575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

忘れられない人③ー 作家・宇野千代 ー竹中敬一

2020年06月30日 | Weblog


私は昭和 61年、テレビ局在職中、「 淡墨の桜よー宇野千代と子供たちー」

というドキュメンタリー番組を手がけました。

宇野千代 ( 1897 〜 1996 )は小説家としてばかりでなく、着物デザイナーなど

多才な人 、作家の尾崎士郎や画家の東郷青児らとの恋愛、結婚、離婚と話題も

多く、その経験をもとにした自伝「 生きて行く私 」がベストセラーになった

のはまだ、記憶に新しいところです 。

宇野千代は昭和42年、初めて岐阜県本巣市根尾にある薄墨桜を見に行った時、

昭和34年の伊勢湾台風で見るも無惨な姿になっていたのを憂い、当時の平野

岐阜県知事らに働きかけるなどして薄墨桜の再生、保護運動に乗り出します 。

この活動が縁で出雲の子供たちと交流するようになりました 。

番組では薄墨桜に寄せる優しい心根を宇野千代と子供たちとの交流を通じて

描いてみようと思いました 。

この時、宇野千代さんは89歳 。

しかし、まだまだ好奇心旺盛で女性のマネージャーの方と根尾谷まで来られ

ました 。平野知事はすでに引退して東京に住んでおられましたが、ご自宅

でインタビューしたのを覚えています 。

取材が進んでいくうちに、宇野さんのご自宅での模様を撮ってもよいという

とになりました 。

同席した女性のマネージャーの方が宇野さんから話を引き出すのが上手く、

ついに宇野さんは子供の頃にかえって、童謡を歌い出しました 。

因幡 ( いなば )の白兎 ー 大黒様 ー

  大きな袋を肩にかけ

  大黒様が来かかると

  ここに因幡の白兎

  皮をむかれて まるはだか

  ……

89歳とは思えぬ歌声 。いつまでも純粋で若々しいお姿が忘れられません 。


昭和61年の夏、宇野千代さんは子供たちとの約束どおり、出雲を訪れました。

私たちも東京から同行させてもらいました 。

島根県出雲市立今市小学校4年2組の教室では子供たちが宇野さんを大歓迎 。

子供たちの矢継ぎ早の質問に宇野さんついにご自分の半生を語り始めました 。

「 若い頃、私、伊豆の旅館に泊まっていた梶井基次郎という作家のいる部屋へ

梯子で2階から忍び込んだの。」子供の前でも、止まりません。

「私は" 駆け出しお千代" というの。何事にも駆け出して行くクセがあるの。

時々、悪いことにも駆け出して行ったけど、皆さんも、いいことは駆け出して

行ってください」


この予想外のやりとりに、私は当初、頭の中で描いていた構成を大幅に変え、

この会話の場面を最大限、番組で生かしました 。

結局、薄墨桜にことよせて、「駆け出しお千代」の生き方を描いた番組になりました 。





昭和61年「 淡墨の桜よ 〜 宇野千代と子供たち 〜 」制作中、
宇野千代さんから頂いた自著 。
最近まで自筆のサインがあるのを知りませんでした 。
コメント (1)
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