はあまりにも早過ぎました。これから円熟した絵を沢山描こうとしていた時に亡くなったのです。中村 彝の才能が惜しまれます。嗚呼。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「芸術の秋(3)茨城県近代美術館の展示絵画のご紹介」

2024年09月26日 | アート・文化
今日は茨城県近代美術館の展示絵画をご紹介したいと存じます。美しい梅林の偕楽園の下にあります。碧いさざ波の広がる千波湖の岸辺にある美術館です。
茨城県近代美術館では茨城ゆかりの作家をはじめ、日本と西洋の近代美術作品を紹介しています。
偕楽園の下に広がる千波湖畔にある美術館です。横山大観など茨城県ゆかりの作家を中心に、国内外約4,000点の近現代美術作品を収蔵、展示しています。ロダン作「三つの影」、横山大観作の「流燈」など多数の所蔵作品を鑑賞することができます。また、美術館南側に、水戸市出身の洋画家である中村彝(つね)のアトリエを新築復元し、彝の遺品や資料を公開展示しています。
詳しくは、茨城県近代美術館 | The Museum of Modern Art, Ibaraki (ibk.ed.jp) をご覧下さい。
展示絵画の写真を示します。
上の4枚の写真は常設展示の写真です。
この美術館では時々にあるテーマを決めて公募展をしています。次の2枚の写真は公募展の様子です。
公募展では多数の絵画が集まるので壁一面にビッシリと展示します。
最後に茨城県近代美術館の建物の写真をお送り致します。
この茨城県近代美術館は偕楽園の下にあるので梅林が満開になる頃に訪れると良いと思います。私どもも何度か薫る梅林と近代美術館を訪ねました。
なお水戸に行ったら町中にある藩校の弘道館の庭の梅の花もご覧ください。梅の木は偕楽園ほど多くありませんが楚々と咲いた梅には感銘を受けます。偕楽園とともに梅の名所です。 
 
今日は茨城県近代美術館の展示絵画をご紹介致しました。そして美しい梅林の偕楽園と弘道館もご紹介しました。
 
それはそれして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「芸術の秋(2)笠間日動画廊美術館と板谷波山記念館」

2024年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム

茨城県の水戸には県立美術館があり北茨城には県立天心記念五浦美術館があります。
そして笠間市には笠間日動画廊美術館と県立陶芸美術館があります。笠間の西隣りの筑西市には板谷波山記念館があります。

私はこれらの美術館を以前に家内と一緒に見てまわりました。水戸の県立美術館での中村彜の特別展は印象深いものでした。
今日は笠間日動画廊美術館の展示の絵画と板谷波山記念館の板谷波山の陶芸作品をご紹介したいと思います。
まずこれらの写真を示します。

1番目の写真は「泉のそばの少女 」 オーギュスト・ルノワール (1841-1919)です。

2番目の写真は「ヴェトゥイユ、水びたしの草原 」クロード・モネ (1840-1926)です。

3番目の写真は「パリ裏街 」 佐伯 祐三 (1898-1928)です。

4番目の写真は板谷波山の彩磁藤文花瓶です。

5番目の写真は彩磁花弁紋香炉です。

6番目の写真は白磁唐草文壺です。

7番目の写真は青磁袴腰香炉です。
これらの数少ない写真だけでは笠間日動画廊美術館や板谷波山記念館の多数の展示品から受ける感動はお伝え出来ません。それらのほんの片鱗をご紹介したのです。
日動画廊の展示絵画は豊富です。どれも身近に置きたくなるような楽しい油絵が並んでいます。その上、有名な絵描きさん達と親交が深かったので、美しいパレットが蒐集展示してあるのです。アトリエの中の画家の息吹が感じられるのです。
日動画廊は銀座や名古屋など各地にあります。お店は出入り自由の美術館のようです。その上、その店で時々、個展を開いているのです。
単なる画商ではなく絵画芸術の普及に努力し、画家達を応援しているのです。その精神は尊敬に値しますので以下に創業者の長谷川仁さんをご紹介します。
彼は1928年に友人の弟で洋画家であった松村建三郎の助言で洋画商を志し横浜貿易会館で洋画大展覧を開催したのです。
1931年には、日本動産火災保険の当時の社長の粟津清亮の好意で京橋区銀座5丁目に「東京画廊」を開きます。それをすぐ「日動画廊」と改称して、洋画だけの画商として現在に至っています。
長谷川仁氏は1897年に生まれ 1976に亡くなりました。
そして1965年には、出身地の茨城県笠間市に笠間日動美術館を作ったのです。

一方、板谷波山は明治5年(1872)に茨城県に生まれ昭和38年(1963)に亡くなりました。
明治27年東京美術学校彫刻科卒業後、明治36年に田端に居を構え、「波山」と号し、陶芸家としての道を歩み始めました。貧窮の生活の中で窯を築き、明治39年初窯に成功し、翌年には東京勧業博覧会で三等賞を受賞。以後様々な展覧会・博覧会で入選・受賞を重ね、陶芸界での地位を不動のものとしていったのです。
板谷波山の作品は静謐な美です。眺めていると心が静まります。そしてその上品な美の世界へ吸い込まれていくのです。宗教とはまったく別な崇高なものを感じさせます。嗚呼、そういうのが陶芸芸術なのだと納得するのです。茨城県の筑波山の北の山麓にある筑西市に生まれ育ったので筑波山の筑を消して波山と号したそうです。

波山の精神性に溢れた陶磁器が沢山あるのが板谷波山記念館です。そして笠間日動画廊美術館の近所にある茨城県立陶芸美術館にも波山の作品が沢山展示してあります。
是非、笠間日動画廊美術館と板谷波山記念館にあわせて茨城県立陶芸美術館もご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「妻の影響で絵画が楽しめるようになった」

2024年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム
大学の工学部を卒業した私はコチコチの理系で芸術に関心がありませんでした。芸術に盲目でした。結婚したら妻が私の目を開いてくれました。初めて見た画が『笛を吹く少年』でした。エドゥアール・マネが1866年に描いた油絵です。
この写真が『笛を吹く少年』です。写実的でわかりやすい絵です。力強く写実的な画だと感動しました。
その後ドイツに住んだので数多くの美術館に行きました。圧倒的の多いのが宗教画の美術館でした。宗教画はあまり芸術的ではないのです。
イエス様の復活を信じず、疑いながら脇腹の傷に触れるトマスと哀れみの眼差しを注ぐイエスの画に感動しました。デューラーの作品の美術館や数は少ないのですが印象派などの絵を展示した美術館もありました。
宗教画や印象派などの原絵を数多くに見たおかげで西洋の絵画が楽しめるようになりました。

「我が故郷、仙台の戦前の風景を懐かしむ」

2024年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
誰でも自分が生まれた頃の故郷の風景が懐かしいと思います。幼いながら心に焼き付いている光景も沢山あるのが普通です。
幸い最近はインターネットが発達して昔の日本各地の風景が数多く記録されています。ですから根気よく検索して行くと自分が幼少だった昔の風景が見つかるのです。
私は昭和11年、1936年に仙台で生まれました。その仙台を例にして昔の故郷の風景を幾つか見つけましたのご紹介したいと存じます。
仙台には昭和11年から昭和35年にアメリカへ留学するまで24年間住んでいました。
私の追憶にある仙台の風景写真をいろいろ探して、皆様へご紹介したいと思います。

1番目の写真は戦前の仙台駅で、ここから父の実家のあった兵庫へ何回も里帰りしました。人力車に乗って駅まで行ったのです。
昭和30年ころの市電です。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。

2番目の写真は昭和30年ころの市電です。市内のあちこちへ行くときよく乗ったものです。

3番目の写真は真は戦災で焼ける前の伊達正宗の霊廟の瑞鳳殿です。

4番目の写真は戦災で焼けてしまった青葉城の大手門と隅櫓です。

5番目の写真は国分町と大町通りの交差点にあった高札場跡の芭蕉の辻です。

6番目の写真は繁華街の国分町の風景です。軍人が歩いていますが、仙台には第二師団という大きな師団がおかれていて町には何時も軍人が歩いていました。第二師団長の多門大将の名前をつけた「多門通り」という通りもあったものです。

7番目の写真は繁華街の東一番丁通りと大町通りの交差点です。大町通りの東方向に見た時の写真です。右側にある大きなビルは藤崎百貨店です。仙台の地元の百貨店ですが、この他に三越の仙台店が東一番丁通りの北の端にありました。
藤崎も三越も戦災で内部が少し焼けましたが、戦後すぐに復興して仙台市民を明るくしてくれました。

茫々70年、時代の変化に隔世の感を深くします。
昔の日本の風景を見ると現在の豊かさに吃驚します。そしてこの豊かな日本に生きていることに感謝します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りもうしあげます。後藤和弘(藤山杜人)

「仙台の向山小学校と往年のプロ野球で活躍した若林忠志選手の思い出」

2024年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台の向山小学校へ私は昭和18年に入学しました。その向山小学校は昭和9年仙台市立向山尋常小学校として開校しましたが,昭和16年4月1日には仙台市立向山国民学校と改称され,現在の名前になったのは昭和22年4月1日のことです。 以来卒業生は約9,000名を越えています。
その学校でよく野球をして遊んでいました。当時は戦後の貧乏な時代でグローブは布でした。

1番目の写真は仙台市立向山国民学校の当時の玄関です。

2番目の写真は向山国民学校の当時の校庭です。この校庭では運動会をしたり野球をして遊んでいました。
その校庭に、当時の阪神の若林忠志選手が現れたのです。
若林選手は「七色の変化球」(ストレート、カーブ、シュート、スライダー、シンカー、ドロップ、ナックル) で有名でした。1936年に阪神に入団したハワイ生まれの日系二世でした。
私が小学3年生の時の終戦後、向山小学校の校庭で野球の指導を受けたのです。
小学生が受けやすい軽いノックをしてくれました。そしてプロ野球で使う大きな革のグローブとバットを見せてくれました。革のグローブは大きく重く汗の臭いがしていました。当時は皮製のグローブは高嶺の花だったのです。嗚呼、これがプロ野球なのだと感動したのを憶えています。
終戦後、若林選手は仙台の霊屋下の私の友人の家に寄寓していました。その友人の本間君が向山小学校の校庭に連れて来たのです。

3番目の写真は阪神時代の若林忠志選手です。
若林選手の指導は一回だけでした。その後、彼は石巻の奥さんの実家へ引っ越して仙台から去ってしまったのです。若林選手の指導を受けたのに私はその後野球は上手になりませんでした。生まれつきの運痴なのです。

4番目の写真はベーブルースが日本に来た時のポスターです。
昭和9年11月、ベーブ・ルースを総帥とする全米選抜チームが来日しました。 全米チームの来日は昭和6年に引き続いて2回目のことでした。 日米両チームは4日の神宮球場での第一戦を皮切りに、全国12都市で16試合を戦いました。 一行はどの都市へ行っても大歓迎をうけました。

今日は仙台の向山小学校と往年のプロ野球で活躍した若林忠志選手の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「故郷の仙台の青葉城跡と『荒城の月』」

2024年09月23日 | 写真
 私は仙台で生まれ育って24歳まで住んでいました。青葉城跡へは何十回も登り眺望を楽しみました。天気の良い時は太平洋まで見えるのです。そして『荒城の月』という歌を口ずさみました。

春高楼の花の宴 めぐる盃さかずきかげさして
千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいずこ

秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁かりの数見せて
植るつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ

いま荒城のよわの月 替わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら 松に歌うはただあらし

天上影は替わらねど 栄枯えいこは移る世の姿
写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月
(土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲)


懐かしい青葉城跡の風景の写真をお送り致します。


「ドイツの荒廃したハイデルベルク城の写真」

2024年09月23日 | 写真
ドイツの荒廃したハイデルベルク城の写真です。
写真は三十年戦争の爪痕が残っている ハイデルベルク城です。写真の出典は、(http://gensun.org/?img=tabidachi%2Eana%2Eco%2Ejp%2Fstorage%2Fphoto%2F978%2F179901_2%2Ejpg)です。
その戦争は宗教改革の後の1618年から30年続いた戦争です。当時のドイツ人の総人口1800万人が700万人に減少し、国土を荒廃させた大戦争だったのです。

「秀吉軍に落城された滝の城の写真」

2024年09月23日 | 写真
北条氏康の三男として生まれた北条氏照は埼玉県の所沢に滝の城や、八王子の滝山城や、八王子城など数多くの城を作り関東の南部を支配していました。
しかし天正18年(1590年)に秀吉に負け切腹しました。
豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もっていました。しかし八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略され、小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、兄の氏政と共に切腹を命じられ果てました。
今日は所沢市の南東部にある滝の城の写真を撮って来ましたのでお送りいたします。高台の上にある城跡から見下ろした風景や城跡にある石碑や神社の写真です。









もう少し詳しく書きます。
天正18年(1590年)豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名の佐竹義重や宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃したのです。
小田原征伐と呼ばれるこの戦いにおいて秀吉は圧倒的な物資をもって別働隊をもって関東各地の北条氏の支城を各個撃破し3か月の末ほとんど無血で開城させました。
この時、所沢の滝の城や、八王子の滝山城や、八王子城など関東の南部の数多くの城が落城したのです。その後、関東地方の城は全て徳川幕府の直轄になったのです。

「東京の人々が忘れてしまった世田谷城、渋谷城、八王子城、片倉城、滝山城など」

2024年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の人々は忘れてしまったようですが、昔の東京には世田谷城、八王子城,、渋谷城と片倉城などお城がいろいろあったのです。
鎌倉時代の後は室町時代です。しかし室町幕府の力が弱く、その権力は遠い関東には届きませんでした。関東地方は鎌倉時代の直後からいきなり戦乱の続く戦国時代に突入したのです。その時代に関東地方では数多くの城や砦が作られたのです。現在の東京都にあった城や館は次の通りです。江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどです。東京都だけでこれだけあるのですから関東地方一円にはもっともっと数多くの城が存在していたのです。
今日は世田谷城と八王子城と渋谷城と片倉城をご紹介したいと思います。
世田谷城は、吉良氏によって築かれた平山城で世田谷に本拠を置いた奥州吉良氏が代々居を構えたのです。
貞治5年(1366年)に吉良治家が世田谷郷を領有します。応永年間(1394年 - 1426年)頃には館として整備されたと考えられています。
天正18年(1590年)、吉良氏朝の代に小田原征伐により豊臣氏勢に接収され戦役後廃城になったのです。
世田谷城阯公園内から北に向けて延びて空堀及び土塁が現存しています。世田谷城阯公園内の遺構は手が加えられていますが豪徳寺住宅脇の遺構は良く旧態を留めています。2020年に撮って来た写真を示します。
1番目の写真は世田谷城阯公園の説明板です。世田谷城は吉良氏によって築かれた平山城で世田谷に本拠を置いた奥州吉良氏が代々居を構えた城だったと書かれていました。
現在は世田谷城阯公園の正面入り口の石段だけが当時のものです。
さて八王子城は世田谷城よりずっと後の時代に作られたのです。
小田原城に北条早雲が拠点を置いてから4代目当主北条氏政は関東中央部までを支配するようになっていました。その氏政の弟の氏照が作ったのです。
しかし天正18年、1590年6月23日に落城します。秀吉に忠誠を約束した前田、上杉、真田の軍勢によって滅びされたのです。以前に行って自分で写した八王子城跡の写真です。
2番目の写真は本丸の主殿へ登る石段です。
3番目の写真は本丸の主殿を守る石垣です。
現在は本丸の主殿が存在していた場所は広場になっています。なお戦をする時の本丸は裏山の高い頂上にあり、現在そこには土塁だけが残っています。
1590年に八王子城を攻めたのは信濃から進撃してきた前田利家、上杉景勝、真田正幸の連合軍です。上州の支城を北から席巻し、6月23日には15000人の勢力で4000人が守る八王子城を速攻し夕方には落城させたのです。
八王子城が落ちた6月23日は城主の北条氏照は小田原城に居て留守であったことも敗北を早めた一因でした。
天正18年は関東、東北地方に散在していた多くの戦国大名が秀吉一派に敗北した年です。八王子城のような悲劇は関東全域の各地で起きたのです。
その後徳川家康が豊臣家を滅ぼし全国を統一し江戸幕府を開いたのです。
関東は鎌倉幕府の倒れた1333年から江戸幕府が始まった1600年までの267年間は戦乱が続き実に数多くの城や砦が作られたのです。一般の農民にとっては苦難の時代だったのです。
さて渋谷城と片倉城をご紹介いたします。
現在の東京の繁華街に渋谷城があったのです。その理由で渋谷区という名前が出来たのです。
渋谷城には平安時代末期から渋谷氏が住んでいました。城には渋谷川を水源に水堀をめぐらされていたのです。
しかし室町時代になり大永4年(1524年)に北条氏綱が関東南部を占領し、渋谷城は後北条氏の一隊によって焼かれ渋谷氏は滅んだのです。
現在、渋谷城のあった場所には金王八幡宮があります。遺構は残っていませんが、境内には城の石が1点だけ保存され展示されています。 
4番目の写真は金王八幡宮の境内に展示されている昔の渋谷城の石です。
渋谷城のあった場所に現在は金王八幡宮があります。金王八幡社は渋谷駅から歩いて行けるところにあります。しかし渋谷氏一族の動向については分かっていません。1524年に江戸城が後北条氏に奪われた時に渋谷氏一族は城を捨て滅んだのは確かな事です。
現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定した時に1612年に造られ、その後何回か修理したものです。
現在の渋谷区のこのあたり一帯の高台は渋谷氏一族の居館跡でした。東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地の黒鍬谷があって、昔は数ヶ所に涌泉があったのです。
この渋谷金王丸常光が渋谷城主になっていた時期があったため渋谷城は、金王丸城とも呼ばれ、現在の金王八幡社になったのです。
それにしても皆様は渋谷駅のそばに平安時代から渋谷城が存在していたことをご存知でしたでしょうか?
さて話は変わり謎の片倉城をご紹介いたします。
このお城は八王子の郊外にあり小高い山の上にありました。土塁や堀の遺構ははっきり残っていますが誰が作ったかさっぱり判っていない城跡なのです。
5番目の写真は片倉城の見取り図です。
頂上にある本丸跡は広場になっています。私は片倉城には以前に何度か登りました。
6番目の写真は城跡にある住吉神社でです。この写真も私が撮ったものです。
このお城は鎌倉時代よりも前の山城と推定されています。東京都指定文化財で、片倉城の城跡と周辺の優れた自然環境の保全を目的とした公園になっています。二の丸広場周辺の空堀などの遺構を見ることができます。
片倉城の詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E5%9F%8E にあります。

学校で習う日本の歴史は天皇や幕府のような中央政権に関する歴史が主なものです。今日ご紹介したような地方の歴史は教えません。自分で少し地方の歴史を調べてみると判らないことが非常に多く興味が尽きません。
歴史の闇に消えてしまった地方の武将や領主の野望が地方の歴史を作っていたのです。それは儚い夢でした。嗚呼。

今日は世田谷城と八王子城と渋谷城と誰が城主だったか分からない謎の片倉城をご紹介いたしました。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「カトリック松原教会の今日のミサ」

2024年09月22日 | 日記
今日はインターネットを通うしてカトリック松原教会のミサにあずかります。写真は今日のミサの風景です。

今日のミサの動画配信は下記です。
https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/

〒156-0043
東京都世田谷区松原2丁目28番5号
TEL. 03-3321-0941
FAX. 03-3321-0009
matsubara-church@gray.plala.or.jp