575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「 詩歌に見る望郷、若狭 」 ⑷ 尾崎放哉 (おざきほうや )と小浜   竹中敬一

2020年06月02日 | Weblog


私の高校時代の友人、四方吉郎氏 ( 故人 )の書いた「 若狭余録 」の中に

「 尾崎放哉と常高寺 」という記述があります 。

明治大正期、尾崎放哉は種田山頭火と並んで自由律俳句の代表的な俳人と

して知られていますが、若狭小浜での足跡は殆ど知られていないようです 。


まず、「 若狭余録 」を参考にその短い生涯 を簡単に辿っておきます 。

放哉は明治18年、鳥取市の生まれ 。一高、東大法科卒、大手の保険会社に

勤務するも間もなく退職 。妻とも別れて京都の一燈園 (奉仕活動 や懺悔の

生活で修養する団体 )に入ったが、長続きせず、神戸市の須磨寺太子堂の

堂守 に 。しかし、ここも一年くらいで去り、小浜の常高寺で色々、雑役を

する寺男 として入る 。そして、最後は小豆島にある西光寺奥ノ院 南郷庵

にて死す 。享年42 歳 。


放哉が小浜の常高寺にいたのは、僅か50日ほど 。

彼が友人の萩原井泉水( おぎわら せいせんすい )の主催する俳誌 「 層雲 」

で活躍したのは須磨寺にいた頃から晩年にかけてのことです 。

小浜でも短い滞在期間ながら、多くの句を詠んでいます 。


  風がおちたままの駅である田んぼの中

  背を汽車通る草ひく顔あげず

  時計が動いている寺の荒れている




小浜湾 ( 福井県 )に面した市内全景 ( 昨年 夏 撮影 )


旧国鉄 小浜線の敦賀ー舞鶴間が開通したのが大正11年 ( 1922 ) 。

放哉はその3年後に京都から舞鶴経由で小浜駅に降り立っています 。

停車場は大正9年、敦賀ー小浜間が開通した時、田んぼの中にぽつんと

できたばかりでした 。

常高寺はその駅のすぐ近くで山門の前を列車が走っていました 。

やっと来たお寺は臨済宗妙心寺派の名刹ながら、当時は荒れ放題 。

大正12年、本堂が焼失し庫裏と古びた庭が残されているだけでした 。

放哉が井泉水に送った手紙の中にこの寺の状況について

「 アマリヤリスギタノト、横暴ナノトデ末寺 ( 十ヶ所バカリアリマス )

ノ和尚連中全部カラ反対サレテ 」住職は本山からその名義を取り上げ

られています 。しかし、和尚はこの寺を出ないと云っています 。

「コンナ事ハ少シモ知ラズニ来タ 。妙ナコトデスネ 」

と、嘆きながらも仕事に励みます 。

「朝ハ、四時起キト、五時起キガアリマス 。四時起キハ中々コタエル 。

ソレデ、台所一切カラ庭ノ草トリ、全部ヤルノデス 」

こんな日々の中で句が生まれます 。


  どろぼう猫の目とにらみあっている自分であった

  遠くへ返事して朝の味噌をすっている

  蛙たくさん鳴かせ灯を消してねる

  小さな橋に来て 荒れる海が見える

  波音淋しく三味やめさせている


放哉が寺男として働いていた常高寺は海辺にも近く、この辺りに

色町がありました 。千本格子の家々が軒を連ね、三味線の音が少し離れた

とこでも聴こえてきます 。

多分、放哉も庭仕事の時など三味の音が聞こえてきたのでしょう 。


尾崎放哉の代表作 せきをしても ひとり

私も一人 。コロナ禍 、部屋で はばかることなく思わず咳 を 。不安です 。

コメント
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