「連歌と盗人は夜がよい」複数で和歌を詠み繋いでいく連歌。
静かで邪魔の入らない環境を意味しているといわれています。
連歌は、奈良時代から平安時代に成立した万葉集などの和歌
から派生して生まれました。
大伴家持と尼僧の詩歌のやりとりが連歌の最初といわれ、や
がて、複数の詠み手による長連歌<ちょうれんが>へと発展し
ていきます。鎌倉時代には100句詠みあげる「百韻」<ひゃく
いん>が成立。室町時代に最盛期を迎え、江戸時代に入り詩歌
としての形式を整えていきます。
連歌は古風な大和言葉。もっと庶民的で自由な文芸を望んだ
松尾芭蕉により俳諧が生まれます。実は、季語を必ず使うス
タイルとなったのは、江戸時代後期から明治に入ってからの
こと。そのため、江戸時代の有名な俳句には無季語や季重な
りの句が散見されます。
話を連歌に戻します。連歌は発句、脇句、第三句で構成され
三つ物といいます。発句は連歌会の最初に宗匠や主客が詠み
主題とします。脇句は会の主催者が発句の作意に寄り添う内
容にして体言止めで終わります。第三句は、連歌の流れや方
向性を決める大切な句。そして最後に「挙句」<あげく>を記
録係の執筆が詠んで連歌は終わりとなります。挙句は挙句の
果ての語源といわれています。
俳句で重みを持つ月や花。連歌でも「定座」<じょうざ>とい
われ重要な部分。誰もが「定座」を詠むことを望み、主客や
賓客に譲ったことから「花を持たせる」という言葉が生まれ
ました。
ところで、歴史的な連歌といえば明智光秀。本能寺の変の直
前に京都の愛宕で連歌会を開催しています。この日は、土岐
氏の嫡流である光秀からスタート。座が凍りついたといわれ
ています。
「ときは今 あめが下知<したし>る 五月かな」
「この五月、土岐氏が天下に命令する」
この連歌会の顛末は、秀吉の家臣である大村由己 著「惟任退
治記」に本能寺の変より4ケ月後に記されています。そのため、
本著はプロパガンダと考えられています。しかし、謀反の予告
を人前で詠むでしょうか、光秀が誤って吐露したのでしょうか。
「ときは今」歴史ミステリーのひとつでしょう。
写真と文<殿>