私の高校時代の友人、四方吉郎氏 ( 故人 )の書いた「 若狭余録 」の中に
「 尾崎放哉と常高寺 」という記述があります 。
明治大正期、尾崎放哉は種田山頭火と並んで自由律俳句の代表的な俳人と
して知られていますが、若狭小浜での足跡は殆ど知られていないようです 。
まず、「 若狭余録 」を参考にその短い生涯 を簡単に辿っておきます 。
放哉は明治18年、鳥取市の生まれ 。一高、東大法科卒、大手の保険会社に
勤務するも間もなく退職 。妻とも別れて京都の一燈園 (奉仕活動 や懺悔の
生活で修養する団体 )に入ったが、長続きせず、神戸市の須磨寺太子堂の
堂守 に 。しかし、ここも一年くらいで去り、小浜の常高寺で色々、雑役を
する寺男 として入る 。そして、最後は小豆島にある西光寺奥ノ院 南郷庵
にて死す 。享年42 歳 。
放哉が小浜の常高寺にいたのは、僅か50日ほど 。
彼が友人の萩原井泉水( おぎわら せいせんすい )の主催する俳誌 「 層雲 」
で活躍したのは須磨寺にいた頃から晩年にかけてのことです 。
小浜でも短い滞在期間ながら、多くの句を詠んでいます 。
風がおちたままの駅である田んぼの中
背を汽車通る草ひく顔あげず
時計が動いている寺の荒れている
小浜湾 ( 福井県 )に面した市内全景 ( 昨年 夏 撮影 )
旧国鉄 小浜線の敦賀ー舞鶴間が開通したのが大正11年 ( 1922 ) 。
放哉はその3年後に京都から舞鶴経由で小浜駅に降り立っています 。
停車場は大正9年、敦賀ー小浜間が開通した時、田んぼの中にぽつんと
できたばかりでした 。
常高寺はその駅のすぐ近くで山門の前を列車が走っていました 。
やっと来たお寺は臨済宗妙心寺派の名刹ながら、当時は荒れ放題 。
大正12年、本堂が焼失し庫裏と古びた庭が残されているだけでした 。
放哉が井泉水に送った手紙の中にこの寺の状況について
「 アマリヤリスギタノト、横暴ナノトデ末寺 ( 十ヶ所バカリアリマス )
ノ和尚連中全部カラ反対サレテ 」住職は本山からその名義を取り上げ
られています 。しかし、和尚はこの寺を出ないと云っています 。
「コンナ事ハ少シモ知ラズニ来タ 。妙ナコトデスネ 」
と、嘆きながらも仕事に励みます 。
「朝ハ、四時起キト、五時起キガアリマス 。四時起キハ中々コタエル 。
ソレデ、台所一切カラ庭ノ草トリ、全部ヤルノデス 」
こんな日々の中で句が生まれます 。
どろぼう猫の目とにらみあっている自分であった
遠くへ返事して朝の味噌をすっている
蛙たくさん鳴かせ灯を消してねる
小さな橋に来て 荒れる海が見える
波音淋しく三味やめさせている
放哉が寺男として働いていた常高寺は海辺にも近く、この辺りに
色町がありました 。千本格子の家々が軒を連ね、三味線の音が少し離れた
とこでも聴こえてきます 。
多分、放哉も庭仕事の時など三味の音が聞こえてきたのでしょう 。
尾崎放哉の代表作 せきをしても ひとり
私も一人 。コロナ禍 、部屋で はばかることなく思わず咳 を 。不安です 。