575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

父、竹中皆ニの短歌から 〜山川登美子〜 ②竹中敬一

2017年09月22日 | Weblog
薄幸の歌人、山川登美子の末弟で茨城県に住んでいた山川亨蔵は生活に困っていたようで、
持っていた登美子の遺品をすべて福井大学に売却しました。
三冊のノートなどの資料がもとになって、杉原丈夫の「山川登美子遺稿」、坂本政親の
「山川登美子全集」となって結実します。
これらのことを調べた私の同級生、四方吉郎君も福井大学の出身。四方君は「これらの
資料がもし散逸していたら、その後の杉原先生や坂本先生の登美子研究はなかっただろうし、
登美子の評価も恋に敗れた明星派の歌人にとどまっていたかもしれないのである。」
と述べています。

一番最初に触れたかった話が最後になってしまいました。
なぜ、土田数雄氏が父のところへ来たのか、ということです。それは、山川登美子の
歌碑を建設したいので、父にこれまでの登美子の歌から選んで欲しいというものでした。
そこで、父は土田氏の示された原稿から、二十首を妙出して、土田氏に提出しました。
ところが、土田氏は始めから

  「いくひろの波は帆を越す雲に笑み 北国人とうたはれにけり」

に決めていたようで、父の妙出した二十首には依らなかったのです。
「私は如何にも" いくひろの "の歌は、二十首中には採りかねたのである。" 雲に笑み "
などといふのが俗でいやであった。」
父は初期の作品だが、

  「漁火の三つ四つ五つほの見えて 青しま守の夢静なり」

を挙げ、暖地性植物群で有名な蒼島(あおしま)に歌碑を建ててはどうかと、進言しました。
しかし、土田氏は始めから決めていた"いくひろの"を採り、自ら揮毫して、昭和25年
小浜公園に登美子の歌碑を建てました。
父に云わせれば「失礼な言い様にもなるが、あのチャチな歌碑を造ってしまったのである。」
その後、平成12年に同じ小浜公園に
  
  「髪ながき少女とうまれ しろ百合に頬は伏せつつ君をこそ思へ」

の歌碑がもう一つ建てられました。

確かに、父は土田氏が選んだ登美子の"いくひろ"の歌碑には不満でしたが、登美子の
病床の下から発見されたという歌のノートを基に、土田氏の未刊の原稿をみせて
もらったことについては、「私はノートの歌を見るに及んで、登美子の歌に対する
関心を深めた。これは全く土田氏の御かげと言ってよい。」とも述べています。
敗戦間もない時期に登美子の歌碑の建設を思いつき、資金集めに奔走し、ついに、
それを実現させたこと。
焼き捨てられるところだった登美子の遺品を保管し、未発表の登美子の歌を基に彼女に
ついて書き留め、それが後の登美子研究の出発点となったこと。
これらのことに対する土田数雄氏の功績は讃えるべきだと思います。

父は晩年の登美子の歌を高く評価しています。
「病床の下から発見されたといふノート等の歌を読むに及んで、私は登美子の歌を
見直したと云ってよい。従来、明星派歌人として"恋ごろも"の歌人としての登美子の歌とは
ちがって来てゐるのだ。」として、数十首を妙出しています。

  うつつなのさかひを越えてここに来ぬおもひ静かに身はかろやかに 「ノートより」

  吾柩まもる人なくおくらるる野のさびしさをおもふけふかな 「ノートより」

登美子の父、山川貞蔵が74歳で亡くなった時、病床の登美子は父の柩を見送ることも
できなかったといいます。"父の喪にこもりて"と題する登美子の歌から

  わが胸も白木にひしと釘づけよ 御柩とづる真夜中の音

じっと、悲しみに耐える登美子の姿にシンの強い若狭の女を見る思いがします。


右下の写真が小浜公園(福井県小浜市)に土田数雄氏が建てた山川登美子の歌碑
(「若狭人物叢書」(昭和46年)より)


コメント (2)
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