575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

問題です。   遅足

2020年08月13日 | Weblog

栴檀の同人句会で、特選に選ばれた句がふたつ。

梅雨深し緊急メール文字化けて    典子

父の忌の戦記に添へるバナナかな   久栄


梅雨深し緊急メール文字化けて 

には、ただ先生から注文がついています。
最後の 「て」 はダメ。取るくふうを!


一体、なぜダメなのでしょう?
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ひとしきり烏騒ぎて大夕焼け  能登

2020年08月11日 | Weblog

烏が群になってカァカァ鳴いたあと、真っ赤な夕焼けの空に飛んでいく。
好きな光景が目に浮かびます。と竹葉さん。

童謡に歌われた「七つの子」の世界。
「夕焼け小焼け」とセットになってひとつの美しい世界をつくってきました。

一方、あちこちにいたづらをしている烏、最近は人も恐れない。
夕焼けの赤と烏の黒が絵になっている。と泉さん。

こちらは今のカラスの姿。能登さんの詠った世界。
カラスは人間とともに生きてきた鳥。
最近の評判の悪さは人間自身の生活が変わったため。
そんな騒ぎをよそに夕焼けは太古の美しさです。
反省すべきは人間の方かもしれませんね。(遅足)
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八月や爆弾坂の死者十二    千香子

2020年08月10日 | Weblog
 
守山区志段味に爆弾坂と呼ばれる小さい坂があります。
1945年3月25日未明、B29が名古屋へ空襲の帰りにも爆弾投下。
不幸にも12名の死者が出たのです。
この地区の人はこんな田舎に空襲があるとは思わなかったそうです。

ところで、志段味中学校の生徒が地域にちなんだカルタを作ったことがあり
そのなかに「爆弾坂」も取り上げられていました。



写真は絵札。
言葉の方は「負の遺産。歴史に残る大事件。ばくだん坂は志段味の記憶」

昭和20年(1945)3月24日の深夜から25日の未明にかけてアメリカ軍による空襲があった。
B29爆撃機から21個の爆弾が落とされ、被害は12 名死亡・重傷1名・家屋の全焼一戸・全半壊五戸に及んだ。
場所は富士塚から下寺林にかけての坂である。
その悲惨な事件を忘れないために、その坂を「ばくだん坂」と呼んでいる。

死者の出た顛末はタイルに印刷され、遊歩道のベンチに貼られています。

  軒下の土に臥す母虫の息泣くなの声に泣いてすがりぬ

短歌に詠んでいらっしゃるのが春日井市の水野かよ子さん。
歌集「爆弾坂」によれば、母と弟と3人で防空壕に避難しましたが、
母が自分たちの為に布団を取りに外に出て、爆弾に当たり死亡。
自分が引き止めなかったせいだと悩んでいたそうです。

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目には青葉 山ほととぎす 初鰹 <素堂>

2020年08月09日 | Weblog


山口素堂。江戸時代の俳諧師。本名は信章<しんしょ
う>。通称は勘兵衛。俳号は素仙堂、来雪など。サン
トリーのCMで有名な山梨県白州町の生まれ。家業は
甲府の魚町で酒造業。しかし、家業を弟に譲り20歳
で江戸へ向かいます。

江戸では、林春斎<はやししゅんさい>より漢学や算用
を学び仕官の道へと進みます。しかし、職を辞し京都
に居を移し、茶、書、能、歌、詩など、当時のあらゆ
る芸術を習得していきます。

素堂は松尾芭蕉が親友。そのため、江戸に帰った素堂
は深川の芭蕉庵に近い上野の不忍池に居を構えます。
芭蕉も幅広い知識を待つ素堂と接し、俳句作りにおい
て多大な影響を受けたといわれています。そして、隠
遁生活と称しながらも「葛飾風」という排風を確立。
「江戸三吟」は芭蕉との合作です。

ところで、帰郷した素堂。甲府代官の櫻井政能より川
の開削工事を依頼され、山口堤という堤防を築いたと
いう逸話があります。しかし、素堂は俳諧師。もし実
話なら、素堂は土木建築家といった顔を持ち合わせて
いたことになります。

山梨の歴史文化館に、弟子たちが素堂の性格について
記した「素堂句集」が所蔵されています。「素堂は記
憶力に優れ、相手の身分によって分け隔てることなく
応接する。そして内容について他言しない」社交的で
マルチな芸術家ともいえる素堂。しかし、その俳句は
現世の否定や自己疑視を核とした隠者文学というカテ
ゴリーに括られます。やや不思議な印象。山口素堂。
享年75歳。下記は辞世の句。

「初夢や 通天のうきはし 地主の花」

写真と文<殿>
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魂の ゆらぎ灯りて 吉田川 <殿>

2020年08月08日 | Weblog


岐阜県郡上八幡。徹夜踊りで知られる小さな街。
この郡上市には「古今伝授の里」があります。

古今伝授の里フィールドミュージアム
http://www.kokindenju.com/index.html

古今伝授とは、古今和歌の歌学を口伝や切紙を
師から弟子へ伝授すること。室町時代の東常縁
<とうのつねより>は郡上を治めた領主。また和
歌の功労者でしょう。

古今和歌は、紀貫之が醍醐天皇の命に従い作ら
れた平安時代の勅宣和歌集です。しかし、成立
後、歌の解釈についてさまざまな論議が巻き起
こり乱れが生じます。

東常縁<とうのつねより>は、藤原定家の二条流
を享受。代表的な歌人たちに学び、その得た知
識を切紙により連歌師の宗祇に伝えます。この
切紙により和歌の古今伝授という形式が確立し
ました。

古今伝授を学んだ細川幽斎。関ヶ原の戦いで城
を包囲されます。しかし古今伝授を得た学識者
を失うことを恐れた後陽成天皇が、勅命を出し
幽斎は命を救われます。合戦においても古典文
学を大切にした証。日本人として誇らしく感じ
ます。

古今伝授の里には、和歌文学館、東氏の記念館、
短歌図書館など、さまざまな文化施設がありま
す。なお、郡上市はコロナ対策として愛知、三
重からの来訪者に限り、歓迎しているようです。
この機に訪ねてみるのもよいかもしれません。

今夏は、徹夜踊りはなく街を流れる川のイルミ
ネーションが開催されるとの由。こうした告知
にも俳句が添えられています。郡上八幡。ちょ
っと粋な街といった感。


文と写真<殿>
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空蝉やしずかに季節めぐらせて    遅足

2020年08月07日 | Weblog
 
今日、8月7日は立秋。暦の上では秋です。
体感的には夏真っ盛り。これから暑さ本番です。
しかし、立秋を迎えると、この暑さがいつまでも続くわけではなく、
秋に向かっているんだという感じになりませんか。
産声をあげた秋がこれから育っていくという感じです。
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75年  麗子

2020年08月06日 | Weblog
広島に原爆が投下されて今日で75年です。
先ほど平和式典をテレビで見て8時15分に黙祷を捧げました。今年は新型コロナウイルス感染予防のため出席者の数も制限され、ソーシャルディスタンスをとっての式典。75年間は草木も生えないと言われた広島でしたが、緑にあふれせみしぐれの中での式典でした。

私は毎年、「平和への誓い」の子供たちの真剣な声に耳を傾けています。
きちんと距離をとって登壇した広島の小学6年生の男女。今年は代表の男の子と女の子の間にアクリル板がありましたが、息もぴったりで、この日のためにどれだけ練習したかと思うと終わって目頭が熱くなりました。
「原子爆弾は人間が作ったものだから人間の意志で廃止することができる」というメッセージ。しかと受けとりました。

        せみしぐれ広島の子らにふりそそぎ  麗子
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補聴器のなかよりあふれ蝉しぐれ  遅足

2020年08月05日 | Weblog
8月の初旬の朝、補聴器を右の耳に。
すると私には聞こえなかった蝉しぐれが・・・。
その日の前まで蝉の声はあまり聞こえませんでした。
カラスや猫が蝉の幼虫を狙ってやってきていました。

その日は今年初めての蝉しぐれ。
蝉声はやがて庭いっぱいに広がっていきます。
カラスも猫も姿を見せません。しばらくは蝉の天下です。


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夏至空に日食仰ぐ晴れ間かな  泉

2020年08月04日 | Weblog

昔から人類は空を見上げてきました。
この不思議な空間から季節を感じとり、
夏至、冬至、春分、秋分などの太陽の動きを知り、
農作物を植える時期や収穫の時期などを決めてきました。
そしてペルーのインカ帝国、メキシコのアステカ王国、
エジプトのアブシンベルなどの文明を育ててきたのです。
遺跡を見てもいかに太陽が深く関わっていたかわかります。

今年の6月21日は日食が見られる日でした。
梅雨の時期の夏至に見られるのは江戸時代以来。
ということで話題になっていました。

前回の日食は2012年5月21日に見ることができました。
しかも、名古屋は6時18.4分から8時57.5分の間で、
金環日食は7時30.8分から7時33.1分まで。
よく晴れていて感動しながら見たのを覚えています。

2020年6月21日は天気がよくなく曇り空でしたが、
綾部(京都北部)に用事があり、午後到着しました。
よい天気ではなかったけれど太陽が出ていたので
部分日食を観察することができました。

日食ばかりでなく、晴れた夜は、星や月を見るのが楽しいのです。
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復活したニイニイゼミ   竹葉

2020年08月03日 | Weblog

夏になってウォーキングは早い夕食を終えて日没過ぎにかけて梅雨の合間に行っています。
行きはまだ西日が差す中を歩きますが、帰りには陽が陰ってきます。
7月の半ば帰りの桜並木で薄暗がりの中チージーと何かが鳴くのが聞こえました。
もう秋の虫が鳴き出したのかな?
それともアブラゼミかな?と気になっていました。
アブラゼミは7月24日に初鳴きしたことがあったのを覚えていますし、
鳴き方も似てるけど、それほど大きくないから何かな?と思っていた時、
3センチ弱の小さい蝉の死骸が歩道に落ちていました。
子や孫が小さいうちは私も「虫博士」だったのに娘に席を譲り、
ニイニイゼミと教えてもらいました。


                               ニイニイゼミ

子供の小さいうちは図鑑でしか見てなかったと思います。
それもそのはず、ニイニイゼミの幼虫は湿気が必要で、
乾いた土の多い公園より鬱蒼と茂った木の下の土のほうを好み、
空蝉は泥をかぶって出てくるから見分けがつくそうです。
また、一時関東は雨が少なかったのか姿を見せてなかったのが、
2008年位からまた復活し今は全国的に見られるようになってきたそうです。

そろそろ梅雨明けと共にアブラゼミの声が大きく聞こえることでしょう。
でも暗くなった頃今ならまだニイニイゼミの10秒位の息の短い鳴き声が聞こえるでしょう。
私も桜の幹の下の方にニイニイゼミの空蝉を見つけて句を作りたいと思っています。

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山肌に 梟のこげ 透きとほる <一茶くん>

2020年08月02日 | Weblog


前回、ご紹介した連歌。複数で詠み繋げていく連歌の中に
滑稽な句を織り交ぜる余興の部分があります。これを俳諧
といい、この俳諧を分離して成立させたのが松尾芭蕉です。

明治となり、政岡子規は俳諧に新しい風を吹きこみます。
明治は造語の時代。外国語に翻訳してもわかる造語で俳句
を詠んだという逸話もあり、もしかすると英国に留学した
友人の夏目漱石に相談したかもしれません。ちなみに、子
規は野球好き。そのため、現在使われている野球の用語も
子規の造語です。

写生を俳句の美とした正岡子規。彼の没後、俳句の流れは
高浜虚子と河東碧梧桐のふたつにわかれます。虚子は「ホ
トトギス」を主宰。伝統的な季語や定型を守ります。碧梧
桐は精緻な写実から生まれる詩情を目指します。

客を待つ 夏座布団の 小ささが <虚子>

撫子や 海の夜明けの 草の原 <碧梧桐>

ホトトギスは保守的な作風。水原秋桜子はさらに主観的な
叙情を目指し「馬酔木」<あせび>を創刊。こうした新興的
な俳句から心象風景へ傾倒した、石田波郷らのグループが
生まれます。ところで、中村汀女や星野立子などの女性俳
人。いまの夏井氏の先駆けといえるでしょう。

瀧落ちて 群青世界 とどろけり <秋桜子>

雀らも 海かけて飛べ 吹き流し <波郷>

単衣着て 風よろこべば 風まとふ <汀女>

重き雨 どうどう降れり 夏柳 <立子>

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」切れ字の好例とされる句。
上五の「古池や」の後に訪れる一呼吸の休みで、読み手
は作者の置かれている季節や周囲の状況を瞬時に想像し
ます。まさに俳句の醍醐味といってよいでしょう。最後
に「一茶くん」が詠んだ句をご紹介。実はタイトルは彼
の句。彼はAIで12万の俳句を深層学習済み。

この場をお借りして会員先輩諸氏に「暑中お見舞申し上
げます」


写真と文<殿>








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ときは今

2020年08月01日 | Weblog


「連歌と盗人は夜がよい」複数で和歌を詠み繋いでいく連歌。
静かで邪魔の入らない環境を意味しているといわれています。
連歌は、奈良時代から平安時代に成立した万葉集などの和歌
から派生して生まれました。

大伴家持と尼僧の詩歌のやりとりが連歌の最初といわれ、や
がて、複数の詠み手による長連歌<ちょうれんが>へと発展し
ていきます。鎌倉時代には100句詠みあげる「百韻」<ひゃく
いん>が成立。室町時代に最盛期を迎え、江戸時代に入り詩歌
としての形式を整えていきます。

連歌は古風な大和言葉。もっと庶民的で自由な文芸を望んだ
松尾芭蕉により俳諧が生まれます。実は、季語を必ず使うス
タイルとなったのは、江戸時代後期から明治に入ってからの
こと。そのため、江戸時代の有名な俳句には無季語や季重な
りの句が散見されます。

話を連歌に戻します。連歌は発句、脇句、第三句で構成され
三つ物といいます。発句は連歌会の最初に宗匠や主客が詠み
主題とします。脇句は会の主催者が発句の作意に寄り添う内
容にして体言止めで終わります。第三句は、連歌の流れや方
向性を決める大切な句。そして最後に「挙句」<あげく>を記
録係の執筆が詠んで連歌は終わりとなります。挙句は挙句の
果ての語源といわれています。

俳句で重みを持つ月や花。連歌でも「定座」<じょうざ>とい
われ重要な部分。誰もが「定座」を詠むことを望み、主客や
賓客に譲ったことから「花を持たせる」という言葉が生まれ
ました。

ところで、歴史的な連歌といえば明智光秀。本能寺の変の直
前に京都の愛宕で連歌会を開催しています。この日は、土岐
氏の嫡流である光秀からスタート。座が凍りついたといわれ
ています。

「ときは今 あめが下知<したし>る 五月かな」

「この五月、土岐氏が天下に命令する」

この連歌会の顛末は、秀吉の家臣である大村由己 著「惟任退
治記」に本能寺の変より4ケ月後に記されています。そのため、
本著はプロパガンダと考えられています。しかし、謀反の予告
を人前で詠むでしょうか、光秀が誤って吐露したのでしょうか。
「ときは今」歴史ミステリーのひとつでしょう。


写真と文<殿>
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